#2410/5495 長編
★タイトル (MMM ) 93/12/11 17: 6 (192)
杏子の海(4)
★内容
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僕が杏子さんを愛し始めたのはいつ頃からだろうか。あれは赤い夕陽が沈もうとし
ている夕暮れのときだった。たしかにあの頃の夕暮れのことだった。
あれは僕が中一の春、僕が魚釣りから帰りながら浜辺をゴロ(僕の家の犬)と歩い
ていると浜辺に佇む車椅子の少女が揺れる青い紫色の海を見つめていた。僕はゴロと
大きな瞳のその少女の僕らを意識したような横顔をうっとりと見つめた。
(杏子さん。あのとき僕らを意識してたんだろう。夕陽に照らされて赤く染まってい
る僕とゴロの肌を横顔で僕ちゃんと解ったんだよ。とても意識して微笑みかけている
その横顔を。)
僕ちゃんと解ってたんだよ。僕に話しかけたがっているその様子を。でもごめんね
。僕そのまま通りすぎて。いつものように下を向いて足早にすごすごと通りすぎて。
ごめんね。
赤い夕陽が僕らを照らしていてその赤い光が僕らを包んでいた。僕の足元がサクッ
サクッ、と砂を踏んでて僕のうしろからゴロの息をする音が聞こえていた。そして黙
って俯いて杏子さんのうしろを通りすぎてゆく僕らをまあるい背中で見送る杏子さん
。 ごめんね。杏子さん。
僕とゴロはあの日、夕陽を浴びて微笑みながら帰ったっけ。もう陽は沈もうとして
いて、さっき見た車椅子の女の子の美しいとてつもなく美しい横顔が僕とゴロの瞳に
まだありありと映っていたっけ。僕らは幸せいっぱいに歩いてた。家まで幸せいっぱ
いに帰っていた。
赤い赤い夕陽だった。僕らを結びつけていたその夕陽は。今までに見たこともない
ような大きな赤い夕陽だった。そうしてユラユラと揺れながら沈んでいっていた。僕
らに手を振って別れを告げるように。
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淋しい流れ星が 風邪でずっと寝込んでいる僕の目に誰かの涙のように見えました
。母の涙なのかなあ、誰の涙なのかなあ、と思います。もう九日も寝込んでいる僕の
目に始めて見た流れ星は何かを僕に告げるように見えました。
(僕はこの流れ星を見た翌々日から熱も下がり学校へ行き始めた。クラスのみんなは
色がまっ白になり痩せた僕をとても不思議そうに見て、でも喜んでくれてました。先
生は『ハブ、色の白うなって良か男になったな。』と言っていました。)
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朝、僕はいつも後悔の念と自分の長い長いカゼに疲れ果てたようにして床を出ます
。外は寒く、小雪が舞っています。もう4ヶ月にもなる僕のカゼはこの頃はセキが止
まらなくて食べていたものをセキとともに吐いてしまうほどになっています。
でも具合いは何処も悪くなく、熱が7゜台と喉がとても蒸せていることぐらいで学
校にはちゃんと行けます。でも授業の後半になると痰がたくさん喉の奥にたまって早
くトイレに行って吐きたくて苦しくなります。
こんなのが3ヶ月近く続いています。僕は幼稚園の頃は病弱でハシカとか三日バシ
カとかいろんな病気に次々と罹って半分も幼稚園に行きませんでした。でも小学生に
なるととたんに元気になってほとんど病気はしなくなりました。(でもよくカゼをひ
いたらすぐに休んでましたけど。)
幼稚園の頃、僕は呪われていて、(それに僕の家も本河地から日見に引っ越してき
て今までサラリーマンだったのに店を開いて、そうして経済的にとても苦しく、家の
中も貧乏なため父と母の喧嘩が絶えず、僕は病気にばかりなるしそれにとても泣き虫
で毎日一回一時間くらい泣いていました。)
あの頃は地獄のような毎日でした。今も苦しいけどあの頃の苦しさに比べると今は
天国のようなくらいです。
窓を開けると冷たい外の空気が僕を哀しげに包み込みます。杏子さんの家を見よう
としてもあまり長く窓を開けていると部屋が寒くなるからほんの少しの間しか開けて
いられません。今日も学校を休んでしまった罪悪感と母や家族の人に心配かけている
罪悪感に僕は落ち込んでしまいます。
僕の喉の病気は気管支炎なのだと思います。「家庭の医学」という本を読んでいて
そう気づきました。
この頃はゴロの散歩は姉や父が行っています。杏子さんも冬なので寒いから浜辺に
出ていることはないと思っていたけど、土曜や日曜には出ていると書いてあったので
びっくりしました。寒くないですか。僕はずっとカゼをひいてるし、当分の間あの浜
辺に行くこともないと思います。
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僕は一度杏子さんのうちに電話したことがある。中学二年の10月頃のことだった
。その日僕は学校を休んでいた。学校で文化祭があるのだが僕は劇で先生役になって
いた。僕はみんなに人気があったからどうしてもそんな役をするようになってしまっ
たのだった。
ふとメロデイーがやみ一瞬打ち震えるような沈黙が訪れた。杏子さんが受話器を取
ったのだろう。そしてやっぱり杏子さんの声が聞こえてきた。
『はい。変わりました。』
その声はあまりにも事務的だった。少しの色気も感じさせないものだった。でも電
話の向こうで実は僕以上に打ち震えている様子がいじらしいほどに感じられた。
僕も受話器を強く握りしめたまま顔をこわばらせて震えていた。僕は熱に浮かれた
ように――偽りの熱に浮かれたように――して電話をかけたのだったが、杏子さんの
声が現実に聞こえてきて衝撃を受けて――あまりにもたやすく僕が苦しんで苦しんで
求めていたものが出てきているという不思議さとともに――倒れるようになっていた
。こんなはずはあってはいけないことだとさえ思っていた。あまりにもたやすすぎる
。僕がよく日暮れどき衝動に駆られて見渡した杏子さんの家への光景のあの神秘に満
ちた神聖さはここにはなかった。失望みたいなものが僕を襲った。
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現実の僕は死に
今杏子さんの部屋に浮かんでいるのは抜け殻になった僕だよ
今杏子さんの部屋に浮かんでいるのは
抜け殻になった僕だよ
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杏子さんへ
僕はさっき不思議な夢を見ました。巨大な蟹のお化けのようなのが僕の部屋に入っ
てきて寝ている僕を心配げに見つめて、そしてやっぱり横の方向に歩いて壁の中へす
っと消えてゆきました。肩幅のとても大きい、人間と蟹を合わせたようなお化けでし
た。そして何故か顔が僕にそっくりでした。そう言えば僕も肩幅がとても大きいけど
。
あれは僕だったのかなあ、と思います。僕に住んでいる何かの霊だったのかなあ、
と思います。でもちょっと寂しげな表情をして心配そうに風邪をひいて寝込んでいる
僕を見下ろして壁の中へ消えてゆきました。
中二・一二月
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杏子さんへ
今、国語の授業中です。でも僕には今朝(夢の中で)見た顔が僕にそっくりのそし
てものすごく肩幅の広かったお化けの僕を心配げに見下ろしていた姿とその表情が今
も忘れられないでいます。
蟹のようだった、と書きましたけど、手はやはり人間の手で、蟹のようにはさみで
はありませんでした。そして腕はものすごく長かったです。
でもとても可哀相な幽霊のようでした。歳は僕と同じくらいで、そして格好という
か姿がとても醜くて。
でも相撲を取らせたら肩幅がものすごく広くて強そうだったな、あいつ、と思って
僕はちょっと微笑んでます。お相撲さんになったら大関ぐらいになるんじゃないかな
、と思って。
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――私はスフィンクス――
私はスフィンクス
胴体と顔だけ人間で下半身はライオンのスフィンクス
でも下半身はライオンのように温かくなくて冷たい冷たいキラキラ光る鋼鉄なので
す
私は近代化されたスフィンクス。実はスフィンクスも車椅子に乗っていたんです。
あるとき夢の中で見ました。自分も実は車椅子に乗っていたんですって。王子で身分
の高い人だったんです。とってもハンサムな。敏郎さんとどっちがハンサムかわから
ないくらい。
あるとき彼は手術されそうになったんですって。当時エジプトで流行っていた移植
手術を親から(つまり王様から)強制的に受けさせられそうになったんですって。下
半身をライオンにするっていう。
それで何百頭ものライオンが殺されて王子に合うライオンの下半身が捜されました
。そしてやっと王子に合う若いライオンの下半身が見つかりました。でも王子は山の
ように積み重ねられた若いライオンの無惨な死体の山を目にして涙ぐみました。 …
…
王子は手術を受ける決意を為されました。自分のために死んだたくさんの若いライ
オンの魂を慰めるために。
――
やがて王子は死にました。手術後、敗血症を起こしてまもなく亡くなったのです。
そして王子の死ぬ前の姿…下半身がライオンで上半身が人間という像ができあがっ
たのです。
――
やがて王子は霊界で王子のために供されたたくさんのライオンの魂と会いました。
悪いのは王子の親…そして当時権勢を振るっていた外科医たちです。
王子は一つ一つのライオンの魂に詫びを言ってゆきました。とぼとぼと歩いて王子
を恨めしそうに見ている若いライオンの魂の前を歩いてゆかれました。何百と続くラ
イオンの魂の群れの中を。
そして今私はスフュンクス。鋼鉄のスフィンクス。誰もが仰ぎ見る砂漠のスフィン
クス。
中二、一二月
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もしも私に肢があったなら
(パート2)
もしも私に肢があったなら
そうしたら敏郎さんと春の野山を思い切って駆けてみたいわ。
綺麗な黄色い花などが咲いていて
太陽がいっぱいで
虫さんたちも盛んに歌を歌っていて
私たちその中を手を繋いでお弁当持って思い切って駆けているの。
野いちごがあって 湧き水があって
敏郎さん、食いしん坊だから私が持ってきたお弁当だけでは足りなくて
(たった10分間で敏郎さんすべて食べちゃったのよ。
私が朝早く起きて2時間かけて一生懸命つくったお弁当を
私に優しそうな声もかけてくれず、一人でぱくぱくと食べちゃったのよ。)
敏郎さん、まっ赤な野いちごを次から次に見つけ出しては口に入れているの。
私も敏郎さんの真似して野いちごを食べてゆくの。
私、敏郎さんが面白い話をしてくれないかなと期待してたくさんお弁当つくってき
たつもりだったのに
敏郎さん暗いのね。黙々と頬を頬張らせて山の上からの景色を眺めながら食べつづ
けるだけなの。
敏郎さん、女の子の心が解ってないのね。
でも私、そんな敏郎さんが大好き。
素朴で暢気な敏郎さんが大好き。
夕方になって足がくたくたになって山を降りてたら
突然敏郎さんが抱きついてきたの。
敏郎さん痩せてるのに力がとっても強くて
私少しも抵抗できずに
野原の上に押し倒されちゃった
そして私たち、キスしたの。
熱い熱い草の上で私たち燃えるようなキスをしたの。