#2273/5495 長編
★タイトル (RJM ) 93/ 8/13 0:32 (118)
『ハード・ウェア』(1) スティール
★内容
電話口の彼に、気づかれぬように、私は大きく息を吸い込んだ。彼にも、私が見
ている窓の外に拡がる、札幌の街の光景を見せてあげたいと思った。
「いったい何を言っているのよ、あなたは!」
私は、怒っていた。
「あなた、あたしに、世間体を気にしろと言うの?」
私の問いに、電話口の彼は答えた。
「世間体を気にしろと、言ったんじゃない。そういうのは、僕も嫌いだ。『自分の
していることを自覚したほうがいいんじゃないのか』と言ったんだ。世間の目を気
にする必要はない。全くない。ただ、あなたに、自分自身のしていることを、冷静
な目でみつめてほしいと言っただけだ」
「自分の目!ふざけたこと、言わないでよ」
私は、かなり乱暴に、電話を切った。彼の言っていることのほうが、筋が通って
いて、おそらく正しいだろうということは、わかっていた。でも、いま、私はなん
となく不快な気分だった。いまは、ほんの少しだけ、彼の存在が鬱陶しかった。身
勝手な我が儘を言って、彼に甘えてみたかった。ただ、それだけだった。
人の心に、寂しさは尽きない。私は、いつも、ほんの少しだけ、寂しかった。
人に比べて、幸せだと、私は思われているようだ。私は自分でも実際、そうだと
思う。私は決して、平凡な、つまらない女ではなく、また、個性のない人間でもな
かった。ただ、なんとなく、寂しい想いになることがあった。それだけが、私の満
ち足りない何かなのかもしれない。寂しい想い、そして、空虚な何か。私にとって、
物足りないもの、私に欠けているものがあるのだろうか。あるとすれば、それは、
いったい、何なのだろうか?
それ以上考えると彼に電話をしたくなりそうなので、くだらないことを思案する
のは、やめた。
私は、部屋を出た。気晴らしに、ウインドー・ショッピングに出ようと思った。
私は、マンションのエレベーターに乗って、下に降りた。エレベーターの道路側の
面は、透明になっていて、外が透けて見えた。その透明な、強化ガラスか、アクリ
ルか何かの向こうには、下を走っている道路が見下ろせる。私は下を見た。路面電
車が、下の道路をゆっくりと走っていた。このほのぼのとした風景を、私は好んだ。
気に入って、好きになったからこそ、この場所、このマンションを選んで、移りす
んだのだ。
エレベーターが、一階に着いて、止まった。玄関のドアを開け、外に出た。街は、
秋が終わり、冬になろうとしていた。空気も、少しだけ、いや、かなり、透明な感
じがした。
それほど、待たされることもなく、路面電車は来た。冷たい透明な空気の中、強
くはない、弱いけれど、ほのぼのとした日差しに照らされて、路面電車は来た。
電車に乗って、席に着いた私は、少しの間、目を閉じて、考えた。路面電車の思
い出。最初に、私の頭に浮かんだのは、函館の路面電車。そして、弘前のちっちゃ
な私鉄。私の想いは、いまもそこに残っているのだろうか?
降り積もる雪の風景は、それほど嫌いではなかった。暖かい部屋で、窓から眺め
るのは、好きだった。冬でも、どこかに出掛けるのは、面倒という気分は不思議と
せず、いろいろな所に行った。でも、私は雪に降られるのは嫌いだった。
特に、雪溶けのころの、あのべタベタした感触が、とてもいやだった。それでも、
札幌の雪はまだいいほうかもしれない。私は弘前に四年暮らしていた事があるが、
むこうの雪は、傘を指さなくてはならなかった。それに比べてこちらの方は傘など
ささなくても平気だった。多分、これは北海道全体がそうなのだろうけれど。
北海道は真冬になると気温が氷点下を越え、それより遥かに低くなるため、雪そ
のものがサラサラした状態になっていて、頭や体にくっついても溶けずにある。そ
うして建物の中に入ったときはそれを振り払うだけでいいのだ。それで、特別体は
濡れてはしない。
しかし、それも、雪の降り初めや春先を除いてのことなのだけれど。特に春先の
雪には私は多いにてこずってしまう。雨なんだか雪なんだか分からないような、あ
のベタベタした感触に私は、やれやれと思う。
しかし今日はとても良い日。日射しが、こんなに優しい。こんな日を小春日和と
でも言うのかしら。
私は田舎を嫌っていた。田舎では暮らしたくないと思っていた。田舎は、私に何
も与えてくれない。田舎暮らしがいいと言う人がたまにいるが、私には、信じられ
ない。
いつの間にか、私は、とりとめのない考えに陥っていたらしい。
私は、電車をススキノで降りた。街は、雪が降り積もってはいないけれど、やは
りその色には違いなかった。私は、大通方向へ向かって歩いていた。
私が腕時計を見ると、時計の針は十二時をすでに過ぎていた。私はさっきから空
腹を感じていた。朝から彼と電話で口論していて朝食も取らずに出掛けて来たから
とりあえずどこかで昼食を取ろうと思った。
私は最近できたばかりのレストランに入った。『プチ・トマト』と看板のかかっ
た今風のイタリアンレストランだった。でもちょうど昼時のせいか、かなり混んで
いる。私はちょっと躊躇したけれど、お店の人がやって来てしまった。
「お一人様ですね、こちらへどうぞ」
と、案内してくれた。案内された席は通りに面していた。私は、メニューに目を通
すとさっそく『海の幸風スパゲッティー』と『コンビネーション・サラダ』を注文
した。ここの店のはオープンしたとき1度来たがボリュームがあってなかなかおい
しい。私の好物メニューだった。私はその前にアメリカンコーヒーを持ってくるよ
うに言うことも忘れなかった。
詩が好きな私は、詩人になりたかった。私にとっての詩は、趣味に近いものだっ
たけれど、気に入った作品をまとめて、数冊、実費で出版した。それを知り合いの
書店においてもらったりして、反応を確かめたりした。私の書く詩は、愛や恋と言っ
たものが少なく、花などの咲いた、枯れたといった、自然のものが多かった。
私の生まれた家は、まだ函館にあった。母が亡くなった後も、父が一人で住んで
いた。元高校の教師だった父は、まだ健康で、闊達な人だった。自分のことは、心
配しなくてもいいと、父は、いつも、電話口では言った。経済的にも、父は、幾つ
かの、家屋敷も持っていたので、健康なうちは、私の世話など、要らないはずだっ
た。
父は、私のように、うだうだと人生について考えるような人では無かった。いつ
も、前向きに生きていた。父に、後ろは無いように思われた。無口で、過去を振り
返らない人、そしていつも潔癖だった。尊敬に値する人であり、正しい人だった。
私にとっての父は、いつも風を切って生きている人のように思われた。しかし一方
では、煙たくもあった。私の父は、私に何の束縛も強いてはいなかった。が、しか
し、私は父に束縛されていた。私は、父とはまったく正反対なものの考え方をした。
そんな父と一緒に暮らしているのが窮屈で、私は札幌に出て来たのだ。
札幌には、函館よりは、自由があった。函館のように、陰湿な馴れ合いが無かっ
た。媚びた付き合いもなかった。他人の目を気にする必要がなかったからだ。私に
とって、札幌は都会だった。もちろん、東京も都会にはちがいなかった。けれど、
私にとってのあそこはただ疲れるだけだった。人々が、あまりにも軽すぎる。
私が欲しいものは、自由と温もりだった。どんなに田舎であっても、それがあれ
ば、私はそこに住めた。だが、今の私には、安住の地は、ここしかなかったのだ。
まったく、相反して要るもののようだが、札幌には、東京ではすでに忘れてしまっ
たものがまだある。東京は、生理的に、私の感覚に、馴染まなかった。東京は、春
先に降る、あの雪のようだが、札幌は、真冬に降る雪のような街だと私は思った。
要するに、今私に適合しているのは、札幌という街だった。とにかく、私は、父の
元を離れ、一人暮らしを始めた。