AWC 一遍房智真 魔退治遊行 恩愛    西方 狗梓


        
#2390/5495 長編
★タイトル (ZBF     )  93/11/25   4:19  (170)
一遍房智真 魔退治遊行 恩愛    西方 狗梓
★内容

一遍房智真 魔退治遊行−恩愛−  西方 狗梓:Q-Saku/Mode of Fantasy

 うららかな春の午後、通尚は縁側に出て呆やりと、娘・台与(とよ)の独楽遊
びを見ていた。もう何も彼も投げ出してしまいたかった。隣接の武士との所領争
いが起きていた。所領など放棄してもよかった。いや、所領だけではない。家も
太刀も血族も、すべて放棄しても構わない。この執着、この世への絶ちがたい執
着が消え失せるなら、すべてを捨ててしまいたかった。苦しかった。しかし、通
尚は河野別府家の当主であった。行動に自由はない。所領は命を懸けて守らねば
ない。通尚は悩んでいた。
「七郎様」通尚は自分を呼ぶ声で、正気に戻った。紅顔の美丈夫がニコニコと笑
っている。背は六尺に余るが、しなやかに引き締まった肉体。近くの石井郷に住
む河野六郎通有、通尚の従兄弟の子供だ。優男ながら、十四年後の蒙古来襲で勇
猛随一と謳われた剛の者。文永の役後に博多湾には防塁が構築されたが、九州防
備の任に就いていた彼は、危険を顧みず、その外に陣を敷いた。味方が「河野の
後築地」と驚嘆した武勇伝は、余りにも有名だ。河野氏正系の嫡男である。十八
歳。
「おお、六郎か。鯛のイイのがある。上がって酒でも……」と、通尚が言いかけ
た横から台与が、
「ダメぇ、六郎様は妾と遊ぶのぉ」と通有の袖にぶら下がる。通有は、お気に入
りの台与に甘えられ、悪い気はしていないようだ。軽く笑って、独楽遊びの相手
をしてやる。通尚は睦まじく兄妹のように遊ぶ二人を見て、台与が十五になれば
通有の妻にするのも悪くない、と考えた。
 妻? 通尚は、吾が妻、与に思いを至らせた。十年前、与は台与を宿した頃か
ら、人が変わった。無口になった。冷たくなったのではない。何時も、何が起こ
っても、ただ薄く笑みを浮かべ、深い慈愛を放っていた。閨房でも、あれほど激
しく、牝となっていたのに、通尚が挑んでも、やはり薄く笑いながら、まるで赤
子に乳を授けているかのように、穏やかに反応するようになった。どんなに通尚
が激しく攻め立てようと、乱れることはなかった。通尚の欲望も、変化した。か
つて通尚が与に挑んだとき、それは凌辱と支配の欲望に依っていた。それが変わ
った。胎内への回帰、一体となることへの憧れが、通尚を与との交接に衝き動か
すようになった。通尚にとっては、与は既に母、だったのかもしれない。
 母になると、女は変わるのであろうか。通尚は廻る独楽を見つめながら、考え
込んだ。あれほど気侭な少女であった与は、娘という分身の存在により、あれほ
どまでに変わってしまった。人は言う。血の繋がりほど尊いものはない、と。し
かし、この恩愛の情こそが、人をして現世に執着せしめている根元ではないのか。
恩愛の情あるが故に、所領を館を地位を守ろうとしているのではないのか。この
恩愛、いや執着の情こそが人を悩ませているのではないのか。
 通尚は考える。自分は与を愛してしまった。そして与は台与を宿した。宿した
ことによって、与は母となった。親と娘、そこにまた恩愛が生まれた。因果が因
果を生み、愛が愛を生む。則ち、執着が次なる執着を生み、廻り続ける。まるで、
独楽のように。しかし、はじめから廻らねば、どうだろう。廻り始めるから、廻
り続ける。自分が与を愛さなければ、台与は生まれなかった。因果は自分の裡に
とどまったのではないか。与は明るい少女の侭に時を過ごしたのではないか。捨
てよう。何も彼も捨てよう。捨て去って再び、出家するのだ。
 通尚が、そこまで考え至った時、背後でカツッと音がした。通尚が振り返るよ
り早く、通有が血相を変え庭を飛び出していく。通尚は振り返る。館の柱に一本
の矢文が刺さり、揺れている。万が一を考え、台与を館の中に入れる。矢に結び
付けた文を開けると、通尚と所領争いをしている近郷の武士、一色太夫からの喚
び出し状であった。
「矢を放った奴を捕らえようとしたのですが、……逃げられました」通有が肩で
呼吸をしながら戻ってきた。
「一色太夫からだ。一人で館に来い、と書いてある」通尚は書状をヒラヒラ振り
ながら、事も無げに言う。
「なんとっ、そちらこそ一人で館に来いと言ってやりましょう」
「いや、行ってみる」
「馬鹿な。そんな……」
「いや、行ってみる」通尚は、静かに言い切った。
「ならば私も一緒に」
「いや、一人で行く」
「そ、そんな……。確かに七郎様は一族随一の武芸者です。でも、たった一人で
 ……。そんな、殺されに行くようなものです」
「殺される、か。それもイイではないか」
「…………」通有は呆気にとられ、通尚の顔を見つめる。盛りの春の風が丸く砂
を捲き、柔らかく二人の頬を撫ぜている。

          ●

 一色太夫の館は、河野別府家から一里ほどだった。通尚は付いてこようとする
通有を無理に押し止め、一人で館を出た。馬にも乗らず太刀一本を腰に差し、ブ
ラリブラリと畦を伝って行った。途中、寂れた山門を、通りかかる。近くの寺な
がら、通尚は訪ねたことがない。親戚の越智氏が建てた寺で、宗派は真言宗。通
尚は不図、山門を潜る。境内は静まり返り、人の気配は無い、と思った途端、本
堂から六十は越えたかに見える枯れた僧侶が現れた。無論、頭髪は無いが、眉が
雪のように白い。
「これは、これは」老僧が、よく通る声で話しかけてきた。
「河野七郎と申します。通りかかったので立ち寄りました」
「寺は誰にでも開いておる」老僧は穏やかな声。
「初めて参って図々しいが、御本尊を拝ませていただきたい」
「どうぞ、こちらへ」老僧の招きで通尚は、本堂へと上がった。堂内はヒンヤリ
と、そして静まり返り、淡く香が漂っていた。通尚は本尊の正面に正座し目を閉
じると、読経を始めた。余りにも見事な読経に、しばし老僧は驚いていたが、通
尚の隣に威儀を正して座り、唱和した。暗く静謐なる堂内に、朗々と経の波が生
まれる。音は波動、波は光、光は影にして形。音を観ずるを観音と言う。音/波
動が世界の本質である。小半刻も経ったであろうか、漸く読経は終わり、通尚は
深々と老僧に辞儀をした。
「久しぶりに読経した心持ちとなりました」通尚の声は晴れやかだった。
「さてもさても見事じゃった。出家されていたことがおありか」
「はい。幼い頃、太宰府の寺で修行しました」
「道理でのぉ。ワシは写愚、先月この寺に参ったばかり。宜しゅうにの」
「こちらこそ。それでは、失礼します」通尚はスックと立ち上がる。
「うむ。また来られい」老僧は通尚を見上げ、微笑んでいる。
「…………」通尚は、その言葉には答えず、静かに笑っただけだった。が、思う
ところがあるらしく、急に真顔になった。老僧に太刀を差し出し、
「重ね重ね図々しいのですが、この太刀を暫く預かっていただきたい」
「武士が太刀を手離す、とな。……何か余程の訳があるのじゃろう。承知した」
「ありがとうございます」通尚は再度、深々と辞儀をして堂を出た。降り注ぐ三
月の陽光は、暗さに馴れた目に眩しい。二、三度瞬きをして通尚は、歩き出す。

          ●

「ちと失礼する。厠に参る」飲みかけた杯を置くと立ち上がり、一色太夫が部屋
を出る。裏手に回り、腹巻き具足で武装した郎党たちを手招きする。集まった郎
党に、
「もう一度、館の周りを見て参れ。丸腰で来るとは解せぬ。七郎の奴、何か策を
 巡らせておるに相違ない」
「お館、もう何度も見て回りました。考えすぎでございます。丸腰でノコノコや
 って来たのです。七郎は伊予でも並び無き猛者です。これを逃して機会はあり
 ません」獰猛な顔の郎党が一色太夫に食って掛かる。
「静かにせよ。七郎に聞こえるではないか」太夫は辺りを見回して、
「念には念を入れねばならぬ。行って来い」太夫の言葉に、郎党は顔に屈託を残
した侭、出ていった。一色太夫が座に戻ると、通尚が、
「今日は御馳走になりました。次は私が招待しますので是非、お越し下さい」
「もう、お帰りか。まだ宵の口ですぞ。夜が更けるまで酌み交わしましょうぞ」
驚き慌てて一色太夫は、立ちかける通尚を引き留めようとする。通尚は一旦、腰
を下ろし、
「いや、早朝の勤めがございます故」
「早朝の勤め?」
「毎朝欠かさず阿弥陀仏を拝んでおります」
「阿弥陀仏?」一色太夫は呆れた顔で通尚を見つめる。
「心が落ち着きます。太夫も如何ですか、お勤めをなさっては」ニコヤカに通尚
は話しかける。
「とんでもない。私のように殺生をする悪人は、如何に拝んでも往生できますま
 い。地獄に堕ちる覚悟は致しております」取り繕う一色太夫。
「いやいや、悪人の往生こそ阿弥陀仏の本願です。さあ、掌を合わせて、……南
 無阿弥陀仏」
「南無阿弥陀仏……」毒気を抜かれた一色太夫は思わず名号を口にする。
「それでは失礼を」通尚はツと立ち上がり、悠然と庭に降りる。一色太夫はボン
ヤリと、門を出ていく通尚を見送る。暫く見送り、正気に戻る。既に、通尚の姿
は、見えなくなっている。ハタと正気付いて、絶叫する。
「しまった。皆の者、出てこい。追えっ、七郎を追うのだっ」

          ●

 通尚は不思議に思った。一色太夫は自分を殺そうと館に招いたのではなかった
のか。しかし、何も起こらなかった。それどころか、所領の話さえ出なかった。
一色太夫に下心はなかったのかもしれない。それなのに、太夫が自分を殺そうと
していると、思ってしまった。疑心が暗鬼を生じたのではないか。通尚は愧じた。
そして、死を覚悟して太夫の館へ赴いたにも拘わらず、生きていることを喜んで
いた。
 来る時に立ち寄った寺が、一町ほど先に見えている。枯れた老僧の穏やかな笑
みが浮かぶ。立ち寄ることにした。太刀も受け取らねばならない。通尚は雑木林
を抜け、山門の前に出た。
 風が動いた。殺気が近付いてくる。反射的に身構えた通尚を、バラバラと闇か
ら湧いた男たちが取り囲む。いずれも簡略ながら、腹巻きで武装している。
「七郎、よくもワシを愚弄しおったな。死ぬがよい」闇の中から新たな影が湧い
てくる。一色太夫だ。
「太夫、何のことだ、愚弄とは……」通尚は周囲の男たちに気を配りながら、一
色太夫を見据える。
「うるさいっ、かかれっ」顔をゆがめ、太夫が叫ぶ。
 男たちが通尚に殺到する。通尚は一瞬にして見回すと、一人の郎党に向かって
駆けだす。郎党は大きく太刀を振り上げ、雄叫びしながら向かってくる。間合い
が一間ほどまで縮まった。その刹那、通尚が急に体を傾け、肩から地面に飛び込
み、横様に転げる。郎党はアッと叫んで、通尚の肉体に躓き、無様に倒れる。囲
みの外に出た通尚は素早く膝立ち。目の前で一色太夫が、たじろぐ。そこへ「七
郎殿っ」。鋭い声と共に、太刀が飛び来る。ハッシと受け取り、振り返る通尚。
老僧が莞爾と笑う。スラリと引き抜く白刃が、月の光に一閃する。
 「ぐああぁぁっ」濁った叫びが上がる。一色太夫が崩れ落ちるのを確かめもせ
ずに、駆けだす通尚。しばし呆気にとられた郎党、下人たちは数秒後、正気に戻
る。通尚を追って、駆けだす。

 一団の去った門前には、物体と化した一色太夫と写愚のみが残される。静まり
返っていた林が、ザワザワと、さざめきだす。写愚は、太夫に向かって一頻り読
経すると、昂然と月を見上げた。深い声で、
「時、満つる哉」

(つづく)
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