#2374/5495 長編
★タイトル (HBJ ) 93/10/16 3:33 (132)
『精神的売掛金増加方法』4.5<コウ
★内容
ベランダから部屋に入るとカーテン このアジ、腐ってないだろうなあ。
を引いた。レースのカーテンが、潮風 一応、生食用だけれども、三枚におろ
で大きく膨らんで、エミの頬をくすぐ したスーパーの鮮魚部の店員がバンド
った。私は、しゃがむと、眼を擦って エイドをしていたのを、俺は、見てし
いるエミに言った。「ご飯だよ」 まったのだ。食中毒にでもなったら、
やばい。俺の手も荒れ放題だ。
「パパは一緒に食べないの?」とエミ 「パパは一緒に食べないの?」
が言った。 「揚げたてが美味しいからねえ」なー
「揚げたてが美味しいからねえ」と言 んて、旨い訳がない。真っ黒焦げだ。
うと、康夫さんは、揚げたてのアジの これだけ焦がせば癌にはなっても食中
てんぷらを、再生紙で出来た茶色のて 毒にはならないだろう。でも心配。「
んぷら紙の上に乗せて来て、「もう、 もう、火が通っているかなあ」と里美
火が通っているかなあ」と言った。 に聞いてみた。
「浮かんできたら平気でしょ」と、何 「浮かんできたら平気でしょ」
の気無しに言ってから(しまった)と 簡単に、責任転嫁出来た。これで、
思った。今の康夫さんの確認も、精神 もし本当に食中毒になっても、「だか
的売掛金増加の手段なのだ。だけれど ら、言ったじゃないか! 俺の言う通
も、いちいち、相手の言葉の裏に、別 りにしておけば、食中毒にはならなか
の意味を読みとろうとするのは、異常 ったのだ」と言える。だけれども、こ
な事かも知れない、と思って、アジの いつ、空を使って、とぼけるかも知れ
てんぷらに箸を伸ばした時に、康夫さ ないなあ。もう一回、念を押しておく
んが言った。 か。
「もしかしたら煮えてないかも知れな 「もしかしたら煮えてないかも知れな
いから、煮えてなかったら、電子れん いから、煮えてなかったら、電子れん
じでチンして」 じでチンして」
(ああ、やっぱり)と、私は確信した エミは、箸も握らないで、脚をぶらた。
のだった。 ぶらさせている。
「どうして食べないの?」 「どうして食べないの?」と俺。
「てんぷら、きらい」 「てんぷら、きらい」とエミはきっぱ
「パパはてんぷらは大好きだよ」 り言った。
「どうして?」とエミ。 「パパはてんぷらは大好きだよ」
「だって」 「どうして?」
康夫さんが、何で、生煮えにこだわ 「だって・・・・」
るのか、不思議だ。だって、さっき、 続きは腹に飲み込んだ。「だって、
ビールを出す時に、冷蔵庫の中のアジ 腕に印が出来るから」とは言えないも
のパックを見たら生食用だったから、 のなあ。印とは、油がはねて出来た火
完全に、熱を通さなくても平気な筈な 傷の痕の事だ。こういう印があれば、
のだ。その事を考えながら、てんぷら 何処かの誰かに、「どうせ、お前は、
を揚げている康夫さんの背中のエプロ 楽をしているのだろう」と言われた場
ンの紐のバッテンを見ていると、『逆 合に、「冗談じゃない、この火傷を見
噴射家族』の小林克也を見ている様な ろ」と、まあ、里美の言葉を拝借すれ
気分にもなってくるし、突然、発狂し ば、精神的売掛金の手形の裏書きを示
て、「わあ!」と油鍋をぶちまけるの す事が出来る訳だ。鍋に、水をたっぷ
ではないのか? などと不安にもなっ りと含んだアジを滑り込ませると、バ
たのだけれども、それは、そんなにシ チバチバチと、油がはねて、俺の腕に
リアスな心配ではなくて、ウォシュレ 印を作る。熱い。だけれども、気持ち
ットのボタンを押したら熱湯が吹き出 いい。俺は変態マゾッホか?
てくるのではないか、という様な、か それはともかくとして、エミに何か
すかな不安なのだけれども・・・・ 食わせないとイカンなあ。
「それじゃあカレーを食べる?」と主 「それじゃあカレーを食べる?」エミ
税さんが言った。 に聞いてみる。
「うん」 「うん」
昨日、私がこしらえた物だ。昨日は、 おたまが差したままになっているホ
私が炊事当番だったのだ。 ーローの鍋をコンロにかけた。
「これ、腐ってない?」 「これ、腐ってない?」と里美に聞い
(ああ、又か)と思った。 てみた。昔、神宮球場のカレーを食っ
「火を通しておいたから平気だよ、私、 て、腹を下した事を思い出した。
今朝も食べたもの」と言った。 「火を通しておいたから平気だよ、私、
「本当?」と言うと、康夫さんは、お 今朝も食べたもの」と里美。
たまについたカレーに匂いを自分でか 「本当?」なんとなく臭う様な気がす
いでから、「ちょっと、かいでみてよ」 る。一茶じゃあるまいに宵越しのカレ
と私におたまを差しだした。 ーなんて。「ちょっと、かいでみてよ」
「平気って言ったら、平気」 と里美におたまを差しだした。
これで食中毒でも起こしたなら、「 「平気って言ったら、平気」語気を強
大丈夫って言ったじゃないか!」と言 くして、里美が言った。
う訳だ。私の売掛金を減らす魂胆だ。 何を怒っていやがる。誤解しやがっ
たな。それとも、月のさわりか?
パタパタとスリッパの音をたてて、 やっとの思いで、エミを寝かしつけ
康夫さんが、寝室に入ってきた。私は、 た時には、くたくただった。脚を引き
寝返りをうって、康夫さんに背中を向 ずりながら、寝室にたどり着いて、ド
けると、 アが開けた瞬間に、「今日は疲れたわ」
「今日は疲れたわ」と言った。 と里美が言った。
「安心しろ、俺も疲れている」 「安心しろ、俺も疲れている」
(この人、何を誤解しているのかしら) 疲れているのは、俺の方だ。皿洗っ
と思いつつ、『対訳ヘミングウェイ』 てパンツ洗ってエミ洗って、この上、
の続きを読んでいたけれども、康夫さ ベットカバーまで汚せるか。里美だっ
んがベットに入ってくるシーツの擦れ て、疲れているなら、さっさと寝れば
る音を聞いていると、集中して読めな いいのに、ヘミングウェイなど読みや
い。(康夫さんの疲れているのは、体 がって。「忘れると脳味噌の無駄使い
であって、大脳ではない。私が疲れて をした気がするから」なんて言ってい
いるのは大脳だから、どうしても付き るが、俺に対する当てつけだ。俺は、
合いたくないなあ)と私は思った。そ 西村寿行が大好きだ。
こで、
「うちの学校ではね、生徒の九割が医 「うちの学校ではね、生徒の九割が医
者の息子で、駐車場には、ベンツやB 者の息子で、駐車場には、ベンツやB
Mが止まっているの。先生が、頭に来 Mが止まっているの。先生が、頭に来
て、片っ端からアンテナを折ったんだ て、片っ端からアンテナを折ったんだ
ってさ」と言った。 ってさ」と里美が言った。
ところが、康夫さんの方では、アン そんな嫉妬話、俺に言われても、筋
テナがペニスを象徴しているなどとい 違いだ。実家のジジイに愚痴れ。まあ、
う事は、全然理解出来ないので、 エミの時にはベンツでも買ってやれば?
「それじゃあ、エミも医者にするか?」 「それじゃあ、エミも医者にするか?」
と、素っ頓狂な事を言ったのだけれど 言ってから、そういうのが大嫌いな
も、ほとんど無意識の内に、自分と娘 のを思い出した。エミにはエミの人生
の話しを、自分と父親の話にすり替え がある。俺には俺の人生がある。だの
てしまって、「どうして、医者の馬鹿 に、「どうして、医者の馬鹿息子が医
息子が医者になる事には、世間は反対 者になる事には、世間は反対なのに、
なのに、俺が家業を継ぐ事には、賛成 俺が家業を継ぐ事には、賛成するのか
するのかなあ」と、彼の実家でのゴタ なあ」と俺は言った。「お袋や親戚は、
ゴタに関する心情吐露を始める。それ お父さんは、もう、歳だから助けてや
はもう、何回となく聞かされた話で、 れ、と言うし、社員は社員で、跡継ぎ
その度に、古井由吉に病気の話を聞か がいないと不安だ、とか言うし、全く
されている様な、陰陰滅滅とした気分 困っちゃうよ。俺、家業を継ぐの、ど
になる。こういう話は、言えば言う程、 うやって断ったと思う? 俺はねえ、
聞いている方は同情しないのだ。 みんなが嫌がる様な汚れる仕事、って、
私は、耳をふさいで、『対訳ヘミン メッキをする前に、錆を酸で洗う仕事
グウェイ』に集中した。『老人と海』 なんだけれども、それをずっとやって
のサンチャゴが、黙って寝台に入って いて、そんな仕事はお坊ちゃんはしな
しまった理由が、分かる様な気がする。 くてもいいという様な仕事をずっとし
もし、彼が、鮫との格闘を、両手を広 ていて、ある日突然、大学まで出て、
げて、身ぶり手振りを交えて、大げさ こんな仕事をさせるのか! と言って、
に、村のみんなに語ったとしたら、台 家を出たんだ。あれは卑怯なやり方だ
無しになってしまう。一人で小屋に帰 った。ああやって、雰囲気を出したの
って、孤独な木製のベットに入る時に は、卑怯だったよ」
こそ、饒舌を発揮するのだ。一方、隣 俺は、腕の傷跡を見た。このてんぷ
のフランスベットで寝ている康夫さん らの火傷も、錆の酸洗いと同じかも知
のやっている事は、修辞で飾った安物 れない。結局、俺は、あんまり進歩し
の小説の様なものだ。小説という物は、 ていないのかも知れないなあ。女々し
薬の効能書きではないのだから、読ん い。「悲しい、悲しい」と、いくら言
だ後で、「さて、製品は?」と言った 葉で言っても駄目だから、「本当に悲
所で、何も出てこない。だが、もし、 しいのだ」という証明をする為に狂言
よい薬ならば、効能書きは、下手糞で 自殺をする女の子の心理に似ていなく
もかまわないのだ。いや、むしろ「余 もない。里美に言わせると、人に殴ら
りきかない」程度に書いておいた方が せておいて、突然、損害賠償を請求す
いいのではないのか? 実際を持って る手口だそうだ。
いれば、余計なお喋りをしないでも済 「里美」と俺は、里美の背中に言った。
むのではないのか? サンチャゴの沈 「聞いているの?
黙の様に・・・・。 眠ってしまったの? お前、無口だな」
「お前、無口だな」と康夫さんが呟い
た。