#2275/5495 長編
★タイトル (RJM ) 93/ 8/13 0:40 (172)
『ハード・ウェア』(3) スティール
★内容
叔父の格好の派手さに、私は、思わず、顔を背けてしまったけれど、叔父は、叔
母の前では、決してみせない顔を、その女の前でしていた。
いまも、叔父はそのときと同じような顔をしていた。『叔父様もいい気なものだ
わ、どうして、こんな女の人に弱いのかしら』と思いつつも、私は、さりげなく、
両方の顔を交互に見比べてみた。高慢な女の方は、ますます、声を鼻にかけた甘え
たような口調になっていた。もしかしたら、叔父のような男性に気に入られる術と
いうものを知っているのかもしれなかった。不快な気分だった。以後、この夫人を
できうる限り無視したいものだと、私は思った。会場は、華やかに着飾った人たち
で、かなり賑わってきていた。静かに流れているクラシックのBGMが、会場のム
ードを優しいものに、和らげていた。
「おやおや、とてもお美しいご姉妹がいらっしゃる。どちらのご姉妹でいらっしゃ
いましたかな」
と、このクラブの、代表的な年配の紳士が近づいてきて、私に声をかけた。
このクラブでは、叔父夫婦は若いほうだった。この年配の夫妻と、叔父夫婦とは、
とても長い付き合いだった。この夫妻の夫のほうは、小太りで頭が禿げあげってい
た。彼は、その禿げ上がった額の下に、メガネをかけていて、そして、メガネの奥
には、いかにも好色そうな目があった。女垂らしで有名だったが、しかし、彼には、
どこか憎めないところがあった。私は、彼の声を聞いて、不快な気分が、いくらか、
和らいだような気がした。
「ご無沙汰致しておりました。相変わらず、お忙しく、ご活躍なさっておいでのよ
うで、お噂は、いつも主人から伺っております」
このメガネの男は、叔母の言葉に満足したように、美しい叔母の着物姿に、眩し
いものでも見るような視線を向けた。彼は、叔母にたいそう気があるらしかったけ
れど、叔母以外の女性を口説くようなわけにはいかないらしく、叔母の前では、い
つもは紳士だった。
「今日は、あなたに、お目にかかれて、とても、ラッキーですな。あなた、めった
にパーティーには、お出でにならないから」
「あい、すみません。こういうことは、主人のほうが得意なものですから、つい、
任せてしまいまして」
叔母は、日頃のご無沙汰の言い訳をいろいろしていた。そのメガネの男は、今日は、
なおもしつこく、叔母に詰め寄っていた。
「あら、伯父様、私もおりましてよ。私とお会いできたことも、ラッキーではあり
ませんの」と、叔母の困っている様子を見かねて、私は言った。
「いやいや、聡美ちゃん、ラッキーに決まっているじゃないか。僕は、もうお二人
のナイト役をお引き受けしたくて、うずうずしているのだから」
「ほんとかしら、その目は、そうは言っておりませんわよ。どなたか、お一人だけ
と言っておりますわ」
「やれやれ、聡美ちゃんには、かなわないなあ。まったく」
私たち三人は、楽しそうに笑った。私は、こんなとりとめのない会話が、とても好
きだった。また、この人は、会話がとても上手だった。付き合いも長いせいか、叔
母も、この人の前では、かなりくつろげる様子だった。叔父様もせめて、この方く
らい、叔母様との会話を楽しめたらいいのにと、叔母の屈託のない様子を見ながら、
私は、そう思った。
「いつも、お仲がおよろしくていらっしゃって、お羨ましいですわ」
いつの間にか、栄養過多の婦人の方が、私のそばに来ていた。流暢に頭の天辺か
ら声を出して、精一杯の笑みと嘲りを吐き出す口を開いていた。
「とても、叔母と姪とは思えませんわね。相変わらず、お二人とも、お奇麗でいらっ
しゃって」
こちらの妻のほうは、これもまた、栄養過多が、派手なドレスを身にまとってい
るような感じだった。この夫人は、かつらを好んでいたようだった。好んだという
よりも、好まざるを得なかったのかもしれない。なにせ、毛の薄いことが、彼女の
悩みの種だったのだから。今夜も、彼女の頭の上には、赤毛の、ショートのかつら
が、誇らしげにのっていた。夫人は、彼女の夫が叔母に好意的であるのがいつも気
に入らなかった。そして、彼女は叔母の美しさに引かれていながら、そして、その
美とよく行動を共にしたがるくせに、叔母の美しさを憎んでいた。
ある有名な哲学者が、「美しい人は孤独である」と、言っていたと記憶している
が、叔母こそは、まさしく、そのとおりだと、私は思った。
叔母は、美しいがために、いつも孤独だった。多分、美しさの基準なんて、そん
なものは有るはずがないと、私は思う。しかし、人は、本能的に、美しいものには、
敏感なような気がする。その人たちは、美しいものを欲していながら、本当の美し
いものに出会ったときには、いつも嫉妬してしまうのだ。
パーティーは、パントマイムのオープニングで始まった。二人のピエロが風船に
乗って大空を旅するといったストーリーのものだった。夢のあるメロディにのって、
大いに笑える内容だった。
ノッポのピエロとチビのピエロが、体を、ゼンマイじかけの人形のように、器用
に動かし、泣いているのとも、笑っているのとも、しれない顔をして、見る者の笑
いを誘った。そんなあいまいな、泣いたようなピエロの顔を見ながら、ふと、私は、
子供のころ、サーカスで見たピエロのことを思い出していた。
何かのショーをしていて、子供の私は、その前の席に座っていた。その私のそば
に、なんの前触れもなく、突然、ピエロが寄って来て、私に、何かを話しかけたの
だった。普通の子供は、たいてい、そんなときは喜ぶのだろうが、私は、隣の父に
しがみついた。そのとき、まだ子供だった私は、自分の心に痛みを感じた。私が見
たピエロは、どれも、いつも苦痛で、顔の表情が歪んでいた。その眉ねに、苦痛の
皺が一杯詰まっていたように、子供の頃の私の目には映った。私にとってのピエロ
は、余りに物悲しすぎた。人生の悲哀を余りに多く知りすぎているような気がした
のだ。そんなピエロに、私は、とても腹が立った。幼いころから、ピエロが嫌いだっ
た私は、一瞬、背筋に不快感が走った。
私は、視線をそらした。私の斜め前のテーブルに金髪の白人男性が座っていた。
その金髪の男性は、その長身を揺すって、満足げに大口を開けて笑っていた。彼の
目は、日本人の好きなプルシアン・ブルーだった。
彼が、このクラブで行っている、慈善事業の発足人なのだそうだ。この夜のパー
ティーで、唯一の外国人というせいなのか、彼は、やけにステージに引っ張り出さ
れていたようだ。華かなスポットライトが、彼を中心に回っているようだった。コ
メディアンは、欧米人が、ことのほか、好きなようだ。しかし、引っ張り出される
ことに、プルシアン・ブルーの彼のほうも、まんざらではないように、私には見え
た。
TVで見たことのあったような、ないような漫才師二人が今夜の司会者のようだっ
た。
『こういう高級クラブの会のパーティーに、ご出席の皆さんは、一般のパーティー
に出席している人達とは違って、ガツガツしていらっしゃらないから、テーブルの
上の料理が、ちっとも減りませんねえ』などと、意味不明の事を、彼らはしゃべっ
ていた。
叔母は、招待客に、いちいち笑顔で、相槌をうっていた。高慢な夫人は、自分の
自慢話ばかりしていた。自分が、いかに高級志向であるかというようなことを、言っ
ているようだ。『叔母様も、お気の毒、あんな人の退屈なお話しの相手なんて』と、
私は、そう思った。
私は、第一印象から、彼女に不快な思いをしているので、ショーの方ばかりに、
気を取られている振りをしていた。自分が叔母に呼ばれた理由を、私は忘れていた。
私にも、どこか、大人気ないところがあって、それは自分でも、承知していた。承
知はしていても、自分でもどうにもならなかった。私は、なぜか、横柄なものや、
意地悪なことに出会うと、俄然闘志が湧いてしまうのだ。サラリとうけ流す事がで
きないのだ。それは、また、私の欠点でもあった。
父は、よく私に『馬耳東風、馬耳東風』と、言った。いつも、飄々と生きている
父にとって、それは、簡単なことだったろう。
しかし、私にとって、それは、『私に煮え湯を飲め』と、言っているようなもの
だった。私は、そのことに、いつも反抗した。私と父は、そのことで、いつも、気
まずい思いをしていた。
叔父が、そばにやって来た。そして、叔母に向かって、大きな声ではないが、し
かし、それと分かる声で、何かを叱責していた。そのせいで、叔母は、急に暗い顔
になった。
いつも、やることなのだが、叔父は、パーティーの席上で、叔母に、よく恥をか
かせた。私には、良く分からないのだが、どうも、叔父には、男はそういうことを
しても良いものなのだと、思っているようなところがあった。叱る内容は、いつも、
つまらないことばかりだった。しかし、今度のは、いつものことでも、私は、とて
も腹が立った。招待客から、慈善事業の寄付を受け取ったのが、まずいというもの
だった。私も、つい、うっかりしていた。しかし、そんなことは、テーブル上では
なくとも、後で叱ってもいいことだった。
叔父は、完全に、あの高慢な夫人を意識していると、私は思った。パーティーの
間中、叔父は、せかせかと落ち着かない視線を、その夫人に投げかけていた。夫人
は、夫人でそんな叔父の視線をしっかりと意識していた。しかし、彼女は、それに
は、気付かない振りをしていた。叔父の、その態度を、私は軽蔑した。と、同時に、
その夫人のことも、私は軽蔑した。
パーティーで、媚びを含んだ視線を交わされることはないわけではなかった。そ
れも一つのゲームだし、その場かぎりの一種卑猥で妖しい気持ちをもてあそぶのも、
スリルがあって、楽しいこともあった。しかし、最初の場面で、私は、あの夫人と
は、うまくいかなかった。だから、遊びでも、許せなかった。
パーティーが終わった後で、その日のクラブのメンバーの親しい仲間とで、場所
を変えて、飲み直すことになった。叔母は、そうとうに、疲れていたようだった。
できれば、このまま、家に帰りたいと、叔父に言っていたのだが、叔父は、みんな
の手前があるといって、それを許さなかった。また、栄養過多の夫妻の夫が、叔母
と、どうしても一緒でなければ、嫌だといって、酔いに任せて、執拗にからんでい
た。その夫人のほうも、冷たい笑みをもって、
「あら、奥様も、ご一緒でなければいけませんわ」と、言っていた。
この夫人は、かなり、寛容なものの考え方をする人らしかった。叔母も、これく
らい、器量が大きければいいと、私はいつも思っているのだけれど。噂によれば、
夫の浮気は奥様ご公認の事で、叔母には、『そんなことで一々、目くじらを立てた
りするものではありませんわ。とても、はしたないことよ』と、言っているそうな
のだ。確かに、こういう世界には、この手の夫人は多かった。夫に取っても自分に
取っても、それも一つの娯楽には、違いないのだから。しかし、叔母には、その理
屈は、多分通用はしていないだろうと、私は思った。叔母は、かなりな潔癖症らし
かったから。
叔母は、かなり因惑した表情を浮かべていた。けれど、今日の招待客も、一緒だ
ということで、叔母は、はっきりとは分からないが、仕方ないといった風に従うよ
うに、私には見えた。叔母は、その美しい顔に疲れた笑みを、無理に浮かべていた。
私には、叔母が気の毒に思えた。そうはいっても、私のほうも、しつこく誘われた。
私は、どうも、その日は、気分が乗らなかったので、この後、デートの約束がある
と言って、いちおうは、断った。だが、一人残念そうな顔をした男性がいた。まだ
独身らしい、どこかの病院の医者とか言っていた男だった。彼は、パーティー会場
でも、絶えず、私達のテーブルへ、視線を投げていた。年齢は、私と同い年くらい
に、私には見えた。彼は、見るからに好青年という感じのする人だった。
「一軒だけ、付き合いませんか」
と、彼が言った。
「ええ、でも」
「叔母様も、そのほうが助かると、思いますよ」
私は、ためらっていたのだが、彼の言葉に従うことにした。私は、彼の優しい言葉
に好ましいものを抱いたのだ。それに、叔母のことも、少し心配だったこともあっ
て、とにかく付き合うことにした。