AWC           杏子の海(16)


        
#2422/5495 長編
★タイトル (MMM     )  93/12/11  18:53  (188)
          杏子の海(16)
★内容




 そよ風が吹いて立山公園の森の杪がカサカサッと唸った。僕は静かに立ち上がり誰
もいないコンクリートの非常階段の上に立ちつくしていた。誘っているんだな。僕を
、僕を誘っているんだな。
 昼休みだった。僕はいつものようにみんなのいる騒しい教室や廊下などを離れ一人
運動場に面するコンクリートの非常階段に来ていた。埃を被ったほとんど誰も来ない
忘れ去られたような校舎の一角だった。ここは僕しか来ない所だろう。もしかすると
2年前この校舎が立てられて以来、誰も来たことがないところかもしれなかった。こ
のまえ付けた僕の手の跡が今もまだ鮮やかに埃の中に浮かび上がっていた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 何のため、いったい何のために僕らは生きているのだろう。
(僕は冬の木枯らしの中を揺れ歩く。木ノ葉のように揺れ歩く。)

 あまり寒くはないけど嵐のような風の強い日だった。生暖かい風が冬なのに何故か
南の方から吹いてきていた。
 午後から現国の授業があるので早退した僕の学生カバンの中にはしっかりと黒い柔
道の帯が(まだ新しい僕の名前の刺繍された柔道の黒帯が)入っていた。
 誰もいない冬の真昼の立山公園の展望台に立って、『ああ、僕は16歳で死ぬんだ
な。ごめんね、杏子さん。14歳の君を残して僕一人だけ先に旅立ってごめんネ。』
と心の中で風に吹かれながら呟いていた。



 死ぬのをやめて立山公園の展望台に戻った僕は“やっぱり杏子さんと会ってから死
のう やっぱり最後に杏子さんと会って幻滅されてもいいから杏子さんに会ってから
死のう”と思った。

 僕の耳に不思議にあの海辺の細波の音が聞こえていました。誰もいない冬の真昼の
展望台の上で僕はボンヤリとそんなことを考えていました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 僕らは悲しい恋人どうし。
 海を見つめる恋人どうし
 やがて夕暮れが僕らを優しく包んでくれて
 無言の僕らを慰めてくれる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 杏子さんへ。
 この二年間半、いろいろなことがありましたけど、本当に僕にとってこの二年半は
青春の最後の燃焼を、苦しかったけど、杏子さんとの文通によって本当に僕は支えら
れてきて、生きてこられたのだとつくづく感謝しています。僕にとってこの二年間半
はやっぱり辛いものでしたけど、杏子さんと文通したりしてそれなりに充実した人生
の最後の時期だったと杏子さんにどんなに感謝してもし足りないくらいです。
 今までの発狂しそうな苦しい毎日を僕なりにきちんと生きてこられたのも杏子さん
との文通がったからだと思います。杏子さんとの文通が喉の病気などで憂愁に陥りが
ちな僕をいつもいつもぎりぎりのところで支えていてくれたのだと思います。本当に
ありがとう。

 思えば杏子さんとの文通によって、僕なりの青春の一ページを記録として留めてお
くことができて僕は本当に嬉しいです。僕が死んでも、僕が霊界に旅立っても、僕が
ちゃんと生きていた記録が、そして青春の最後の炎を燃やせて死んでいけることが、
僕にはとても満足です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『嵐のような海ね、敏郎さん。』
『ああ、僕らの幼ない頃からの人生もこのようだったね、杏子さん。僕も小さい頃か
らたまらなく辛い日々の連続だった。小学校時代は家は貧乏のどん底でいつも夜逃げ
を考えるほど厳しかったそうだ。
 それに、学校でも辛かった。家でも辛かったけど学校の方がもっと辛かった。僕は
呪われていたんだ。そして八方塞がりだった。でも自殺だけは考えなかった。僕には
希望があったから。世の厳しさをあまり知らない幼ない僕だったから。』


(でも今は嵐のように世の厳しさを受けている。『こんなはずじゃなかった。こんな
はずじゃなかった。』と自問自答している僕だ。

 僕は現実の厳しさに震えおののくとき、もう中学の頃のあの強さというか、強靭さ
、夢とでも言おうか、そんなものが今やなくなってしまっている自分に気づいておの
のいている。


 杏子さん、黒い海だ。僕の心もこの海のように暗く澱んでいる。杏子さん、とても
暗い海だね。とてつもなく。まるで僕の今の心のような海だ。


 やがて僕がザブンッ、とこの海に飛び込んで僕は死に絶えて、僕の心や魂はこの青
い、黒い海水の中に溶けてゆくんだ。僕の心は以前は青かった。以前の僕のままだっ
たら青いパステルカラーとなってこの海の重苦しい黒さを幾分かでも和らげることが
できただろう。でも僕の今の心はまっ黒だ。今の僕の心は黒い黒い習字の墨みたいだ
。
                           (高一 2月)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 私、敏郎さんの躰抱いて眠るの。
 敏郎さんの躰、死んで小さくなってるの。
 お人形さんのように小さくなってるの。
 でもとても熱いの。
 敏郎さん、ちっちゃなちっちゃなお人形さんになったの。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 冬なのに真夏のような太陽が照っていた。見渡すかぎり青い空だ。そして今日は2
月の日曜日だった。僕はこの夕方死のうと思っている。
 雀が僕の目の前を唸りをあげて飛んでいるように思った。細く黒い電線が見える。
そして彼方には小さい頃から見慣れた山が見える。

 行き詰まった。もうどうしようもないんだ。行き詰まった。もうどうしようもない
んだ。

 杏子さんに電話してから裏山に行こうかな、と思った。僕の手には柔道の白帯が握
られていた。杏子さんに電話してから裏山に行こうかな。でも何だか杏子さんが可哀
想だな。杏子さんそうしたら後追い自殺するかもしれないぞ。でも寂しいな。このま
ま死ぬの寂しいな。
 僕はそうして窓辺にもたれて外の風景を眺めていた。この窓辺は海の見える方の窓
辺でなくて西の方角の窓辺だった。

 午後3時頃だった。僕は思い切って外へ飛び出した。

 細い暗い山道は杏子さんのあのペロポネソスの丘へ通じる道のようだった。谷間に
出ると太陽の光がとても眩しかった。思わず立ちすくみ僕は足元の崩れゆく土砂を見
つめていた。
 さようなら。杏子さん。お母さん。お父さん。さようなら。



 僕は結局一日半ぐっすりと眠っていたのでした。僕は家にあった風邪薬などを数十
錠もまとめて飲みました。そんなに死ぬつもりはありませんでした。
 やはり僕にはまだ生への執着といおうか、希望が僅かながらあるようです。一日半
も眠り続けてとても爽やかです。今は夜の八時四十五分。下へ降りていって家族の姿
の眩しさに驚きました。新聞を見ると一日半やっぱり眠っていました。母が僕に『ご
飯食べるやろ。』と聞きました。僕は『うん』とうなづきました。
 でも僕はご飯やおかずを出されても食べる気は全く起こらず新聞とテレビばかり見
ていました。そして炬燵の上に置いてあった大きなミカンを2コすぐに平らげました
。



             (死の淵の記録)

 ゴーゴーッという耳をつんざくような響きが聞えていました。ここはどこなんだろ
う。僕はふと映画の中で見た地下のマンホールの中を思い出しました。そんな所を僕
は今、冷たい黒い水に溺れそうになりながらかなりの速さで流されているのでした。
 僕は“お母さん、お父さん、杏子さん、”と呼ぶのですが辺りはまっ暗でそれにド
ームに覆われているし水の流れも激しいのでとても届きそうにありません。

 不思議な霊界の仙人さんのようなのが鎖でがんじがらめに縛られている僕のもとへ
やってきた。杖をついて白い顎髭を長く生やした人だ。
 そして仙人さんは僕の手足に結ばれていた鎖を杖でたやすく四本とも叩き切ってし
まわれた。そして無言で僕に『帰りなさい』と言われたようでした。



 僕は布団のなかで目を覚ましたとき、いま朝であることに気が付いた。たぶん日曜
日の朝のはずだった。
 俺はやっぱり生きるぞ。俺はやっぱり生きるぞ。
 なんという朝日の眩しさだろう。とても清々しい朝だ。そして下に降りていって母
に『もう風邪は治った。』と言った。
 僕は県立図書館へ行こうと身繕いをし始めた。今日は日曜日だった。クラスの誰か
に会うかもしれないな、と思った。市民会館にしようかな、とも思った。
 着替えているうちにふらふらっ、と目眩がして倒れそうになった。でも寂しいから
、寂しいから図書館に勉強しに行かなくちゃ。あまりにも寂しかった。
 僕はまだふらふらと目眩がしながらも顔を洗い歯を磨き家を出た。久しぶりの戸外
だった。
 勉強しなければ、という焦りがあった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 いつも後悔ばかりしてきた僕だった。いつも運が悪くて、苦しんで、損ばかりして
、そうして親に迷惑をかけてばかりいた僕だった。


  敏郎さん負けちゃだめよ。きっと立派な医者になってね。今、とても苦しいかもし
れませんけど、(杏子には敏郎さんの苦しみがあまり良く解りませんけど、)頑張っ
て負けないで高校をやめるなんて思わないで下さい。
本当に敏郎さん、頑張って下さい。



 生きるのに辛くてたまらなくなったとき僕らはよく浜辺から海を見るけど、僕らが
見るのはいつも寂しげな夕暮れの浜辺ばっかりで、僕らは



 僕はこの手紙を家で書いています。家で僕のちっちゃなストーブにあたりながらノ
ホホンと何も考えないようにしようと思いながら書いています。
 頭がとても重いです。何故なのだろうかなあ、と思います。もう8時半です。今日
もまた学校を休みました。
                       (高一・二月)





前のメッセージ 次のメッセージ 
「長編」一覧 (MMM)の作品
修正・削除する         


オプション検索 利用者登録 アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE