AWC         杏子の海(15)


        
#2421/5495 長編
★タイトル (MMM     )  93/12/11  18:50  (193)
        杏子の海(15)
★内容




  遠い海の向こうに君が居る。青い海の向こうに君がいて僕を見つめている。一人ぼ
っちの僕を。寂しい僕を。



 もう戻れないの。一度潜ったらもう戻れないの。もうずっと冷たいここに居続けな
きゃならないの。自殺したからもうずっとこのままなの。もうずっとずっと冷たくて
寒い思いをし続けなきゃならないの。もう戻れないの。もうずっとこのままなの。



 敏郎さん。虹が見えるわ。私たちの未来のようなの。七色のように綺麗に輝いては
いないけど、でも私たちの未来のような虹なの。美しい虹なの。



 敏郎さん。敏郎さん。生きることって、生きることって何なの。敏郎さん。この前
まで、正しく道徳的に生きることが一番なんだ、って御仰ってたけど、敏郎さん今は
日連正宗のことばっかり。創価学会のことばっかり。



 生きること。正しく生きること。僕にはそれが何なのか解らなかった。



 生きること 正しく生きること。----僕は長崎駅のプラットホ―ムで義兄を待ちな
がらそう考えた。僕は駆け出しそうだった。生きること 正しく生きること。----僕
は誰もいないプラットホ―ムを、まだ汽車が着くまで10分あるプラットホ―ムを駆
け出したくなった。



 森の中に、吸い込まれてゆく。なんて美しい森なんだろう、この森は。まるでスウ
ェ―デンやフィンランドのような、中に妖精がいるような森だ。



『敏郎さん。どこへ行くの。そこは森の中よ。敏郎さん。どこへ行くの。』
----僕は揺れる陽炎。冬の蜃気楼。僕は揺れる陽炎。冬の蜃気楼。
『敏郎さん。その森の中、危ないわよ。谷間に落ちるわよ。足元に気をつけて。敏郎
さん。その森の中、本当に危ないのよ。』
----僕は揺れる陽炎。冬の蜃気楼。僕は揺れる陽炎。冬の蜃気楼。
『敏郎さん。敏郎さん。死なないで。

 僕はハッ、と目を覚ました。また夢だった。この頃、毎夜見る夢だった。でもこれ
が夢ではないことは僕がよく知っていた。もしかしたら現実に起こることかもしれな
かった。

----僕は揺れる陽炎。迷える蜃気楼。僕は揺れる陽炎。迷える蜃気楼。
----僕は揺れる陽炎。迷える蜃気楼。



『敏郎さん。負けないようにしなくては。敏郎さん。負けないようにしなくては。』
----僕は森の中を吹かれゆく。僕は森の中を吹かれ歩く。
『敏郎さん。負けないで。敏郎さん。負けないで。』
----僕は森の中を吹かれ歩く。冷たい冷たい北風に吹かれ歩く。
『敏郎さん』



  僕は夢の陽炎 迷える蜃気楼
  僕は夢の陽炎 迷える蜃気楼



 僕は疲れた。
  君も疲れたのだろう。
 波は荒くて
 船で向こうの島まで渡ってゆけない。
 僕らは渡ってゆけない。

 不思議な鳥や魚たちがたくさんいるあの島は僕らのすぐ目の前にあるけれど、
 僕らには遠くて、僕らは眺めているだけしかできない。
 もしも僕らがあの島に船で渡って行けたら、
 岸辺には鳥たちがたくさんいて、
 水たまりには大きな30cmぐらいの魚もいて、
 アメフラシやいそぎんちゃくもたくさんいて、
 そして僕らは、一緒に手を繋いでその浜辺を、
 楽しくお喋りしながら(僕は吃って喋れるか解らないけれど、)
 ゴロと3人で楽しく歩き回ると思う。
 朝から夕方まで僕らは3人で、
 その浜辺でとても楽しい時を過ごすと思う。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

         ----僕は昨夜、こんな夢を見た----

                (月見をしている女の子)

 可愛い女の子が真夜中なのに膝を抱えて月見をしていました。
 真冬でとても寒い夜なのに少女は膝を抱えて寒さに耐えるようにして月見をしてい
ました。
 よく見るととても可愛い顔をしていて、そして杏子さんにそっくりでした。
『杏子さん。寒くないのかい。帰れる家がないのかい。
 僕は喉が悪くて小さなかすれた声で尋ねると少女はこちらを向いて『うん』とうな
づきました。
『帰れる家がないのかい。それじゃあ寂しいだろうねえ。
 僕はふと躰が硬直したようになり巨大な吸引器に吸い上げられるように空中へと浮
かび上がり始めました。僕は霊界を一目見たあと再び現実世界へと還えされたのです
。
 でも杏子さん、寂しそうだったなあ。本当に寂しそうだったなあ。
 真冬の真夜中に膝を抱えて寒さに震えていた杏子さん。やっぱり自殺者はああいう
境遇に置かれるのだなあと思って僕はいつの間にか息をふき返していました。そして
死ななかったことを本当によかったと思い始めていました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 そこには“孤独”だけがあった。僕が落ちた処は暗い森の中の沼の底だった。する
と何かが底を這うように僕に近づいてきた。それは何だろう。

 それは僕と杏子さんが言い合っていた網場の海に棲むというデーモンという奴のよ
うだった。なんとなくアンコウに似ていた。頭の先に提灯を付けたような。

 でもすぐ傍に来ながらも無言でただ僕の傍に並んでいるだけなのはなぜだろう。危
害を加える気配は全然ない。何しに来たのだろうか。“お互いの孤独を慰め合うため
”なのだろうか。

 僕にはそうとしか思えなかった。そのアンコウのような奴は何千年もこのまっ暗い
何も見えない湖底に潜み続けているらしかった。

『出れないのですか?』
『そう、自殺したから。』
(アンコウの声は意外と若かった。僕と同じくらいか十八,九のように思えた。)

(僕はそして天界と現界の区別がつかなくなってしまっていた自分にハッ、としまし
た。僕の魂はもはや天国へ行き僕は躰だけ現界にいて手紙を書いていたかのようでし
た。
----自殺を決意していたボクはもうすでに明日死ぬことが決まっていてこの夕方、す
でに僕の魂は現界と天界の間を往復し始めていたのでしょうか。僕の魂は天界にいて
、現界にある僕の手を動かしていただけなのでしょうか。
 僕は窓からの風景のなかの青い海が急に盛り上がって巨大な波となって僕をも呑み
込もうとしているように錯覚されました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  僕は今、ぎりぎりの所で生きている。死んだ方が楽なような気がする。海の中で、
血を吐いて。暖かい暖かい血を吐いて。


  でも母も僕と姉をぎりぎりの所で育ててくれたことを思うと死ねない。僕が小学四
年ぐらいの頃まで、僕の家は貧乏で毎日がぎりぎりだった。

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 杏子さん。僕このまえいつもの非常階段から立山公園の森を眺めているとき カサ
カサッと揺れた梅の木の葉の音に“僕は何のために生きてるのかな? それにほかの
人も何のために生きてるのかな? と思ってとても不安になった。
 それは例えようもない不安だった。一人ぼっちのコンクリートの非常階段の上で僕
はとても不安になった。

 冬の木枯らしがサラサラと吹いていた。早退きした僕を歓迎するように一月の風に
なびいてサラサラと吹いていた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 少女の思い描いていた僕に対する美しい幻影は僕が喋り始めると途端に崩れ去って
しまうんだ。それは中世の湖畔に聳える美しいお城が崩れ去るのを想像するときっと
いいと思うよ。



 木の葉が寂しく一枚チラチラと冷たい北風に吹かれながら散っていってたっけ。僕
はなおも進んでいった。



 泣いちゃダメだ。泣いちゃダメだ。僕らは雨のように泣いちゃダメだ。


 僕は思い切り走り始めた。涙で濡れた目をこすりこすり、僕は思い切り走り始めた
。力いっぱい力いっぱい僕は走り続けた。



 小鳥が、僕が以前飼っていた手乗り文鳥が、窓辺から外の光景を見つめていた僕の
ところに、何年かぶりに飛んできたようでした。窓辺の桜の木の枝に何年かぶりに、
たしか中学二年以来だなあ、と思いました。
 2年ぶりかなあ、と思いました。朝から俯いて窓辺の傍に座り込んで物思いに耽っ
ていた僕のもとに、まるで天国から僕を迎えに来たように僕には思えました。
 頬のところの黒い模様も、そして目の下の斑点も、その目も、僕の家で飼ってたあ
の人なつっこい、でも窓の隙間から2年前、あああれは杏子さんと文通し始めるちょ
うど何週間か、たしか3週間ぐらい前のことだったなあ、と僕は思い出していました
。そしてもうあれから3年近く経とうとしているんだなあ、と思いました。
 青い空に消えていった僕が小さい頃から大事に育ててきたあの文鳥が、僕が死を決
意して窓辺から外をずっと見遣っていたら僕を慰めるためにか、それとも天国へ導い
ていってくれるためにか戻ってきてくれたんだなあ、と思いました。





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