AWC            愛子(桜雪)     (10)


        
#2506/5495 長編
★タイトル (MMM     )  94/ 2/11  16:30  (193)
           愛子(桜雪)     (10)
★内容


 高見さんへ
 お変わりありませんか。僕も体だけは丈夫にできているから元気です。私たちこの
まえ長崎のオランダ村に社員旅行で行ったんですよ。みんなとても良かったって言っ
てたけど、私なんだか沈み込んじゃって。もう2度と長崎には帰って来ないつもりだ
ったのに、と思って。それで何だか辛くって。いつもは私が一番はしゃいでいるのに
暗かったからみんな私のことを変に思ってたみたい。
 高見さん、本当に元気ですか。返事が来ないから少し心配しています。でもどうせ
これ、私の一人よがりなのね。
 私、今度、40万円のシスコンを買うんですよ。やっぱり電器店に勤めているとこ
うなってしまうのね。

 私、貯金が100万円になりました。それでクルマを買おうかな、と思ったけど家
の人が『貯めときなさい』というから。
 でもクルマを買いたいな。
 私、お盆に長崎に帰ってきたんだけど、(14、15とたった2日間で福岡に帰っ
ちゃったけど、)友だちと会ったりしてばかりで高見さんの家に電話もしなかったの
ごめんなさい。今年はおじいちゃんの初盆だったから帰ってきました。いつもはお盆
も帰らないんだけど。


※(ボクのこの手紙は8月17日ごろに福岡の愛子の寮に届いたのであった。ボクが
躊躇せずにもっと早く手紙を出していればこの盆に愛子と再会できたはずだった。)





 僕は愛子からの手紙をほとんど全て捨ててしまった。何もかも捨ててしまった。そ
してとっても後悔している。いつものように。本当にいつものように。
 僕はいつも早まったことをして後悔ばかりする。僕と愛子の愛の結晶はそうして虚
しく永遠の空白のなかに消えていった。僕らの命のような(僕らの命のような)永遠
の空白のなかに。

 僕らには希望があった。それだから愛子の手紙ほとんどすべて捨ててしまった。僕
は自分の過去を彩りたかった。空想のなかで自分の過去を美しく彩りたかった。それ
で早まったことをしてしまった。


『ボ、ボクさ、この頃F1のファンになってしまって、それで僕もF1のレーサーに
なろうなって思うようになってしまった。』
 ーー敏郎さん、いつも夢のようなことばかり、敏郎さん、いつも夢のようなことば
かり。
(愛子はそう言って黙り込んでしまった。僕らの間に始めて気まずい沈黙が流れたよ
うだった。)


 僕は電話のなかで必死に叫び続けた。
『愛子、長崎に戻ってきてくれるかい。愛子、結婚しようよ。愛子、聞いているのか
い。愛子、結婚しようよ。僕は今とっても精神的にピンチなんだ。愛子、結婚しよう
よ』
『でも敏郎さん。私、結婚することなんかまだ。それに敏郎さん、敏郎さんもっと人
間的に恥ずかしくないよう立派に成長してから私に求婚して下さい。お願いします。
私、それまできっと待ってます。敏郎さん、お願いします。どうかもっと立派に成長
して下さい。もっと立派に成長して下さい。私必ず待ってますから。』
 やがて電話が切れた。黒い闇が辺りを覆っていた。死神の黒い闇だった。





 僕が河野さんと久しぶりに福岡まで来たとき僕はたしか愛子が勤めていると思うベ
スト電器の福岡本社の前をクルマで通りました。そして僕は天神で降ろしてもらって
河野さんは何の用か解らないけど2時間ぐらいしたら戻って来ると言って東の方向へ
行きました。ベスト電器の本社は天神のすぐ近くだから尋ねていってもよかったのだ
けど僕は地下街をウロウロしていい靴や洋服がないかなとメンズビギなどの店を歩き
回りました。
 僕と愛子が久しぶりに近くに居た訳だけど、僕は愛子と会うのが怖かったしまた愛
子を忘れよう忘れようと思っていたから。
 でも夜家に帰ってきてとても悲しくなってきてこの手紙を書いています。せっかく
久しぶりに愛子と会えるチャンスだったのにと思って。それに会えなくても愛子の姿
を見れたのにと思って。





 愛子へ。僕はこの頃とても言い様のない悲哀感にとらわれてしまいます。生きてい
ても仕様のない気がして死んでしまいたい気持ちになります。愛子のいる福岡まで行
けたら、とよく思います。このまえ125ccのバイクを持ってたのにそれを友だち
にあげたこととても後悔していつもの人が良すぎたと言おうか不運と言おうかそんな
ものに苦しめられています。そして自分はなんて親不孝なんだと。
 大学病院の12階から飛び降りて死のう、と何度も思います。でも親のために死ね
ないのです。あとに残された親のことを思うととても死ねないのです。
 今度留年したらどうしよう。今度留年したら死にたい、という気持ちがとても強く
、今11月24日ですが12月22日の最後の試験まで頑張り抜いて24日の判定ま
で耐え抜こうとも思っています。
 人生の勝利者になろうという気もあるにはあるんですが、毎日の生活が辛くて楽し
みがちっともなくて希望が持てなくて死にたくなります。きっと天使さまが現れる、
きっと近いうちに僕を救って下さるとても美しいとても明るい天使さまが現れると8
月9月ごろ抱いていた希望ももう12月になろうとしています。生きていて何の楽し
いこともありません。
 だから死にたくてたまりません。生きていて何のメリットもないような気がします
。僕のようなのは早く死んでしまった方が親への負担もそれだけ少なくなる訳だから
早く死んだ方が良いような気もします。
 このままじゃ死んじゃう、再生への道を見つけなきゃ、という気持ちもあります。
また、さっき、生化の実験室のドアが開いていたので中を覗いてみましたが死ねるよ
うな薬はありませんでした。ネズミの麻酔に使った薬は2階の生理の実験室にあるよ
うです。
 再生への道を見つけなければ。このままでは死んでしまう。





 愛子へ。暖かい布団のなかで夢を見ているときだけが僕の憩いのときでした。でも
その夢も悪夢に変わった今、僕を慰めてくれるものは何もありません。もはやこの世
に僕の楽しみは一つもありません。
 だから死ぬときが来たような感じがしないでもありません。
 愛子。やっぱり僕はすべてに敗れ去った青年だ。26歳を目前に控えてすべてに敗
れ去った青年だ。





 愛子、僕は生きた。懸命に生きた。愛子が福岡に去ってから3年近く懸命に生きた
。でももう限界だ。僕の命はあと5日ぐらいしかないよ。クリスマスの夜に(たぶん
白い雪の散らつく夜に)僕は死んでゆくんだ。周囲の同情をいっぱい浴びながら。





 愛子へ。僕が今日も含めてあと5日しか生きられないことを思うととても残念です
。後に残された父や母、そして駆けつける姉の嘆きなどを思えば胸が締めつけられる
ような思いにとらわれます。
 でも僕は今日も含めてあと5日しか生きられない人間です。僕の人生は敗北の連続
でした。すべて失望と落胆に満ちていました。
 理想が高すぎたのかもしれません。僕はあまりにも夢見る青年だったのかもしれま
せん。
 でも全てに敗れ去った今、僕の行くところはもう霊界しか残されていません。明日
の夕方で試験は終わります。僕にはヤル気が起こりません。そして死界へと死神が手
招きで僕を迎えているようです。
 僕は全てに敗れ去った青年です。もう生きる意欲を喪くした青年です。あと5日後
ではなく今日、死ぬかもしれません。僕はもう疲れきりました。
 疲れた。そして全てに敗れ去った。





 愛子。愛子との哀しい思い出を胸に秘めて僕はこうやって霊界へ旅立ってゆくこと
を思うと悲しいです。愛子の手紙を全て黒い大きなゴミ袋の中に入れて捨ててから2
ヶ月が経った今、僕は留年してしまい今森のなかで死んでゆこうとしています。僕は
この寒い森のなかで一人で死んでゆくんですね。一人ぼっちでとても淋しく。
 でもこれが僕の運命だったんだと、僕の悲しい運命だったんだと思えなくもありま
せん。僕は小さい頃からとても哀しい運命の持ち主でした。だからこうやって死んで
ゆくのは今まで育ててきてくれた父や母にとても申し訳ありませんけどでも僕の運命
なんだと仕方がないんだとあきらめています。
 愛子は幸せな人生を送って下さい。僕の分まで幸せな人生を送って下さい。





 愛子へ。僕は失意の果てのうちに正月を迎えつつあります。このまえ3度目の留年
が決まりました。僕はやはり医者には向かない人間なのかもしれません。
 僕は一度は、この世の非常さに決意して、柔道の帯を持って生協の裏の森の中へと
入ってゆきました。でも丘の上から眺め渡された家々の灯りが綺麗だった。家庭の暖
かさというものを思い出して…そして父や母の愛を思い出して僕は柔道の帯をポイッ
とそこらへんに投げ捨てました。今も濡れてると思います、その柔道の帯は。夜露に
濡れて。
 愛子は福岡に彼氏ができたんだろう。だから手紙も電話も寄こさなくなったのだろ
う。それとも僕が以前酒を飲んで電話を掛けたとき僕が嫌いになったのかな。(僕は
実際はあのときほんの少ししかお酒を飲んでいなかった。)





 愛子、僕は眺め渡したよ。戸石の清掃場の丘に大きな大きなゴミの山を見つめなが
ら立ちつくしたよ。僕らの青春時代の結晶だった愛子の手紙と僕の手紙の下書き。す
べてすべてもうなくなっていた。あのゴミの山の奥の奥につまているのかもしれない
けど。
 僕は泣きながら立ちつくしていた。そして柔道の帯があればこのまま森の奥に入っ
ていって首を括って死のう、と考えていた。また、手首を切って死ぬのも楽な死に方
のような気がして僕はジャンバーのポケットの中をまさぐった。
 孤独だった。愛子から電話はかかって来ず、僕は2時頃フラッとこのまえ福田から
無理矢理ヘルメットとグローブ付きで8万5千円で買った400のGSXに乗ってこ
こまで来た。
 愛子はあれから寮に帰らずますっぐ長崎へ帰ったのかな。たぶんそうだろうと思っ
ていた。
 敗れ去った。僕は敗れ去った。11月の中頃から一ヶ月あまりも毎日のように県立
図書館に通ったことはいったい何になってしまったんだろう。僕は少なくとも図書館
の中では猛勉強していた。僕はたしかに猛勉強していたのに。
 現役の頃、九大医学部に落ちたときのような敗北感だなと思っていた。僕は森の中
を枯れ葉や枝を踏みしめながら歩き続けていた。
 愛子の手紙を捨ててしまったことも僕の大きな敗北感の一つになっていた。僕はも
う破れかぶれで死んじまおう、と思っていた。






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