AWC 『精神的売掛金増加方法』2<コウ


        
#2370/5495 長編
★タイトル (HBJ     )  93/10/16   2: 7  ( 82)
『精神的売掛金増加方法』2<コウ
★内容
♂♂♂♂
 俺には、分からない。
 例えば食事とか性的な行為の様に、世間の人々が普通にしている事について、「
何でそんな事をするのだろう」と疑う場合には、おかしいのは、世間の方ではなく
て、それを疑う俺の方だ、と考えて間違いない。その事は十分に理解しているのだ
けれども、俺には分からない事がある。「何でみんなが喋るのか?」という事が分
からない。俺には、生まれてこの方、これだけは伝えておきたい、と思った事は無
かったし、この世のほとんどの台詞について「そんな事は言ってもしょうがない」
と思うのだ。せいぜい、言うに値する事は、「飯」「風呂」「寝る」ぐらいだ。も
っとも、この三つとも、今の俺には、あんまり関係ない。失業中だからだ。
 時々、ベラベラ喋っている連中を見ると、大それた仮説として、「俺以外の全部
キチガイ」などと思ったりする。特に世界史の教科書やBS放送を見ている時には、
「そうかも知れない」と非常に思う。ナチ統治下のドイツ人は「これは普通の事だ」
と思って、ユダヤ人にああいう事をしたのだから、今日ベラベラ喋っている連中が
「これは普通の事だ」と思っているのも、アウシュビッツと同じぐらい異常な事か
も知れない。だけれども、精神科医の卵の里美に言わせると、「岩崎恭子が日の丸
を揚げて『やったあ!』と思う気持ちと、ナチ統治下のドイツ人の心理は同じ」だ
そうだ。俺は恭子ちゃんが大好きなのだ。
 俺が、明かに、「こんな事を言っても仕方がない」と思ったのは、四年前のアラ
スカのタクシーの中での事だった。俺と里美は、新婚旅行で、あんな僻地に行った
のだ。
 ホテルからアンカレッジ空港に向かう観光タクシーの後部座席で、俺は相当に美
しい新婦の里美を見つめていた。相当と言うのは、各種宝石・カモシカの脚・ハリ
ウッドの女優等を引っ張り出して形容するのが馬鹿馬鹿しい程に、美しいという事
だ。
 タクシーのヒーターで上気した、化粧っ気のない赤ちゃんの様な頬を見ていると、
会社で、机を並べていた時の事を思い出す。俺達は同じ測量会社に勤めていて、社
内恋愛で結婚したのだ。里美は、会社の昼休みには、決まって、『対訳ヘミングウ
ェイ』を読んでいたが、読書をする時の癖で、右腕を左肩に回して、つまり、自分
で自分にスリーパーホールドを掛ける格好で読むから、自分で自分の首を絞めてし
まって、それで、顔が真っ赤に上気するのだ。その時刻、俺は、『週間ポスト』や
『アサヒ芸能』や、金曜日には『勝馬』を読んでいた。里美の方では、努力が実っ
て、婚約と同時に退職すると、横浜の医科大学に入学してしまった。俺の方では、
あいも変わらず、独身寮とコンビニと会社の三角形を自転車で走りながら、北風に
ジャンパー(ブルゾンにあらず)の背中を膨らませていたのだけれども、そんな俺
の図を見つけては、同僚の連中は「何故だ」を連発していた。当時、そのまんま東
とかとうかずこが結婚した事もあって、みんなは、「たで喰う虫も好き好き」と結
論したのだが、誰にもまして「何故だ」と思っていたのは、他ならないこの俺様だ。
 観光タクシーの後部座席で、今や『花の女子大生』になってしまった里美を見て
いたら、文字通り、えらい高嶺の花を摘んだものだ、と思えてきて、急に不安にな
ってきて、それはもう、皐月賞と天皇賞連続で万馬券を取った様な、俺の一生の運
は、全て使い果たしてしまったから、残りの人生は、不運の連続に違いない、とい
う、エネルギー保存の法則、もしくは、ライプニッツの単子論の様な、そんな感じ
だ。
「横浜になんか、住みたくない」俺は、突然、言った。
 俺の会社は、八王子にあったのだが、里美の学校は横浜にあって、旅行の間中、
俺達は、日本の何処に住むかを相談していたのだ。
 俺には、ここで譲ってしまったら、一気に堤防が決壊する様な予感があった。予
感だけではない。堤防の一部は、既に、ひび割れが生じている。世間では、俺は、
俺ではなくて、「里美さんの旦那」になりつつある。会社の同僚も、「薬剤師にな
ったらいい」とか「医療事務の資格をとったらいい」とか言っていた。冷やかしで
はなくて、真顔で言うのだ。
「あっという間だったわね」毛糸の手袋で、曇ったガラスを擦ると、マッキンレー
の景色を眺めて、里美が言った。たった一週間のハネムーンでは、生活の匂いを忘
れる暇もなく、再び生活の事を考え始めないといけない事が、恨めし様に。
「聞いているのかよ」俺が言った。
「聞いてるよ」
「俺が、満員電車が嫌いなのは知っているだろ」
「でも、逆方向だから、空いているかも」
「満員だよ満員、今は多摩センターや南大沢から大勢乗って来るんだ」
 実は、俺は、何処に住んでもよかった。しかし、仮に横浜に住むとしても、「俺
は嫌だけれども、お前がそう言うなら」という感じにして、貸しを作っておきたか
ったのだ。里美の方でも、どちらに住んでも構わない事を、俺は知っていた。里美
は、理科系の学士を持っていたから、教養課程では、ほとんどの科目が免除される
のだ。
「三年までは八王子でもいいよ」里美は、ごほごほむせながら言った。
 さっきから、白人の運転手が、ぷかぷかタバコを吸っていたのだ。
「それにしても、煙たいなあ」俺はわざとらしい咳をした。「窓を少し開けようか
?」
「いいよ、寒いから」と言うと、里美は、再びガラスを手袋で擦った。「ほら、も
う見えてきた」

 ターミナル前の歩道の縁に下りると、里美は、新鮮な冷たい空気を吸っては、白
い息を吐いていた。俺はといえば、丸で赤帽の様に、スーツケースを降ろしては、
里美の横に並べていた。
 トランクの後ろから、ガラス越しに、運ちゃんの様子が見えた。向こうでも、ル
ームミラーを向けて、俺の様子を観察している。目が合ったので、手伝ってくれる
のかなあ、と思ったら、新しいタバコをくわえると古いタバコから直接火を移して、
運転席にふんぞりかえってしまった。
 荷物を里美の横に並べ終えると、俺は運転席に回って、チップ込みの料金を払っ
てから、「二度と乗らない!」と英語で、おもいっきり、嫌味を言ってやった。
「二度と乗らない!」




前のメッセージ 次のメッセージ 
「長編」一覧 コウの作品
修正・削除する         


オプション検索 利用者登録 アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE