#2424/5495 長編
★タイトル (MMM ) 93/12/11 18:59 (177)
杏子の海(18)
★内容
浜辺の裏の森の杪も昔と少しも変わっていない
今僕が見た幻も
そして僕も
僕らが始めてペロポネソスの浜辺で出会ったときとちっとも変わっていない
僕らはちっとも変わっていない
明日の朝、もう私は居ないかもしれないわ。
もう死んでしまっているのかもしれないわ。
布団の上で私、安らかに息を止めてしまっているのかもしれないわ。
二ヶ月も返事を出してなかった僕に
今日、君はクルマの中から手を出して僕の名を呼んだ。
…でも僕は喋りきれないから、
喋ると幻滅されてしまうのが怖かったから
僕は君を無視して
諏訪神社の坂道を
君に気づかなかったようにして歩いていった。
あの諏訪神社の横のあの急なアスファルトの坂道で君はお父さんと待っていた。君
のお父さんは神社の方向を見ていた。坂道を降りてきた僕にすぐ気づいた君は悲しげ
な目をして僕を見つめてその小さなかよわい手を振った。僕は気づかないふりして友
人と喋りながらそうしてそのまま君のお父さんのクルマの横を通り過ぎて行った。
『敏郎さん、生きてね。これからは明るく生きてね。早く可愛い女の子を見つけて、
そして幸せになってね。敏郎さん、これからはきっと幸せになってね。
『敏郎さん、きっと幸せになってね。敏郎さんのお父さんやお母さんのためにも幸せ
になってね。明るくなってね。
(ペロポネソスの浜辺にて ゴロと)
遠くに小さな星が見えるだろ
ちっちゃなちっちゃな星が見えるだろ
天草か阿蘇の方に見えるだろ
僕が生まれた加津佐のてっぺんの方に
僕が3つまで育った加津佐のてっぺんの方に
ちっちゃなちっちゃな星が見えるだろ
とても哀しげな星が見えるだろ
(僕は十日ほど前、松山の国際体育館でとても綺麗な、とても目の大きな少女から友
達になりたいと誘われた。僕は無視した。僕はノドの病気で大きな声が出ないのでこ
こではあまり喋れないから。僕は無視してしまった。そして3日前、日曜日、僕はあ
てどもなくあの子を捜して秋月町の所をさまよいながら勉強したりしていた。数学の
文庫本みたいな黒い表紙の本をずっと勉強していた。あの子の家だと思った上の空き
地で5時間も6時間も勉強した。)
『敏郎さん帰ってきて。私のところへ帰ってきて。お願い。』
僕はハッとして顔をあげた。夜の2時だった。僕はつい1ヶ月余りも杏子さんに手
紙を出していないことを思い出した。勉強が忙しくて手紙を書いてる暇が、いつも一
晩じゅうかけて書いている手紙だけど、惜しかったから。だから手紙を書かないでい
たけどごめんね。でも
敏郎さんへ
雨がポツリポツリと降っています。こういう日曜日、私は一日じゅう家に閉じ込め
られているわけね。テレビを見たり敏郎さんへのマフラーを編んだり
私たち自殺したら木になるんですって。
そしてその木が枯れるまでその木にいるんですって。
お寺にある巨大な大木なんか一万年も生きてるんでしょ。
そしてよく濡れてるでしょ。
あれ涙なのね。私ようやく解ったわ。なぜ濡れているのかようやく解ったわ
海の底から聞こえてくるの。私たちを呼んでいるの。私たち苦しんでいるから、『
早く来なさい。』って、呼んでいるの。
(月夜に君が)
月夜に君が立っていた。
勉強に疲れ、フラフラと歩いていた僕の道の前に立っていた。
両手を広げて通せんぼしていた。
『杏子さん。僕は疲れているんだ。君にかまってなんかいられないんだ。僕は疲れて
いるんだ。杏子さん、通してくれ。』
僕は心の中でそう呟いた。君は言った。
『敏郎さん、ゴロ君から聞きました。あなたのこと、全て聞きました。天国に来たゴ
ロ君から聞きました。』
----そう言って泣き崩れる君。僕は手を貸そうにも貸せないで困っていた。僕は疲れ
ていた。
私、どこに向かって歩いているんでしょう。敏郎さんには彼女ができたそうですし
一人残された私、どこへ向かって歩いてるんでしょう。
私、以前よく行ってた浜辺へも行かないで桟橋の方へ来ました。これから敏郎さん
の家の近くへ行こうかな。そして敏郎さんを驚かせようかな。でも敏郎さんの家、坂
の上にあるし。
私、坂の下で敏郎さんの家を見上げて泣いてました。なあに、小鳥さん、私の車椅
子に泊りに来るなんて。私、怖くない。小鳥さん、私怖くない。
孤独の風がスーッ、と吹いてきたわ。4月なのに2月みたいな風だわ。
僕はその日、県立図書館も休みで一日じゅう家にいた。お昼過ぎ、昼ごはんを(い
つもの目玉焼き3コと白御飯だったけど)食べたあと僕は何気なく自分の部屋の窓か
ら海の見える景色を見渡した。あっ、すると坂の下に銀色に輝く車椅子があって乗っ
ているのは杏子さんだ。そしてこっちを見ている!
僕はとっさに身を隠し、カーテンの隙間からわずかに目だけを出して杏子さんの方
を覗いた。幸運にも気づかれなかったようだ。スズメの囀りと4月の太陽が粲々とこ
んな僕を照らしていたっけ。
僕は海を見ようと思って窓を開けた。するとそこには海でなくて杏子さんがいた。
銀色に輝く車椅子に乗って杏子さんが海の精のように電信柱の横にいた。そして車椅
子を楽しそうに前後に揺すって動いていた。
あっ、あれは銀色の戦車に乗ったポセイドン。僕の魂を縛りつけるポセイドン。海
の方からやって来たポセイドン。
僕の家にまで襲ってくるなんて。僕、出られないじゃないか。僕、土曜日なのにど
こにも出られないじゃないか。
僕には僕の家のまえの坂の下に待っている杏子さんが楽しそうに、幸せそうに明る
くなんとなく微笑んだように頬を春のそよ風に気持ちよく吹かれながら佇んでいる光
景をどこかで見たような気がした。もうずっと行っていない杏子さんの家の近くの杏
子さんがよく夕暮れどきに行っていたあの浜辺でのシーンだな、と僕は気づいた。
僕の家の前の坂の下に待っているあどけない杏子さんの姿は喉の病気や言語障害を
忘れさせて何もかも打ち捨てて杏子さんのもとへ走ってゆきたい気持ちに僕をならせ
た。僕、何もかも打ち捨てて杏子さんのもとへ走って行こうかな! とても天気のい
い土曜日だから。
(私、お化粧ばかりしています)
私は悲しい敏郎さんの愛人です
小さなマンションに囲われている敏郎さんの愛人です
敏郎さん、週に一回か二回私のところにやってきます
そして私を抱いて帰っていきます
私、お化粧ばかりしています
敏郎さんの奥さん とてもグラマーで美人なの
とっても色っぽくて敏郎さんそこにひかれたのね
私には色気はないけれど
誰からも美人って言われる顔だけがあるわ
だから私、お化粧ばかりしています
いつも鏡に向かいながら敏郎さんに抱かれることを想像しているの
…でもお化粧してたら涙がポツンと落ちてきて
お化粧してもダメなところに気がつくの
私には両肢とも膝から下がなくて
それ お化粧してもダメなのね
私、お化粧ばかりしています
朝から晩までお化粧ばかりしています
ときどき涙が落ちてきて
そしてお化粧を最初からやり直すの
私、お化粧ばかりしています