#2458/5495 長編
★タイトル (AZA ) 93/12/31 9:41 (182)
ダイイチシボウのこと <14> 永山
★内容
目が覚めると朝だった。明日は予定が入っていないからということで、借り
てきた本をなるだけ読んでやろうと思っていたんだが、途中で挫折してしまっ
たらしい。感心にも、本をきちんと閉じて、机にもたれ掛かって眠っていた。
いくら涼しい夏だからといって、さすがに汗でべとついていたので、起きて
すぐに、浴室に直行した。シャワーがあってよかったと思う。
少し熱いぐらいに調節し、頭のてっぺんから思いっ切り浴びる。まだ、完全
には目が覚めていないのが、かえって心地よい。熱が肌を徐々に伝わってきて、
身体の芯に到達したとき、はっきりと目が覚める。
上がってから、身体にバスタオルを巻き付ける感じにして、水滴を拭き取る。
髪の毛は、就職活動を続けている関係もあって、短くしてはいるが、やはり乾
かすのには時間がかかりそうだ。ドライヤーを使うと、また汗をかいてしまっ
て、元の黙阿弥になりかねないので、タオルを巻き付けるだけですませよう。
そのとき、目がふと洗面台の鏡に行ってしまった。この頃は、鏡を避けるよ
うにしているのだけれども、見ずにはいられない。今朝も、どこか違う印象を
受けてしまう。タオルを髪に巻いているせいだ、と思いたい。
「あーあ」
吹っ切るように息を吐き出すと、僕は自分の歯ブラシに歯磨き粉を着けた。
粉でもないのに、どうして歯磨き粉という言葉が今でも通用しているんだろう
と、つまらないことを考えながら、歯磨きを始めた。ぼーっとしていると、よ
く舌や口の中を噛んでしまうのだが、今なら目が覚めているから、大丈夫みた
いだ。
そんなことをやっと終えて、僕は母の前に姿を現した。
「……おはようございます」
何も言うことが見つからなかったので、そう挨拶した。
「あら、おはよう。今朝は遅いなと思ってたら、急に起き出して、シャワーに
直行するもんだから、びっくりするじゃない」
母は、食パンをオーブントースターに入れながら、笑いかけてくる。何にし
ても、機嫌がよさそうなのは、いいことだ。
「何時?」
母に尋ねた訳じゃなく、自分でテレビを見た。テレビは朝のワイドショーを
やっており、画面の端には時刻が表示されてある。九時に近かった。
「何がいい?」
母の声が、テレビの音声に混じって、耳に届いた。僕はリモコンでテレビの
音量を小さくしながら、母に向かって答える。
「紅茶、ミルクなし。卵一個のスクランブル。ハム抜きね」
「はいはい」
まるで、わがままっ子のようだが、普段は朝食は、自分で作ることの方が多
い。就職活動をしている間は、こうしてくれると、母の方から言ってきてくれ
たのだ。せいぜい、甘えさせてもらおう。
五分ほど待っていると、オーブントースターがチンと鳴った。それに呼応す
るかのように、絶妙のタイミングで、やかんがけたたましい音を立てた。台所
を見やると、母は慌てず騒がず、順序よくこなして行く。
「はい、お待たせ」
目の前に差し出されたお盆には、トースト一枚に白いカップに入った紅茶、
小皿に入ったスクランブルエッグがあった。漂ってくる香りは紅茶の物。思わ
ず、鼻をひくつかせてしまう。
「今日は何もなかったんだっけ?」
母はそう聞いてきてから、同じ白いカップで紅茶を一口含んだ。就職活動の
ことだ。これに触れられると、ちょっと気が引けるので、返答は自然と短くな
ってしまう。
「うん」
「気にせずに、頑張って、じっくりと決めたらいいのよ」
「分かっている。また明日から、頑張るから」
僕は喋れない状態を作るために、トーストを思い切り頬張った。がっつき過
ぎたか、喉に引っかかりそうになったので、すぐさま紅茶で流し込む。
<それでは次の話題です>
テレビの画面の中で、若いけれど平凡な顔のアナウンサーが言った。僕の目
から見て、彼女のファッションセンスはいいとは思えない。彼女の服装が、彼
女自身の意志による物なのか、衣装担当の手による物なのかは知らないけれど。
<四つ目の北村雅子ちゃん殺しが発生しましてからおよそ四週間が経とうとし
ております、連続幼女殺害事件。捜査は一向に進展を見せていませんでした>
僕は内心、どきりとしてしまった。表情に変化が出なかったかどうか、それ
を母に気付かれなかったかどうかが気になって、僕は母の方を盗み見た。幸い、
母はテレビに没頭している様子だった。
「嫌ねえ。まだ捕まらないんですって」
母の声がしたが、正確には聞き取れなかった。僕の気持ちは、誰よりも強く
−−そう、最初の三人の女の子を殺した犯人を除いては誰よりも強く、テレビ
に集中していたことだろう。そうか、あれからもう四週間近くになるのか。
<犯人は沈黙を守っていましたが、ところが、ここに来て、ある行動を起こし
たのです。静岡からのレポート>
え? 何を起こしたんだ。起こすとしたら、もう一人の『真』犯人だ。そう
思って、テレビの方に身を乗り出そうとしたら、アナウンサーは言葉を続けず、
画面が変わると同時に大きな白文字のテロップで、
<連続殺人犯が新たな犠牲者を求めた? 小三女の子に声をかけた不審な男>
と出た。
スタジオにいた女性とは別の、やや年をくったレポーターが、悲壮な表情を
作って、マイクを口元に持って行っている。
彼女の口調はいつも通りのものだったので省略するが、要するに一昨日、三
人目の被害者の遺体発見現場と四人目の被害者の遺体発見現場とを結んだ直線
上、そのちょうど中程の町で、地区の小学校に通う三年生の女の子が、不審な
若い男に声をかけられたということだった。
話しかけられた小学三年生の女の子が言うには、男の風貌はきれいに髪を揃
えた二十歳台の若者で、日曜の夕方四時半頃、駅近くの公園で、友達を待って
いる間に声をかけられたらしい。
若い男は駅の方角から歩いて来たらしく、顔を隠すように、薄い色のサング
ラスをしていた。女の子は、
「子供服のモデルをやってみたくないかい? 話をしたいから、ちょっとすぐ
そこまで、来てみない?」
と、その男から声をかけられたが、母親から知らない人について行かないよ
うにと言われていたので、拒否する態度を続けていた。
その内、その子の友達が待ち合わせにかけつけて、最初の女の子が友達の方
へと駆け寄って行くと、男はあきらめたように、
「残念だったね。じゃ、また」
と、言葉を濁して駅の方へと足早に去って行ったという。
「それだけのことで、関係あるって分かるもんなのかしら」
訝るような口ぶりで、母がぽつりと言ったので、
「そうだよね」
と、僕は同調しておいた。頭の中では、そのときのアリバイは成立するだろ
うか、と考えながら。
日曜日の四時半ぐらいなら、確か、名古屋の方での合同会社説明会に行って
いたはずだ。いくつかの企業で名前を書くようなこともしたから、アリバイは
あることになろう。こんな心配をするまでもない、と思いつつも、考えずには
おられなかった。
「それにしても、今度の現場にしたって、これまでの発見現場にしたって、こ
こからそう遠くはないわよね。気を付けなさい、あんたも」
本気なのか、母はそう言った。
「何を言ってんの? 犯人が狙ってるのは、小さな女の子だけだよ」
僕は言い返す言葉が、おどおどした響きを持ってしまってないかが恐かった
が、どうやら大丈夫みたいだった。
「そうじゃなくて、万が一にも、小さな女の子がそれらしき男に声をかけられ
ているのを見るかもしれないってことよ。そのときは、自分のことも注意しな
がら、すぐに人を呼びなさいよ」
「分かってるって」
その台詞を朝食終了の合図とばかり、僕は席を立った。
今日は一日、大人しく、借りてきた本を読んですごそうと思う。
夜になったら、専門書・参考書ばかりを読み続けるのが、いい加減、辛くな
ってきた。当り前と言えば当り前だろう。今日一日、その類の本を読むか、そ
うでなければテレビを見ていただけのようなものなんだから。
僕は本を閉じ、椅子に座ったままの格好で、大きく伸びをした。ほんの少し、
車輪付きの椅子が滑りそうになって、ちょっと慌てる。
朝のワイドショーでやっていたあのニュース、本当に連続殺害犯の仕業なん
だろうか? 自然と頭の中は、このことで占められた。
これまで三件の殺人の犯人は、僕が−−いや、あれは「あいつ」がやったん
だ。あいつが犯した殺人事件のことを、どう考えているのだろう。
同じような仲間が出て来たといって、喜んでいるだろうか? まさか。この
連続殺人犯は、頭のおかしいようなところもあるかもしれないが、そこまでは
思っていないだろう。
こういう犯罪を引き起こす人間は、たいていが自尊心が強く、普段の生活に
おいて自分が認められないがために、殺人を起こす。犯罪心理学者という肩書
の持ち主が知ったかぶって、何かの週刊誌でそんな意見を述べていたのを、読
んだことがある。もし、これが本当に当てはまる説だとすれば、自分と似たよ
うな人間の出現を喜ぶどころか、逆に、忌み嫌うのではないだろうか。犯人は、
自分のプライドを充足させるために、殺人をやったのなら、真似をされるのは
嫌うものだろう。
一歩進めて、うがった考え方をすれば、真似をされたが故に、喜びを感じる
こともあるかもしれない。歌手やタレントは、物まねされるようになって、初
めて一人前だという話もある。これを殺人犯に当てはめてよいものかどうか、
極めてあやふやだが。
別の犯罪心理学者が言うには、このような犯罪は、同じ年頃の女の子に相手
にされない若者が、自分が優位に立てる相手にまで女性の年齢を下げ、相手を
征服しようとした末に起きるものだ、ということになるらしい。今度の犯人が
そういった奴の場合、物まねされたことに腹を立てるだろうか? 腹を立てる
とすれば物まねされたことではなく、むしろ、自分だけの「楽しみ」を奪われ
た、あるいは暴かれたような気持ちにそいつがなったときではないか。
いずれにしても、ここは、悪い方に考えるべきだろう。起こり得る事態の、
最悪のパターンにでもうまく対処できるようにしなければならない。
この場合、最悪のパターンとは、連続殺人犯が、自分の知らない殺人事件を
起こした犯人を嫌い、そいつを突き止めて殺してしまおうとすることだ。
ここまで考えて、僕は馬鹿々々しくなった。連続殺人犯が、北村雅子殺しを
誰がやったかなんて、突き止められるはずがない。警察だってできないでいる
のに、追われる立場の犯人がそれをやってしまったら、滑稽なこと極まりない
ではないか。笑い出したい気分だ。
最悪のパターンは、そこまでは行かないってことになるか。北村雅子が殺さ
れた事件が犯人に何らかの影響を与えるとしたら、犯人が怒って、俺の方が本
物なんだとばかり、もっとたくさんの犠牲者を求めるぐらいだろう。それ自体
は、憂慮すべきことではあるが、僕自身には関係のないことだ。
取り越し苦労をしたことになった僕は、どっと疲れが出るのを感じた。笑い
を声にする気力もない。こんなことに惑わされず、今は内定をもらうこと、そ
して「あいつ」のことの二つだけを考えていればいいのだ。
あいつからのメッセージは、この前のを最後に、全くない。かと言って、何
か具体的な行動に出て来てもいなかった。
最初は、これでこっちの天下だと勝ち誇っていたのだが、どうも気になる。
まだ、鏡を見たときに違和感を覚えるのであるから、あいつの攻撃はやんでい
ないことになる。しかし、あれだけのことを言ってきておきながら、これまで
以上のことをやってこないのは、何とも言えず、不気味なものがある。
自分にとって最高なのは、連続幼女殺害事件の方は、こちらには何の手も伸
びない内に犯人が捕まることだ。そして、自分自身に関することでは、あいつ
を確実に潰してやったという感触を得ることである。このまま、あいつが何も
しないでいても、いつ何を仕掛けてくるか分からないという恐怖におびえて暮
らすなんて、御免である。
おい、おまえ! 仕掛けてくるなら早くしろ! いつでも相手になってやる
気でいるんだ、こっちは。持久戦に持ち込んだら、おまえが得られるかもしれ
ない自由な時間が少なくなるんだぜ。まあ、おまえが勝つなんて、そんなふざ
けたことは起こらないだろうけどね。
と、僕は、気持ちを文章にしてうっぷん晴らしをしようとしたが、どうもす
っきりしない。全くもって、嫌な戦法に出たものだ、あいつも。
これは相手にしない方が得策だろう。今は、内定をもらうのに全精力を集中
させるんだ。内定をもらって精神が安定したところで、のこのことあいつが出
てきたら、一気に叩き潰してやる。
−続く−