#2373/5495 長編
★タイトル (HBJ ) 93/10/16 3:24 (164)
『精神的売掛金増加方法』4<コウ
★内容
【2】
FM・FM・FM・FM
♀♀♀♀ ♂♂♂♂
四年間は、あっ、という間だった。 うんざりする様な、四年間だった。
「一口に四年間と言っても、365日 「一口に四年間と言っても、365日
が四回だ」 が四回だ」
ソウル五輪以来、怪我に泣かされた バルセロナ800メートル決勝で、
黒人アスリートが、ブラウン管で泣い 腱を切った黒人が、テレビで泣いてい
ていた。 る。
「365日が四回」なんて言われても、 あの黒人の気持ちは、よーく分かる。
全然ピンと来ない。そこで、汗をかい 俺なんて、三ケ月だって大変だったも
たビールのコップの滴で指を濡らすと、 の。三ケ月とは失業保険の給付制限期
テーブルで計算してみた。 間であって、やっと本日満了したのだ。
「1460日ってどんな時間かしら」 「長いよなあ」
と呟くと、私は解剖学の教科書をパタ と呟くと、俺は、料理の教科書のペー
ンと閉じた。 ジをめくった。
「私、四年間なんて全然長いと思わな 「他人から見たら、短く思えるかも知
い」とトイメンの康夫さんに言った。 れないけれども、一口に三ケ月と言っ
「だって、鈴木大地と岩崎恭子のどっ ても、三十日が三回だぜ」
ちがバサラ泳法だったか覚えていない なーんて言ったら、本当に長い間の苦
もの」そう言ってから、どっちがバサ 労だった様に思えて来て、三十五才ぷ
ラ泳法だったか忘れてしまうぐらいだ ーたろーの惨めな毎日やら、DODA
ったなら、四年間というのは、長くて やBーingの残酷な応募資格やらが
遠い昔の事なのではないのか? とも 思い出されてきて、急に、自分が可哀
思えた。しかし、私の頭の中では、ど 想になってしまって、そういう苦労を、
ちらの選手も、今年の夏にハイレグで 岩崎恭子の苦労に、重ね合わせてみた
泳いでいたのをハイビジョンで見た様 けれども、岩崎恭子が勝ち得た金メダ
な気がしたのだ。そこで、ミューヘン ルと、俺が施された四十三等級の雇用
五輪のマーク・スピッツに比較したら 保険では、イメージが全然違う。「あ
鈴木大地も岩崎恭子も最近の事だ、と ーあ」、大きなため息をついて、『楽
言おうと思ったけれども、悪い事に、 しい夕食』を閉じると、立ち上がって、
マーク・スピッツは、バルセロナ行き 宮内庁御用達日清製粉てんぷら粉を天
を賭けて、マッド・ビオンディと競泳 袋から出した。
していたのだった。
康夫さんは、今や流し台で料理を開 最近、メシの支度をするのが、空し
始したので、私の位置からの見通しを い。食っても食っても、みんなウンチ
遮るものがなくなって、リビングが見 になるだけだ、という気がする。
渡す事が出来た。リビングのソファに エミはいいなあ。エミは食った分だ
は、エミが眠っている。エミのくるま け、成長する感じがする。だけれども、
っているタオルケットのほつれた糸が、 ここまで育てるのは、それはもう、大
クーラーの風に揺れていた。 変な苦労だった。
田舎のお母さんやお父さんは、滅多 里美んちのババアやジジイは、しょ
に遊びには来ないのだ っちゅう様子を見に来ては「アッとい
けれども、遊びに来た時には、エミを う間に大きくなるのね」を連発する。
見つけて、「あらあら、アッという間 人の苦労も知らないで、何を言うてけ
に大きくなって、首も座らなかった赤 つかんねん。岩崎恭子ちゃんも、畳に
ん坊が、今では生意気盛りの幼稚園生 ごろんと横になって、テレビの前で煎
!」と驚く。私の方でも、長い間、苦 餅をかじっている誰かに、「よくやっ
労をして育てた、とは思えない。『ス たじゃん」と言われたら、ムカつくん
ポック博士の育児百科』に書いてある だろうなあ。あのババア、エミを育て
様な、「育児ノイローゼ患者の基本的 たのは里美だとは思っているんじゃな
な心理は、何時までもこの状態が続く いのか? 里美ですら、そうかも知れ
と思い込んでいる事だ」という様な心 ない。
境は、全然理解出来ない。だったら、 エミには風呂でたたき込んである。
やっぱり、最近の四年間は、「アッと 「ほら」と言って、俺は、湯船から小
いう間」だったのかなあ、とは思う。 指だけを出す。「この指の傷は何だか
だけれども、いくら「アッという間 分かるかな?」
」とは言っても、子供というものは、 「分からない」
シルクハットから鳩が飛び出す様な、 「これはねえ、エミがひきつけを起こ
劇的な成長を遂げる訳では無いし、毎 した時に、エミが噛んだんだよ」
日育てていても、目に見えて大きくな 「どうして?」
るものではないのだから、「だったら、 「舌を噛むと死んじゃうから、パパの
私には、例えば岩崎恭子ちゃんが金メ 指を噛んだの」
ダルを獲得した様な感動は無いのかし 「ふーん」と言って、エミは、俺の指
ら?」と思えて、ちょっと、つまらな の傷を触ったりする。
い気もする。 「その時には、ママはいなかったんだ
・・・・いやいや、そうでは無い、 ぞー」
と、私は思った。一見、私の生活は変 「どうして?」
化していない様だけれども、「子供が 「ママはねえ、友達とお酒を飲んでい
居ようが居まいが生活なんて変わらな たの。ママはお医者さんになるんだけ
いよ」と言える資格は得たのだ。 れども、エミの命の恩人はパパなんだ
私は、なんとなく豊かな気分になっ よ」
て、タバコに火を付けると、大きく煙 こういうのは、空しい。思い出して
を吸いこむと、ぷわー、っ吐いた。煙 いても、背筋が、ゾッとする。寒気が
は、ゆっくりと立ち登って行ってが、 する。エアコンがききすぎているんじ
天井に届かない内に、エアコンの風に ゃないのか? エミに風邪でもひかれ
かき乱された。 たら、面倒だなあ。小指の思い出は、
「これは貴重な心境の変化だわ」と、 もう沢山だ。里美も、寒くないのかな
思って、私はエミを見やった。 あ。ここらで一丁、小さな親切大きな
お世話をやってやるか?
「お前、寒くない?」背中で、てんぷ 「お前、寒くない?」
ら粉のボールに氷を入れながら、康夫 里美の背中が、びくんとした、様な
が言った。(始まった!)と思った。 気がした。こんな事は、お茶の子さい
(変わっていないのはこいつだ)今の、 さい、お手の物だ。
「お前、寒くない?」は、四年前のア 俺曰く「雨が降るかも知れないよ」(
ラスカのタクシーの中の、「お前、煙 俺は気象庁か)
たくない」という台詞と同じだ。それ 俺曰く「早くしないと電車に乗り遅れ
は、優しさでも何でもなくて、もし風 るよ」(俺は駅員か)
邪でもひこうものなら、「だから言っ 俺曰く「交通事故に気をつけて」(俺
たじゃないか」と言うだろうし、風邪 は警察か)
をひかないでも、「俺がいるから、お 俺曰く「酒の飲み過ぎだよ」(俺は医
前は、風邪をひかないで済んだ」とい 者か)
う、精神的売掛金増加術なのだ。 俺曰く「タバコの吸いすぎだよ」(明
美が医者になる)という具合だ。
私は、背筋に寒気を感じながら、主 あ、凄い目して睨みやがった。もう
税さんを見上げた。「寒くないの? 一回、言ってやろ。
お前、鳥肌たっているぜ」 「寒くないの? お前、鳥肌たってい
この鳥肌はエアコンではなくて、あ るぜ」
んたの優しさのせいだ、ぞっとする。 何か考えているな、漁夫の利女。俺
だけれども、ここで、「寒いと思った の『親切』を、なんとかかわそうと、
ら自分で消すから、私の事は放ってお 頭の中で、ぐるんぐるんしているに違
いて」などと言おうものなら、「どう いない。この、篭抜詐欺師、武器商人、
して、そんなにひねくれているのかな アヘン戦争、ヨブ記、『雇用利子及び
あ、お前の為を思って言っているのに」 貨幣に関する一般理論』、石毛。そう
と言われるのが、おちだ。 いえば、今日は増田屋は定休日だった
のだ。昼間、泣いて、損した。
そこで私は、「そうね」と言った、 「そうね」と言うと、里美は立ち上が
が、このまま『愛情』を受け入れてし った。「エミが風邪をひくといけない
まったら精神的な手形を発行した事に から」
なるので、「エミが風邪をひくといけ 「エミの為に、か」俺は、小さな声で
ないから」と最大限の皮肉をつけ加え 里美の背中に呟くと、アジをてんぷら
てから灰皿にタバコを押しつけて立ち 粉につけた。
上がった。
(これじゃあ、ジェリー藤尾夫妻と一 (これじゃあ、ジェームス三木夫妻と
緒だわ)と思いつつも、リビングに向 一緒じゃないか)と思ったけれども、
かって、ソファに寝ているエミのほっ 里美の気持ち、つまり、精神的な部分
ぺにキスをしたら、本当に冷たかった で借りを作りたくない、という気持ち
ので、(確かに、寒かったのね)と思 も分からないでも無い。
って、慌てて、エアコンのリモコンの 毎月一回、俺は、家業のメッキ屋の
停止ボタンを押した。 給料計算のアルバイトをしているけれ
アルミサッシを開けると、海風が吹 ども、そのバイトは、時給なのだから、
いてきた。私は潮の匂いを吸い込んだ。 出来るだけ多くの時間をかけた方が儲
遥か水平線のあたりに、何処からか伝 かるのに、俺は、出来るだけ早く仕事
わって来た夕陽の紫色が残っているけ を終わらせて、「お前は、結構、仕事
れども、全体としては、すっかりと暮 が出来るなあ」と親父に誉められた方
れていて、藍色の夜空にベイブリッジ が気持ちがいい。賃金は、誉められ言
の飛行機避けのストロボが点滅してい 葉に反比例して少なくなるにも関わら
るのが見えた。港の方からは、ウナギ ず、そうなのだ。これは、里美に言わ
やクジラの鳴き声の様な警笛が聴こえ せれば、賃金は少なくても精神的な売
てくる。なかなかロマンチックな気分 掛金が増加するから満足なのだ、とい
になって、BOSEのスピーカーの上 う事らしい。
に飾ってあった、望遠鏡(これは、測 しかし、あのバイトがばれたら、雇
量会社で康夫さんが愛用していた物を、 用保険の不正受給になるなあ。親父の
肩叩き退職の記念に貰ってきた品なの 会社でも、肩叩き退職を進めているか
だが)を持ち出すと、ベランダに出て、 ら、失業した連中と、職安で鉢合わせ
山下公園の方を眺めた。 ないとも限らないものなあ。それにし
ても気に入らないのは・・・・。
「職安の係員って」とキッチンの方か 「職安の係員って」ベランダでデバガ
ら康夫さんの声が聞こえた。「丸で働 メをしている里美に言った。「丸で働
く気が無いのかという様な口のきき方 く気が無いのかという様な口のきき方
で気に入らないな。まあ、僕達失業者 で気に入らないな。まあ、僕達失業者
がいるから、職安の連中が失業者にな がいるから、職安の連中が失業者にな
らないで済むのだけれどもな」 らないで済むのだけれどもな」
何でそんな事を言うのだろう? と 中でも気に入らないのは、書類をチ
私は思った。私に精神的売掛金を与え ェックする、眼鏡だ。腕貫なんてはめ
るというのは分かる。だけれども、職 ていやがる。職安には港湾労務者風情
安の人間にまで、恩着せがましい事を が多いから、Yシャツが汚れるって、
言うのは何故? か? ドケチめ。奴のすすっているお
私は、聞こえないふりをして、望遠 茶っ葉だって、俺らの納めた雇用保険
鏡に目をくっつけていた。ベイブリッ 料でまかなわれているのに。冗談じゃ
ジの上を行く自動車のランプが、盆踊 ない。頭に来たから、唾吐いてやった
りの提灯の様につながっている。「一 ら、「唾を吐くな、道路だって労働者
人ぐらい働かないでも、あんなに綺麗 の税金で出来ているのだから」なんて
な道路が出来るのに」と私は思った。 ぬかしやがった。
「ねえ、聞いているの?」と、康夫さ 「ねえ、聞いているの?」聞こえない
んが言った。「てんぷらが揚がったん 振りしやがって。「てんぷらが揚がっ
だけれども」 たんだけれども」