AWC 杏子の海(2)


        
#2408/5495 長編
★タイトル (MMM     )  93/12/ 4  15:31  (163)
                             杏子の海(2)
★内容

 その日僕は学校から帰ってくるとじりじりと照らす西陽を階段の上の小さな窓から
見つめているとどうしようもない青春の衝動とでも言うのだろうか、何物かに胸を突
き上げられるようになってランニングするときの服に着替えて家から駆け出し始めた
。不思議な抑えようもない熱感が僕にはあった。
 また一日の苦しみに満ちた学校が終わった解放感が僕にはあった。
 網場の海のあの浜辺まで1kmぐらいだろうか。その1kmは短かった。僕はいつ
ものように小さな獣道を駆け降りていつも杏子さんが車椅子を銀白に輝かせながら海
を見ている浜辺のうしろの林の中に倒れ込んだ。
 僕の目の前には激しい僕の息で揺れる高さ15cmほどの青い雑草。そして吹き荒
ぶ砂のような土。そして僕の躰の下には汗と熱るナいっぱいになった僕の躰を優しく包
み込むひしゃげた草と土の塊。僕はいつも苦しい息の下そうして倒れ伏しなz;車椅
ィ子の杏子さんの姿といつも何か呟いている歌声なのだろうか、それとも何かに(妖精
か何かに)喋りかけているのだろうか、杏子さんの声を聞き取ろうと耳を澄ませるの
だった。
 あっ、歌っている。杏子さん何を歌っているんだろう。
 僕は死にものぐるいでその歌声の意味するのを探ろうと耳を澄ませた。


『敏郎さん。出ていらっしゃい。敏郎さんB私゚、解っているのよ。』
 私は何度もこう言おうという衝動に苦しみました。私には解っていました。後ろの
蜜柑の木などが植わっている林のなかに敏郎さんが倒れるように隠れているのを。
 夕暮れで周りは少しづつ薄暗くなっていっていました。波の音と小さな小鳥たちの
声が私と敏郎さんを包んでいました。
 私は恐る恐る車椅子を動かし始めました。とっても恥かしくて心臓がものすごく激
しく打っていました。
 私、静かに車椅子を動かしていました。なんだか頬がほてってきて私わざとこうし
ているのが敏郎さんに解りそうでとても恥かしかったわ。
 車輪が暗い穴のなかに『ちゃりん。』という音をたてて落ち込みました。

『敏郎さん。助けて! 敏郎さん。助けて!』
 私は必死に心のなかでそう叫びました。恥かしくて顔をまっ赤に染めて俯いていた
と思います。
 一分ぐらいたった頃でしょうか。私、泣きかけていました。敏郎さん、なかなか来
なかったから。敏郎さんの意気地なし。敏郎さんの意気地なし。と私、心のなかでそ
う言いながら悲しくて悲しくて泣いていました。
 でも私が本当に泣き始めようとしているときでした。敏郎さんの隠れている林の方
に『ばしっ』という音がしたと思ったらその音、敏郎さんが林のなかから起き上がっ
て私の所に走ってきてくれている音だったのね。私、嬉しくて嬉しくて頬をまっ赤に
して泣いていたと思います。私、それからそのあとのこと、あまり覚えてないのです
。敏郎さん、駆けてきてたわ。わざと車輪を穴に落とした私のために走ってきてくれ
てたわ。わっ、私恥づかしくって恥づかしくってもう目の前が涙で見えなくなって敏
郎さんの走ってきている姿ももう見えなくなっちゃった。ごめんなさい。敏郎さん。
 やがて敏郎さん。私の所まで来てくれたのね。私の車椅子の把手を持ってくれてそ
して敏郎さん力強いのね。持ち上げて舗装された道の方へと運んでくれ始めました。
敏郎さん、ごめんなさい。敏郎さん、ごめんなさい。私、とっても重たいのにこんな
こと私わざと敏郎さんにさせてしまって。ごめんなさい。敏郎さん。ごめんなさい、
敏郎さん。
 涙で曇っていてよく見えなかったけど、もう少しで私が楽に進めるコンクリートの
道でした。敏郎さん、ごめんなさい。こんなきつい思いをさせちゃって。ごめんなさ
い。
 やがて私、コンクリートの道の上に静かに降ろされました。私、じっとしていまし
た。コンクリートの白い道の上に降ろされたまま私、馬鹿みたいにじっとしていまし
た。私、どうしていいか解らなかったのです。私、目にいっぱい涙をためて、じっと
俯いていました。
 ごめんなさい。敏郎さん。ごめんなさい。敏郎さん。
 ――
 私、5分くらいたった頃でしょうか。わんわん泣いていました。振り向くと敏郎さ
んもう消えていました。なんだか林の奥を駆けてゆく敏郎さんのうしろ姿が草の音と
一緒に見えたような気もするけど。


 ごめんなさい、敏郎さん。ごめんなさい。
 私そうして駆けてゆく敏郎さんのうしろ姿を涙でぐっしょりになりながら見送って
いました。ごめんなさい。敏郎さん。ごめんなさい。

 敏郎さん幻のように消えていってあとには敏郎さんが駆けていった林が寂しそうに
木の葉の音をかすかにたててたみたい。敏郎さん幻の王子さまのように現れてやっぱ
り幻の王子さまのように消えていったわ。そして私、王女さまだったの。海辺で泣い
てた王女さまだったの。

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              (僕は唖の旅人)

 杏子さん。このまえ浜辺で君を救った人を知ってるかい?。彼は唖の旅人でその日
風に乗って東望辺りからやってきたんだ。仙人のように風に吹かれて漂ってきたんだ
。
 僕は以前から君を好きだった仙人で君がその日そうなるのを見越して学校から帰る
とすぐ家を飛び出したんだ。
 ごめんね。友達になるチャンスだったのに。僕もあとでものすごく後悔しました。
ごめんね。
 でもこうやって文通できるようになったから僕は幸せです。この頃一日のうち半分
は杏子さんのこと考えていて、これが初恋なんだなあ、と思っています。胸がわくわ
くしてきて授業中もにやにやと笑ってしまいます。でも僕は仙人のように誰にもこの
こと話していません。僕は今日も一日中にやにや笑いながら授業を受けてきました。
ななめ前の女の子がそんな僕を見て『プッ、』と笑いました。

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                         中一・十二月

 もう十二月になって寒い日々が続いています。杏子さん、風邪なんかひいてません
か? 僕は十一月のなかば頃からずっと風邪をひいていて一ヶ月ぐらいずっと熱が出
ています。それにものすごく痰が出て、授業中なんか困って休み時間になるとトイレ
へ走って行ってたくさんたくさんたまった痰を吐いています。

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(これらは出されずに本棚の片隅にずっと置かれていた手紙の束である。淋しげに何
年間も打ち棄てられていた。そしてこれを見つけたのは大学に入って5年も経った日
のことであったろう。自殺を考えて朝から家で悶々としていた日のことであった。)

 ※(なお、これには、それに含まれないものも含まれている。)

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 敏郎さんドモるから電話しちゃダメだって言うけど、私もたまには敏郎さんとお話
してみたい。敏郎さんどんなにドモッたっていいから電話してみたい。

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 小さい頃、ずる休みばっかりしていた僕。僕は卑怯だった。でも僕はそれほど毎日
の学校が苦しかった。僕が仮病を使ってずる休みをするのも当然だった。

 卑怯な僕。小学校一年二年のときのようにまたずる休みするようになった僕。中学
生になってまたずる休みするようになった僕。

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 もう夏になりかけているこの頃です。杏子さん、お変わりありませんか。僕はこの
日曜日、朝起きてからずっと勉強していました。そしてソッと窓辺から外の景色を眺
めたら、杏子さんの顔をした入道雲が出ていて僕は思わずおかしくなりました。
 なぜその雲は杏子さんにとてもよく似ているのかなあと不思議に思います。
 ゴロが散歩に連れていってくれるように窓辺から顔を出して外の光景を見ていた僕
を見つめて吠えています。でもゴロは悲しい目をして。
 白いヨットが海の上に浮かんでいます。幾つ浮かんでいるかなあ。青い海にその白
いヨットはとてもよく映えていて、スイスイと気持ちよく海の上を動いているようで
す。
                         中二・六月
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 僕とゴロは泣きながら帰っていた。杏子さんを見た悲しさと、悲しそうだった杏子
さんの姿と、寂しげな夕暮れの景色と、僕は悲しかった。
 僕とゴロはてんてんと家へ向かって走りながら泣いていた。道を行き過ぎる恵まれ
た人たち、何も悩みのないようなクラスメート、幸せなクラスメート、苦しむ僕や杏
子さん、僕は悲しかった。

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 君の涙と僕の涙が解けていき、そうしてこの雨になっているのだろう。君の涙と僕
の涙が一つになって、この目のまえの雨になっているのだろう。窓から杏子さんの家
を眺めながら僕はそう思っている。

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 人生って何だろう。恵まれている人は恵まれたままで、僕らハンデイを持った僕ら
はこうして苦しんでいる。恵まれている人は恵まれているのに、

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――僕は一日の睡眠時間がもう5時間を切っていた。毎日12時まで題目をあげてい
た。7時半にクラブから帰ってきて、それからゴロの散歩にいって、8時くらいに帰
ってきて、それからお風呂に入ったりご飯を食べたりして、それから勤行して唱題を
一日五千遍(一時間四十分――朝のと合わせて)あげている。それから教学(日蓮正
宗の勉強)を二、三十分すると、もう12時になっている。そから中国語の勉強や学
校の勉強を2時半ぐらいまでして寝て、朝は7時ごろ起きて急いで朝の勤行と唱題を
して3分ぐらいでご飯を食べて学校へ走っていっていつもギリギリで(いつも遅刻に
なる鐘が鳴ってるときに――いつもその鐘の音が鳴り終わる寸前に――いつもそのチ
ャイムの最後の鐘の音がの余韻が響いているときに――いつも、今にもその最後の鐘
の音の余韻が消えようとしているときに――いつもさんかく(僕の友達)と一緒にギ
リギリで教室に入っていっている。(さんかくはでも僕とちがって、そのチャイムの
最後の音の余韻が消えた寸前に教室に入っていて、先生から半分冗談に怒られている
けれど)――でも僕は四回か五回に一回しか最後の鐘の音に遅れません。――)





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