AWC まるまる(2)           クリスチーネ郷田


        
#2107/5495 長編
★タイトル (MEH     )  93/ 5/23   9:57  (187)
まるまる(2)           クリスチーネ郷田
★内容
今度は蒸気船に乗る予定になっている。

船名「シティ・オブ・アバディーン号」、その船でロンドンからスコットランドのアバ
ディーンに行き、その地でグラバー氏と会う事になっているのだ。三人はさっそく船に
乗り込む。甲板から外を眺めると、テムズ川に夕焼けが反射し、周囲が赤く染まってい
るのが見えた。人通りも減り始め、街灯に火が灯り始める。
「おてんとさまは何処に行ってもあるな。何処にでも昇り、そして沈む」
馬渡がつぶやく。
「うむ、お月さまもあるぜ。ほらあそこ」

石丸は、空に現れた月を指さして喜んでいる。野村文夫も、ぼんやりと空を眺めていた
。

その時、一人の船乗りが野村の肩を叩いて言った。
「君たちの事がここに出てるぜ。」
船乗りは英語でこう喋った。野村は突然肩を触られてドキリとしたが、なんとかその船
乗りの言葉を理解すると、船乗りの持っている新聞紙に目をやった。

「俺たちの、何が出てるんだ?」

文夫はその船乗りから新聞紙を受け取って、紙面を見つめた。出てる出てる、三人の日
本人ロンドン到着、の記事がこと細かに出ているではないか。

「こここ、こ、これは、お、俺たちのことだ!」
「そうだよ。それがどうかしたか」船乗りは不思議そうな顔をした。なぜそんなに驚く
のか、船乗りにはわからなかった。
「お、お、俺たちの事が、し、し、新聞に」
野村文夫は、ドキドキした。強烈な印象が全身をつらぬいて、失神しそうになった。

「し、新聞に、もう、もうこんな記事が!ヒエー、早いなあ!」
文明。これが文明だ。その日の事件がその日の夕刊に出る、これが文明と言うやつだ。
文夫は興奮して、そのおかげで夜は眠れなかった。

シティ・オブ・アバディーン号は、眠れない野村文夫を乗せてゆっくりとロンドンを出
港した。アバディーンには、それから3日後に到着した。そこにあるグラバー商会で、
野村は初めてグラバー氏と会う。(馬渡と石丸は以前会ったことがあるが、野村は初対
面。)屋敷に到着し、しばらくしてから、グラバー氏が姿を見せた。「ウェルカム!よ
くぞいらっしゃいました。事故がなくて本当に良かった。」

(この男が、グラバーか。確かに独得の雰囲気がそなわっている。こいつは大物だぞ…
…。)野村は、グラバーを見つめてそう思った。莫大な富を握っている男、グラバー。
外人ながらもあっぱれなやつだ。グラバー氏の後ろから、武田芳次郎と言う日本人がつ
かつかと歩いて来た。「よくいらっしゃいましたな。お疲れでしょう?さあ、腰掛けて
」
芳次郎は言った。

「ええ……。」

「私は武田芳次郎って者でしてな、随分長いことここで勉強してる。フレセル先生は私
の先生なんだけどね、厳しいけれどもいい人だから、面倒見てくれるとの事です。」

「ははあ、お世話になります」

武田芳次郎は、かの有名な勝海舟麟太郎の門人で、長州出身であった。

どことなくべらんめえ調なのは、麟太郎仕込みだろうか。随分話がはずんだ。政情不安
な日本がこれからどうなるのか、まったく見当もつかない。ひょっとしたら、英国や米
国といった文明世界に支配されてしまうかもしれない。なにしろ、力の差が圧倒的に違
う。この差を埋めるには、とりあえず学問しか方法は無い。全ての知識を、文明国から
盗まなくてはならない。

悲壮なまでの覚悟が彼らにはあった。明日からは学問に燃える日々を送る事になるだろ
う。もう、覚悟は出来ている。全てを頭にぶちこんで、我が国に持ち帰るのだ。覚悟は
出来ているぞ……。

「明日からしばらくは宿を探すこった。まだ不慣れだろうから、落ち着いたら本格的に
勉学に励んでおくれよ。」
「はい、わかりました。」

次の日の朝、一人の少年が突然この三人の元を訪ねてきた。

「こんちわあ。長旅お疲れさま!」
「あれ?君は日本人のようだなあ」

野村は、突然部屋に入ってきたこの少年を見て、驚いた。少年は日本人だった。「そう
、
日本人です。長沢日折と言う者です、ヨロシク」長沢日折、または長沢鼎、と言う変名
を使っているこの少年、本名を磯永彦輔と言う。

「こちらこそ。それはそうと、なんでこんな所に君みたいな日本人がいるのだ?武田さ
んといい君といい、日本人がいっぱいいるねえ」

「アハハ、そんなに沢山いるわけじゃありません。私もグラバー氏にお世話になってこ
こに来たのです。薩摩藩留学生の話は耳に入っていませんでしたか」

「ええっ?じゃあ、伊藤博文や五代君と一緒に来たんだね?五代君はこの地に来てるの
か、是非会いたい」

「いえ、アバディーンにいるのは私だけです。みんな今はロンドンにいます。」

「そうか……。残念。」

「私は英語の学習のために、アバディーンにやって来ました。いま、アバディーン・グ
ラマースクールに通っています。本来ならロンドン大学に行きたかったのですが、年齢
が若くてダメだったのですハイ」

「そうか、たった一人でここまで来たのか、君みたいな若い子が……」

凄い、と野村は思った。長沢君はまだ少年、ガキなのである。眼光が鋭く、ただ者では
ない印象を受けるが、それでもあどけない表情をたまにする。この若さで、もう英語が
ペラペラ話せる。それを知り、野村はさらに驚く。ただものではない。

「スゴイ、長沢君。もう英語が自由自在じゃないか!すごすぎるよ……。」
「イエ、野村さんもすぐに喋れるようになりますよ。なに、英語なんて、しょせんは馴
れですからね。そう臆する事もありません。」

「そういうものかな。」

ウウーム。野村はうなった。果して本当に英語を喋れるようになるのか?流れるように
、
こんな風に喋ることが出来るのか?それは、神のみぞ知る……。

その後の長沢少年について触れたい。長沢鼎、磯村彦輔はその後も日本に帰らず、カリ
フォルニアのサンタローザに渡った。その地で、仲間と一緒に(ハリス、新井常之進、
エドウィン・マクハム)、葡萄農園を開き、葡萄酒の醸造を開始。これが大当りして、
「サクセスワイン」と名付けられたワインは全世界に輸出される事になる。ハリスの死
後はその全遺産を相続し(ハリスは長沢の経営の腕に惚れ込んで全財産を譲ったのであ
ろう)ついに長沢は「葡萄王」と呼ばれ、莫大な富を築くに至った。

生涯独身を通し、昭和9年(1934)3月1日死去。83歳。


 長沢少年に出会ってから、野村文夫はかなりのショックを受けた。自分より年下の少
年が英語ペラペラなんだから、彼の自尊心も傷つけられたことだろう。自分でも才能が
あると思っているだけに、さらにそれより才能を持った人間を見ると、嫉妬してしまう
のだ。

「まいったなあ、あんなガキがペラペラなんだもんなあ。俺なんか一生懸命勉強しても
なかなか頭に入らないのに……。畜生。気合いいれて英語の勉強するぞおっ」

それからしばらくの間、文夫はアバディーンに在住して、必死に勉学にいそしむと言っ
た生活を送る。馬渡も石丸も同じく、必死で勉強をした。毎日毎日、勉学に明け暮れた
。
野村も学問が嫌いでは無かったので、どんどん頭に詰め込んだ。

野村は1年7カ月アバディーンに在住。

そして、慶応3年9月にはアバディーンを去って、ロンドンを経由してパリに渡り、万
国博覧会を見物する。この時の万博には幕府のほかに薩摩藩、長州藩が参加している。
野村も、そんなパリ万博に興味を持って駆けつけた。

「万国博覧会とは、面白いことを考えるものだ。そう思わないか?」
「うん、まったくだな。わくわくするよ」
「虎五郎、この万国博には、かのナポレオン3世も訪れるとのことだぜ」
「うん、開会式に駆けつけるって言う話だ。早いとこ行かないとな」
「なにしろ、伝説のナポレオン翁の子孫だって言うじゃねえか。どんな面しているかお
がまねえと気がすまねえよ」
「しかし、えらい混雑だなあ。これじゃ迷いそうだ。はぐれないようにしないとな。」
「そうだな、しかし、こうした晴れの席にはもうちっと日本人らしい格好をしてくれば
よかったな?ハハハ」

混雑の中、野村たちは遠くにナポレオン3世を見た。隣には皇妃ウージェニーの姿も見
える。二人は愛想良く笑って手をふっていた。このパリ万博はナポレオン3世の発案に
よるもので、フランスの勢力を世界に知らしめ、産業振興の起爆剤となる事を目的とし
て開かれた。そしてその目的は見事なまでに達成されたのであった。文夫もまた、そん
なナポレオン3世の策略にひっかかり、フランスに畏怖と恐怖の念を抱いた一人であっ
た。

第2帝政の主役、ナポレオン3世を見て、野村はこのニコヤカに笑っている男がフラン
スの最高権力者だというのを、奇妙な目で見た。実に凡庸な顔をしていて、特徴のつか
めない顔。妙に神経質そうなその挙動を見て、本当にあんな奴が?などと思ったのだ。

「あれがナポレオン3世か。」
「なるほど、策士面している。策略の点では長けた人間なのだろう。」
「だが、いやらしい人間のようだな。」
「そりゃそうだ、でなきゃ天下は取れぬ。上に立つ人間はそう言うふうに出来てるもん
だ。大権現サマだって、きっと悪人面していた事だろうよ」

虎五郎もそんな事を言いながら、どことなくいやなものを感じたていのだろう、険しい
表情をしていた。

パリ万博は素晴らしいものだった。近代産業の全てがここに詰まっていた。日本の出展
もあったので、そこに立ち寄って見たが、他の国の展示物に比べてみると貧弱なもので
あった。

「すごいものだな」

「もういいかげん驚きつかれた。いくら驚いてもきりが無いわい」
「まったく。どこまで俺たちを驚かせれば気が済むんだか。」
「次から次へと新しいものが目の前に現れるんだものな。まるで魔術を見ているようだ
」
「うむ、魔術だ。まったく、すごいものだな……。」
パリ万博を後にして、再び三人は英国にもどり、日本へ向かう船に乗った。

10月18日の事であった。
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