AWC 遠く離れたフォグソス (第1稿)


        
#2336/5495 長編
★タイトル (MMM     )  93/ 8/28   5:57  (197)
                    遠く離れたフォグソス (第1稿)
★内容

           ※フォグソス(Phogsos)とは霧のような映像…遠い過去を匂
             わせている。



 赤いぐみの実がぽつんとアパートの部屋から隣りの家に僕が以前からそう思ってい
た木がいつの間にか赤いまるで僕の孤独のような赤い小さな実を実らせていた。人を
避ける大きな自閉症児のような僕を慰めてくれるように。
 孤独にうちひしがれて夕方小鳥の囀りを聞きながら何気なく窓の外を眺めていると
ぽつんと赤い実が美しくまるで6年前の高総体の出来事のようにできていた。ああ、
あのときもこんな赤い瞳の少女が孤独に打ち震えていた僕に近づいてきたのだった。
 あのとき僕が目を覚ましたようにもの憂くバスケットの試合を眺めていたとき、赤
いぐみの実のような目をした少女が――その大きい大きい美しい瞳が――最初は横顔
でぐみの実がたった一個、そして僕が無情にも彼女を無視しつづけると今度はまっす
ぐに二つの赤いぐみの実の目で僕を見つめ始めた。
 ――あれから6年。もしもあの子が僕の傍に寄り添ってその美しいぐみの実みたい
な瞳で僕を見つめてくれていたなら輝いていたはずの6年だった。


『長大にして。九大に行かれたら寂しいわ。』
『うん、九大はいちかばちかというふうほど危ないからそうしよう。それに君がいる
。君を置いて遠く離れた大学へは行けない。そんなこと僕にはできない。』
 それに僕はこの一年、とても明るく幸せな毎日を送った。もし君と出会ってなかっ
たなら僕の心のなかはずっと蒸し風呂のようにたぎり続けていていちかばちかという
ほど危ない九大医を受けていた可能性が高い。しかし君と出会ってからのこの一年間
の楽しい明るい日々は僕の暗い少年時代への怒りをほんのりと忘れさせてくれた。僕
はもう怒りに打ち震えないようになった。
 小学校時代蓄膿症でものすごく苦しんだこと。中二の頃からのノドの病気。それに
吃りや言語障害など。僕の心の中は怒りで燃え盛っていた。恨みと怒りで僕は発狂し
そうなほどだった。そしてそのために僕は懸命になって勉強していた。
 しかし君の美しさと明るさ、そしてこの抱いている暖かさ。僕は九医なんて受けな
い。君と毎日会えるように長医にする。
 僕はもはやノドの病気などへの恨みつらみが、やはりまだそれ故に辛いこと苦しい
ことがたくさんあるけれど、君の笑顔によってかなり薄れてしまった。でも立派な耳
鼻科の医者になって僕が経験したような苦しみをほかの人には味あわせたくないし、
また僕が経験したように苦しんでいる人たちを救ってあげるのだ、という情熱は今も
変わらない。かつてはその情熱は怒りと恨みに満ちていた。しかし今こうやって君を
抱いていると僕の今までの病気ゆえに苦しんできた年月が懐かしい思い出のようなも
のに思われてしまうのはなぜだろう。そして今その情熱は美しい使命感に変わってい
る。
 ----僕は彼女の体を服の上から抱いていた。僕たちはすでにAはしたがもちろんC
はしていない。僕は高校三年生で彼女は高校一年生だ。少なくとも僕が大学に入るま
ではしないつもりだった。いや、彼女が高校を卒業するまでしないかもしれない。
 夏、一緒に海に行ったときに見た彼女の肢体の肉感は、僕の暗い過去の記憶を忘れ
させてくれるのにじゅうぶんであった。僕はその肢体を、しようと思えば自由にでき
るのであった。でも僕たちは親同士も認めた公認のカップルであった。それに二人と
も高校生である。押さえきれないような欲望が彼女と会っていて湧いてくるのだが僕
はそれを必死に押さえていた。押さえきれなくて抱きついたことも何度かあった。で
もそれも彼女の体をしっかり抱いてそっと口づけをするだけであった。



 僕はそんな夢想に浸っていた。でもハッと気がつくとここは高総体のバスケットの
行われている松山の国際体育館の中だった。誰一人知ってる者のない観客席の中に僕
は一人黙然と座っていた。僕の周りはすべて高校生で溢れかえっていた。そして僕の
席は思い出の西側7-21だった。たぶんこの席だった。もしかしたら一段上の8-2
1だったかもしれない。
 さっきここに来たとき座席が朽ち果てかけている公園の長椅子のように見えた。す
るとこの前から僕を悩ませつづけていたアスファルトの道に落ちていた蓑虫をそのま
まにして歩いていったこと。それが思い返されてきた。
 雨あがりの歩道にシトシトと濡れてわずかの木の枝とともに横たわっていた可愛い
蓑虫。木の枝の小さな皮を集めて必死に編み込んだこげ茶色の袋の中に存在している
小さな可愛い蓑虫。僕はそれへの思いが断ち切れないでいた。それが後に来る人によ
って踏まれまっ黒い液体を吐き出して死んでいく光景。それが気になりながらも心あ
せる僕は見捨てて通りすぎたのだった。あれは2、3日前のことだった。その罪悪感
がなぜか僕の心の中に今もまた蘇ってきて僕を悩ませるのだった。
 この木製の長椅子が心に懸かっていたそのことを思い出させたのであった。この観
客席が木製の長椅子だったなんて。僕はてっきりプラスチック製の一人一人別になっ
た椅子だとばかり思っていた。


 僕は体育館の中に遂に悲しい化粧をして佇む6年前の彼女を見い出すことはできず
、僕は哀しく体育館から出て行き始めた。午後からは僕の嫌いな解剖実習があるのだ
った。留年した僕には辛い二度目の解剖実習だった。
 僕は哀しく体育館を出ていきかけていた。6年ぶりに来た国際体育館はちっぽけで
、僕の記憶の中で形成されていたちょっぴり偶像化されかけた体育館と違っていた。
美しく彩られた過去の記憶が少し崩れかけていた。

 僕は一人寂しく薄暗い体育館の入り口から出た。そして僕はとぼとぼと松山の電停
の方に歩いていってると松山の電停の長崎方面行きの方に6年前のあのコにそっくり
の女性がいるのを発見した。朱色の鮮やかなドレスは白い縁がしてあり、その白い縁
は赤いデメキンのヒレの白い縁のようだった。


 今朝起こされたとき僕は全身が陽の光に包まれているのを感じた。眩しい朝日が…
たしか高校三年のときあのコと会った日の朝も僕は自分が朝起きたとき不思議な眩し
い白
い朝日に包まれていたことを思い出す。そしてたしか大学一年の頃、その当時今と同
じようにちょっと下宿していて、僕はその日(高総体の第一日目にちょうど)僕は朝
とても眩しい光に幻惑されて朝起きるとすぐに下宿を出て松山の国際体育館へと電車
通りを歩いてゆきながらも、僕はその電車通りのクルマの音なんかの喧しさに二年前
の高校三年生の頃の国際体育館の喧噪を思い出して僕は堪えきれなくなって今度は静
かな川縁の道を通って下宿へ引き返し始めたことを思い出していた。あれから何年に
なるだろう。あれから4年経つのだった。僕はあれから2年しか進級していないけれ
ども2年留年しているのだった。

 その今朝の目覚めの名残りだったのかもしれない。僕が今こうやって実習を放っぽ
りだして彼女のあとをつけているのは…
 留年が決まったときから僕はこの日が来るのを指折り数えて待っていたような気が
する。僕は留年して再びしている解剖実習が厭でたまらなかった。僕は今日何のため
にこの国際体育館へやって来たのだろう。僕は死に場所を求めていたのかもしれない
。将来への漠然とした不安と自分という存在の無価値観が僕を重く包み込んでいた。
 僕は彼女を目当てに実習を放棄してこの電停で電車を待っているのだが僕はやはり
破れかぶれで死を決意しているようだった。やはり死のうと思っているようだった。
たぶん今日の夕方、浜屋の屋上から飛び降りるような気がしていた。
 何もかもが見納めのようだった。電停から見える景色の何もかもが。この懐かしい
景色の何もかもが。そして僕はとても悲しかった。
 見渡せば僕が大学に入ったときから見慣れてきた景色が哀しげに揺れていた。まる
で僕に手を振っているかのようだった。

 やがて電車がごとごとと揺られて来た。それは僕と彼女を幸福の白い城へと運ぶ緑
色の路面電車のようにも僕には思えた。
 やがて電車が着いた。レールのきしむ音が僕と彼女を幸せな白い宮殿へ運んでゆく
ようにも思えた。彼女は朱色のドレスをデメキンのヒレのようになびかせて電車に乗
った。僕もあとに続いて乗った。
 なんだか6年前もこういうことがあったような気がしていた。彼女は僕と電車に乗
り合わせていて(僕は気が付かなかったけど…)電車の中から僕に好意を寄せていた
のではなかったんだろうか、と思った。

 彼女はどこへ向かっているのだろう。もう20歳ぐらいなのにスヌーピーのバック
ともう一つ革の上等なバックを提げていた。午後一時なのに車内は夕暮れのような感
じがしていた。高校三年のときもちょうどこの時刻に僕は河野と別れてさんかくとい
う別の友人と慶鳳高校にボクシングの試合を見に行こうと電車に乗ったのだった。そ
して僕は6年後の今日、大事な実習をさぼって彼女のあとをつけているのはなんだか
もう自分は死を決意していて今から浜の町へ死にに行っているような予感がして僕は
とても不安になっていた。
 僕のななめ前に腰かけている彼女は僕を気にしているようだった。でも僕は知らな
いふりをし続けていた。僕は外を揺れ動く見慣れた町並みをこれが見納めだというふ
うに見つめていた。
 涙が自然と流れてきそうにも思えて僕は彼女の方を見ようとしていなかった。最後
の景色を…僕が青春時代を燃焼させた最後の景色を…僕は哀しげに見つめているだけ
だった。
 僕の哀しみの思いが彼女に伝わっているのだろうか。彼女はじっとその大きな目で
僕を見つめていた。

 彼女は思案橋で降りた。僕も気づかれないように一番最後にそっと降りた。電停に
立つとさっきまでの不安感が急に消えたような気がした。
 僕は彼女に続いて何気ないふりをして思案橋の電停に降りた。そして信号が青にな
ると僕は彼女のうしろから歩き始めた。
 僕はのこのこと彼女のあとをつけ始めていた。いつか僕の心は明るく爽やかになり
電車の中での不安が嘘のように消えていた。
 何故か幸せな気持ちになっていた。彼女の歩くうしろ姿は美しかった。朱色のドレ
スが赤いデメキンのヒレのように揺れていた。
 僕は彼女の後ろ姿を見ているとなんだか今の泥沼のような生活から抜け出せるよう
な気がしていた。呪われたような毎日にこのへんで僕は終止符を打ちたいな、打てる
んだなと思ってきていた。
 時計を見るともう一時十五分だった。もう完全に解剖の実習は始まっていた。僕は
そっと浜屋の屋上を仰ぎ見た。そしてすぐにまた縁が白い朱色のドレスを揺らめかせ
ながら足早に歩いてゆく彼女を見た。
 どっちなんだろうなあ、と思った。でもたぶん浜屋の屋上になるような気がして悲
しかった。

 彼女はそれからピアノ教室の中へ入っていった。でもすぐに出てきた。今度は小さ
なバックしか持ってなかった。彼女は以前と同じように足早に歩いていた。
 彼女をつける僕はぼんやりと空を見上げたり美しい彼女の後ろ姿を見つめたりして
いた。空は変わってないようだった。僕の高校三年のときの空とちっとも変わってな
いようだった。そして空は僕にこう語りかけているようだった。目の前の朱色のドレ
スを着た女性が5年前のあのときの女性だったっていうことを。
 だから僕はますます得意になって彼女のあとをつけていた。やっと僕が救われる時
が来たような…長い暗かった大学生活もこれから明るくなるような気がしていた。
 彼女は十八銀行の思案橋支店の中へ入っていった。ちょうどそのとき横断歩道の信
号が青になって僕はある音楽と一緒にその横断歩道を渡り始めた。そうして電車敷を
渡ってしまった。電車敷の向こう側から彼女を追っていこうと僕は思っていた。

 彼女を見失った僕は途方に暮れておろおろとアーケードの中で立ちつくしていた。

 浜屋の屋上で僕は椅子に腰かけてため息をついていた。もう遠く過ぎ去ってしまっ
た過去のことかもしれない。でも僕の少年期に僕の前に現れた最高の美少女の姿は今
も僕の瞼にまるで幻のように今も焼きついている。きっともう20歳になったとても
美しいお嬢さんになっているだろう。きっとこの長崎の空の下にまだ住んでいるのか
な、それとももう何処かに引っ越してしまっているのか、東京の大学へ行っているの
か。
 でもきっとこの長崎でないにしてもこの大きな空の下の何処かに居る。僕のこと憶
えてくれてるだろうか。あの冷たい仕打ちをした僕のことを。
 遠い喪われた僕の過去のことはこの空の白い雲のようにはかなく風にたなびいてゆ
くのだろう。もう戻って来ない僕の少年時代の日々は。

 きっと楽しかっただろう。もしあのコと一緒に過ごしていたならば。高校三年の6
月から。もう何年経つだろう。もう6年も前のことになる。もしあのときあの観客席
であのコと友達になっていたら僕のこの6年間はきっと楽しいものになっていただろ
う、輝く青春期となっていたに違いない。
 僕の喪われた青春は全て僕のこのノドの病気のためなんだ。中二の頃、創価学会の
信心を一生懸命していて、そのときに発声するときに声帯に過剰な力を入れるように
習慣づけたためなんだ。そしてそれから僕の毎日は暗いものになった。宗教的陶酔に
酔いしれて幸せなときもあった。でも僕の性格は暗く陰湿なものとなっていった。中
二の頃、ノドの病気になってから。
 中三の頃のあのコのことだって。そして僕は寂しい高校生活を送った。少しも恋が
花開くことはなかった。僕は喋れず女のコを避けてばかりいた。
 そして高校を卒業してからも僕は一人ぼっちだった。今のように僕はいつも一人ぼ
っちで高校を卒業してからの5年余りを送ってきた。

 僕は浜屋の屋上から金網ごしに通りすぎるクルマの列や町並みなどを眺めていた。
なぜか自分が首を括る幻想ばかりが浮かんでいた。金網をよじ登っている隙に誰かか
ら止められるのが目に見えていたから。
 どこか浜屋の立ち入り禁止の暗い階段に首を括るのにいい場所があったはずだと思
っていた。




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