AWC  おじろく庄松(1)       村風子


        
#2337/5495 長編
★タイトル (KGJ     )  93/ 9/ 2  21: 1  (198)
 おじろく庄松(1)       村風子
★内容

          (一)

 山深い信濃の国は春が遅い。
 この奥深い伊那谷も漸く柔らかな新芽が延びはじめて、楢林の梢が、淡く霞んで視え
る。足許の草叢も、枯葉を押し退けて若芽が顔を覗かせた。これがつい二ケ月程まえ迄
の吹雪の枯野とは、とても思えなく、力強いい息吹が感じられる。
 陽は西に傾いていた。
 今日は春につきものの風もなく、日向は暑ささえ覚える。勢子に廻った、与兵と半助
が、クロとブチを引き連れて山へ踏み入ってから半時は過ぎていた。もう猪を追って現
われてもよい頃である。庄松は、今か今かと松の木陰に腰を据えて待ち構えていた。何
時か睡魔に襲われていた、一声長くクロが吠えて知らせる合図の声に、ハッ、として、
声に向かって目を凝らした。草叢の向こう楢林の奥を睨み、耳を傾けた。遠く微かに鳴
子を叩く音が聞こえる。それに入り乱れて、クロとブチが吠えたてている。
 庄松は傍らの斧を掴んだ。二度目の合図をまつ、クロが一声長く吠える。合図だ。楢
林からクロが倒木を跳び越えて姿を現した、続いてブチが跳んだ、枯れ芒が揺れ、走り
猛り狂つた猪が草叢を踏み倒し、倒木を乗り越えて迫る、後にブチがピタリと付いて吠
えたてる。クロは猪の横から吠えつき、猪の鼻先を走り抜ける、猛り狂った猪は、クロ
をめがけて牙を振る、巧みにかわして吠えたてる、猪は向きを替え、庄松に向かって迫
る、大猪だ。今日のクロは異状に激しく吠え跳び走る。
 庄松は身構えて、猪の迫る速さを目測した、初め横に走り、途中から弧を描いて猪に
向かった。距離が見る見る迫った、庄松は息を止めて走った、走りながら、斧を頭上に
構えて、猪の頭に狙いを定めた。五間、三間、二間と間を詰めた、猪は急に鼻を振り、
犬には目もくれず庄松に向いた。その一瞬を。
「やぁー」
 腹の底から吹き出す気合いと共に斧が飛んだ。瞬間、クロとブチも向きを替えて横に
走り、猪から離れた。庄松も弧を描いて猪の突進路を開けた。
 「ギャー」一声、喉が裂けるかに絶唱して飛び上がり、鼻から地面に落ちて横転しな
がらも跳ね起き、土を蹴って走り出したが、すぐに鼻を突いて、崩れ転がり腹を見せて
脚を痙攣させた。
 庄松は爪先に力を込めて踏み留まった。全精力を一瞬に集中した後。肩で大きく息を
していた。手応えは確かであった。静かに振り返ると、脚を上に転がっている大猪を見
据えた。クロとブチは庄松の足許へ来てうずくまり猪を睨んで、身構えている。
 片肌脱いだ、六尺豊かな逞しい庄松の体は、弾力を持つ筋肉で盛り上がり、浅黒く艶
やかに光る肌、精悍であった。
 其処へ与兵と半助けが息を弾ませて駆けてくるなり、猪を見て。
「オオ、すごい獲物」
 半助は鳴子を投げ出して猪に走り寄って、貪るように見入ると、あちこち撫で回し、
満足げにうなづき続けていた。
 与兵は其の場へへなへなと崩れ込み。額の汗を袖で拭きながら。
「歳には、とても、勝てない」と、言いながら猪へいざり寄った、額から頬へ掛けて白
い髪が汗に濡れて張り付いている。
 庄松は黙って猪に近付き、与兵と半助を押し退けて猪の首根に刺さった斧を抜き取り
松の木陰へ戻って腰をおろした。額ににじんだ汗を拳で拭い、斧に付着した血を傍らの
草にこすり付けた。クロはまだ興奮が納まらず猪の周囲を忙しく行き来しながら、低い
唸り声を発している。苦り走った庄松の表情は少しも動かない。
 そこへ草叢を踏みわけて小百姓の源八が現われた。肩に麻縄を掛けている、鹿罠を見
回っての戻りに見えた。獲物が無かったのだ、不機嫌な顔で猪に視線を向けた。半助が
源八に気付いて立ち上がり。
「オイ!見てくれ、この大猪、八丈山の主みたいだ、すごいだろう」
 源八は皮肉な笑いを浮かべて猪を覗き込み。
「うん、しかし、いくらすごい獲物を仕留めても、お前等は御方様に差し出さなくちゃ
あならない被官の身分、それにくらべ、俺達は、どんな小さな兎でも、仕留めさえすれ
ば、自分の物よ」
「ナ、なんだとゥ、その言いぐさ、今一度言ってみろ」
「ああァ、何度でも言ってやる、嘘だって言うのか?」
 源八は肩をいからせて、半助の鼻先へ顎を突きだした。慌てて与兵が割って入り。
 「オイ、よせ」半助を押さえた。
「でも、あんな言い方をされて黙っていられるか」
 憤然として源八に向かおうとする半助の腕を与兵は強く掴んだ。源八は嘲笑を残して
歩きだした。庄松は独り言のように言った。
「本当のことだ」八丈の峰に視線を向けていた。半助は憤然として掴まれている腕を振
り払い。
「小百姓などに馬鹿にされて黙っていられるか」
「小百姓と啀み合うなんて愚の骨頂だ、奴等の主人は本百姓で、俺等の主人は御方様。
言ってみればお互い村では下っ端の子方」
「御方様の方が本百姓よりは上だ」
「それはそうだ、村で一番偉いのは御方様だ、だからって、被官が上だと言い張っても
得るものはないぞ、こんな事に腹をたてるなんて、未だ、若い。馬鹿だチョンだと言わ
れて、腹をたてたら、この村には居られない、それが子方だ。もうそろそろ、それが分
からんといけない歳だ。さァ、急いで、これを片付けてしまえ」
 与兵は半助けを促して腰の荒縄を取り、猪の後脚を結わえた。半助の手を借りて、傍
の松の太い枝へ猪を逆さに釣り下げると、腰の山刀を抜き、慣れた手付きで、猪の喉を
えぐった。血は滴り落ちて芽吹き初めた枯れ草原を朱に染めた。
「八丈山の主みたいだ、この大猪は」
 与兵は言いながら、尚も右手で猪を、脚から胴、頭へと撫でながら、見入っていたが
突然大声をあげた。
「オォ! 此の傷跡!」猪の肩の毛を両手で掻き分けた。
 半助が、続いて、庄松が、その手許を覗き込んだ。
 庄松の眼が鋭く動いた。いきなり二人を押し退けて、その傷口の毛を丁寧に掻き分け
て調べていたが、直ぐに猪の左耳に手を移すと、静かに立ち上がって、八丈山の峰遥か
な空に視線を向けた。
「あの猪だ・・・」呟くように庄松は言った。
「うん。俺もそう見た。間違いねえ、肩の傷、左耳の傷跡」与兵は力を込めて言った。
そして思い起す眼差しをして、静に続けた。
「・・・虎蔵さを牙に掛けた、あの猪だ」
 クロとブチは慌ただしく動き回っている、気が立っているのだ。クロが草叢に覆われ
た岩に駆け登り、八丈山の峰に向かって吠えている。岩上で吠え続けるクロを見守り半
助は呟くように言った。
「やはり・・・、クロの奴、この猪を追い詰める頃からいやに殺気立つた。クロにとっ
ても親の敵」

 それは一昨年前の秋のことであった。木枯らしが吹きさらして、今にも雪になりそう
な、そんな日であった。
 半助けが、猪狩りの手解きを虎蔵から受け始めて間もなかった。
 その日は、庄松は与兵に付いて、クロとクロの母犬タケルを連れて勢子にまわつて、
一頭の大猪を南沢へ追い込んだ。よし、これでもう仕留めたも同然と、鳴子を叩く手に
力が入った。この沢が開ける草原には、狙われたら最後、逃れられない、虎蔵の鋭い槍
先が待ち構えている。猪は倒木を乗り越え、薮を突き破って突進する、クロとタケルは
猪の両側後方に間を取って着け、激しく吠えたてる。遂に南沢から草原へ、猛り狂って
躍り出た。草叢を突進し、芒の株を突き破り、虎蔵が潜む位置に向かって突っ走る。虎
蔵が立ち上がって姿を見せた位置が悪かった。虎蔵ほどの猟師が、解らない。猪は虎蔵
に気付いて、足踏みした、その時、タケルが猪の鼻先へ飛び出た。すかさず牙が振られ
た、タケルは腹を裂かれ、絶唱して地面に叩きつけられた。あまりにも無残な姿に虎蔵
が動揺した、その隙を突かれた。猪は猛然と、虎蔵に襲いかかった。虎蔵の手許が狂っ
た、槍は猪の左耳を裂いて地面に突き刺さった。虎蔵は猪の振った牙に横腹を引き裂か
れてのけぞると、草叢に倒れた。猪は、向きを一転し、虎蔵に牙を重ねて振り、踏み付
け、八丈山へ走り去った。後には、血が飛び散り、草も地面も、容赦なく虎蔵とタケル
の血をすすった。
 その時、半助は虎蔵から猪狩りの教えを受けながら傍に控えていたが、なす術もなく
おののいていた。
 その時、庄松は猪に向かって走り、追いすがり、腰の山刀を抜いて投げ付けた。山刀
は猪の肩に突き刺さったものの猪は山中へ消えた。

 虎蔵の死後、猪狩りの槍を握れるのは与兵一人になった、その与兵も寄る年波に、追
い出した猪を仕留めそこなうこと、度々であった。虎蔵が娘婿に、後継ぎにと、仕込み
始めた半助は、目の前で猪の牙に横腹を裂かれて倒された、無惨な虎蔵の姿に、槍が握
れなくなってしまった。
 庄松は違った。あの時投げた山刀が、狙った猪の位置に当たりながら、軽傷で逃げら
れた。何故だ、山刀に力を込めて投げたが、手応えは、余りにも軽かった。あのとき槍
を持ってたとして、握り替えて咄嗟の瞬間に、猪に追いすがり投げられただろうか、槍
は長すぎる。それに猟師の体、力に応じて重さも決める。槍は重い方が重傷を負わせら
れる。
 庄松は、何時か俺があの猪を仕留めてやると、その時、心に決めた。虎蔵の仇だから
ではない。庄松が仇を取る筋はなく、仇討ちなら半助けの仕事であった。
 虎蔵が後継ぎに半助を選んだ、その時に庄松の村で生きる「おじろく」としての運命
が決まった。分家の許されない村の掟は、長男以外は入り婿の口が無ければ、妻を娶れ
ずに「おじろく」と呼ばれて、家長の命で家の仕事に励んでは、僅かばかりの衣食を与
えられて苦汁を嘗める暮らしをしていた。虎蔵には倅がなく、娘のお夏に婿を取らねば
ならなかった。婿入りの式を挙げる前に虎蔵は亡くなったが、猪狩りの跡目に、半助を
選び、御方様に申し出たとき、それは決まったも同然であった。被官仲間で他に婿の口
はなかった。そして半助が選ばれた裏に、虎蔵の娘お夏の意向が深く係わっていた、武
骨で気のきかぬ庄松と、気がきいて調子よい面も備えた半助の二人は、対照で、お夏の
気持ちが強く半助の方に引かれていたのだ。
 庄松は、その時から暇さえあれば、猪狩りについて、あれこれ考えをめぐらせていた
或る日。山で薪取りに、木を伐り倒し、斧を使っていてその手の感触から、斧投げに気
付いた。その日から庄松は、暇さえあれば一人山に入り、三、四間離れた立ち木に向か
い、斧を投げ続けた。そして走りながら投げた。
 斧投げを始めて半年が経過する頃に、庄松の投げる斧は、狙った木の狙った場所へ、
刃が、ぐさり、と食込むまでになって、投げる手応えで、狙った獲物を仕留める自信が
持てる、そんな気がしはじめたところへ、与兵が再三、追い出した猪を仕留め損ねたこ
ともあって、「庄松、お前は体が大きく腕ぷしも強いし、度胸もある、それに駈けるの
も早い、お前が槍を握れ、俺は、半助けと勢子に回る。歳には勝てん」と、与兵が言い
だした。
 その時、半助は、黙っていた。庄松も、其の場では返事をしなかった。
 与兵は、庄松一人を誘い出して、重ねて口説いた。
「虎蔵さの跡目は、お前と思っていたのに、いくら娘可愛さといっても、半助を選ぶな
んて、虎蔵さも気が弱くなっていた、それがいけなかった、基はそこ、迷いがあったん
だ、な、その迷いがあんな命を落とすしくじりに成ったんだ」
 庄松は、与兵の口説く言葉などに余り耳を傾けていなかった、腹は決まっていたから
である。あの猪は俺が仕留める。それだけで、他には何もなかった。お夏は好い女だ、
だから後を追い回しもした、今でも好い女だと思っている。しかし虎蔵が跡目に半助を
選んだとき、総ては終わった。その時庄松は、誓つた。見ていろ、俺は、何時か自分の
力で村一番の猟師になってみせると。それが、「おじろく」として村で生きなければな
らない、男の意地で在つた。
 庄松が与兵に代わり、槍に替えて斧を握って猪に向ったのは、つい半年前の去年の秋
であった。初めてのとき、追いだされた猪に向って走り出すと、庄松の迷いや雑念は一
瞬にして拭い去られて、猪の頭に集中した。しかし斧は狙いを付けた猪の首でなく、背
に突き刺さった。斧が深く背骨まで食込んだために猪は倒れ、その見事さに、与兵も半
助も誉めそやしたが、庄松は苦い顔をしていた。以後庄松の投げる斧は猪の首根に深く
突き刺さるようになった。

 足許の枯草がさわいだ。風が出たのだ。西日は影を長く引き伸ばしていた。
 与兵が沈黙を破った。
「虎蔵さの仇討ちができた、これで虎蔵さも浮かばれる。さァ、この猪を担いで、御方
様に、お知らせに行こう。庄松、これはお前の手柄だ。虎蔵さの仇を討ったんだ」
 与兵が急き立てる、虎蔵の仇が討てた。庄松、お前の手柄だ、御方様へお知らせに、
と、その上気した、与兵に半助は、渋い視線を向けた。
 庄松は、目当ての猪を倒せた、それで満足感を覚えていた。
 半助の頭を、不安が過ぎっていた、槍を握って猪に向うことが出来ないのは、猪の恐
しさもあるがそれより、猪を仕留める自信が無い上に、仕留めそこなった時、それの方
が恐ろしかった、というのも虎蔵に選ばれ、婿入りが約束されているものの、御方様の
意によってはどうなるか、まだわからない。虎蔵から手解きも受けぬ庄松がまさか、斧
を握って猪に向うとは、予想外のことであった。其のうえ婿入りが済まぬうちに、庄松
が、虎蔵の仇の猪を仕留めるとは、このままでは、御方様が虎蔵の跡目は庄松と、声が
掛かれば・・・。相手のお夏の意向など問題でない、被官の身分とは、そう云うもので
あった。
 与兵は、重ねて急き立てた。
「さァ、急ごう、猪を担いで御館へ。おい、何をためらっているんだい」
 与兵は庄松を急き立てた。
「俺はいやだ、半助と行ってくれ」
 庄松は言い捨てて、二人に背を向けて、歩きだした。与兵は吐き出す様に、遠ざかる
庄松の後姿に向って言った。
「馬鹿たれが!ここで御方様に認めてもらえば、虎蔵さの跡目の、声が掛かるものを」
 言ってしまってから、与兵は、はっとして、傍らの半助に視線を向けた。半助は庄松
の後姿を悄然として見送ている。庄松が御方様の御声掛かりで、虎蔵の跡目になれば半
助が、「おじろく」として、村の半端者で終わらなければならない。若い二人の何れか
一人が、自分と同じ、村の半端者で老いなければならない、二人とも同じ狩り仲間で、
御方様に仕える身。耕地も少ない、この山深い谷奥の村、人が増えると食えなくなる、
村の掟で一軒前の株は増やせない、その家の総領に生まれた者が、家の株を継ぐ、平氏
の落人として、この山深い谷奥に隠れ住んだ先祖の意志と品位を守り受け継いで、此処
に住み着き、御方様の下で守り、子孫に手渡すのが何時か村の掟になっていた。

                            」」 つづく」」








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