AWC まるまる(1)           クリスチーネ郷田


        
#2106/5495 長編
★タイトル (MEH     )  93/ 5/23   9:53  (182)
まるまる(1)           クリスチーネ郷田
★内容

 幕末。慶応元年(1865年)10月17日、日本をひっそりと脱走し西洋に向かっ
た男がいた。後に世の中を大いに面白くした「風雲児」、野村文夫氏である。天保7年
(1836年)4月5日生まれだから、この時29歳。芸州広島の生まれで、大阪で蘭
学を学んだ(緒方洪庵の適塾)。野村文夫はその後長崎で英学を学び、そこで海外への
夢を形成していったのだ。

そして、1865年の事だ。彼はイギリスに行く船に乗り、日本をあとにした。

文夫は、ゆっくりと明けていく朝日を浴びながら遠くを見た。

海の波がやけに青く感じられ、この海の向こうには英国があるんだなあ、と感慨にひた
る事しきりであった。野村と一緒に密航した肥前藩士、石丸虎五郎と馬渡八郎も、同様
にコバルトブルーの海を見つめて、なにやらもの思いにふけっている。

「ウヒャヒャヒャ。ついに密航してしまった。これからどうなっちまうのかなあ!」野
村、大いに笑った。

「笑い事じゃねえぞ、野村。俺たちこれからとんでもない所に行くのだぜ?おれは心配
で心配で…もう、どうしたらいいのだろう」

石丸虎五郎は不安げに言う。

「なにしろ英国だ、どんな化物がいるかわからんぞ。きっと我々を踏みつぶすほどの大
男だっているだろうし、手のひらに乗るほど小さい人間だっているかもしれん。誰がい
ないと断言出来ようか?」

「ハハハハ!そんな人間がいたら是非お目にかかりたいもんだよ」

そんな雑談をしていると、突然黙って今まで海を見ていた馬渡八郎が、青い海に向かっ
て嘔吐しはじめた。「ゲー、ゲロゲロゲロ…ううううう苦じいよお…うううううう…」

「お、おい大丈夫か?しっかりしろよ馬渡」

「ううう…もう駄目かも知れない、ふうふう、うううう」

三人の日本人を乗せた帆船「チアンテキリール号」は、その船体を大いに揺らす。もう
とっくに長崎の港は見えなくなっていて、青い海が広がるだけであった。あんまり船が
搖れるので、馬渡は船酔してしまったのだ。今までずっと我慢していたのだろうが、こ
れ以上は我慢出来ずに吐いてしまったのだろう。つんとしたすっぱいにおいが満ちあふ
れ、野村は急に気分が悪くなった。虎五郎も同様だ。とてもじゃないが我慢出来ず、二
人は甲板にしゃがみこんだ。

「お…おい、なんとかならんかあ、この搖れ」

「ウゲー、ウゲー…。気持ちわるう…」虎五郎も吐き始めた。

「うううう、たまらん…モウ駄目だ死ぬう…」

野村もついに勢いよく嘔吐物を放出した。吐いたはいいけれども、それでも気分は悪い
ままだった。船酔はいやなものだ。

「チアンテキリール号」船長の英国人ラウエル氏は、その様子を見て大笑いした。

「ハハハ、誰だって始めはそうなるよ。それで海に馴染むってえもんだ」

なんて事を英語で言っているんだが、気持ち悪いせいでそんな言葉は彼らの耳には入ら
なかった。船乗りたちはみな、ニヤニヤとこのあわれな三人を見つめていた。彼らは昔
の自分をそこに見たのであろう、妙に親切にしてくれた。

三人は船室に運ばれ、ベッドに横になった。ウンウンうなりながら、野村には日本での
出来事が思い出されるのだった。この「チアンテキリール号」に乗るまでに、さまざま
な出来事があった。思い出がいろいろと脳裏に浮かんでは消える。大きく搖れる船の上
で、野村くんはあれこれ悪夢みたいな夢をとりとめもなく見続けていた。

ううう……。グラバー氏にはお礼を言わないとなあ。まさかこんなに早く英国に行ける
なんて、思っても見なかった…。田鶴には悪い事をした。でも、恋愛結婚じゃないから
気にする必要はないか、無理やり結婚させられたんだものな。うう苦しい。許せよ田鶴
。
親戚もガタガタうるさい事言うだろうなあ。しかし、しかしだ、そんな事気にしてられ
っ
か、馬鹿。どうしても、何としてでも私は英国に行くのだ!!

時代は洋学の時代だ、私は洋学を学びたい!とにかくどんな手を使ってでも世界を見た
いのだ、世界を!

船長ラウエル氏はパイプをくゆらして、一人船長室でニヤついている。日本人の船酔が
妙に面白かったからだ。

「日本人。腰には物騒な物をぶらさげて変な髪型をしたおかしなやつらだが、中身はわ
しらと一緒だな。それにしてもあのサムライたちの情けない様子、愉快だったわい……
。
」

その後の「チアンテキリール号」の航海は順調であった。はじめのうちは船酔で散々な
目にあった三人も次第に船に馴れて来て、今では甲板を飛び回れるほどになった。長い
航海は彼らにとって、不安ながらも楽しい。いや、楽しいと言うより、ゾクゾクするよ
うな快感が彼らには感じられた。徳川幕府は長い間「鎖国」をしてきた。その間ずうっ
と、日本人では誰も海外に出た者なんていなかったわけだ。(もちろん例外はあるが。
)

そんな未知の空間に行く不安と期待のごった煮が彼らの気持ちの中でグツグツ煮えたつ
のは、当然と言えば当然だ。喜望峰が見えた時など、文夫は、その場所がどれだけ日本
と離れているかを思い浮かべて、発狂しそうなほど狂喜した。俺たちはとんでもなく遠
くに来ているんだな、と実感したのだ。

そして、慶応2年(1866年)、2月9日。

船はやっとロンドンの港に到着した。ロンドン港を見て、三人の男たちは不思議な感覚
に陥った。異文化と言うと簡単だが、それこそ異文化中の異文化が目の前に現出してい
るのだ。長崎の町もそんな異文化の町ではあったが、彼らの本来の故郷は「田圃の広が
る田舎町」だったのである。レンガで築かれた異国の町並みは、異次元世界、未来世界
の風景であったのである。

ここで余談として、この時代、海外に出て行った日本人をピックアップしてみる。ほか
にも海外に出た人はいるが、とりあえず野村文夫に関連のありそうな人々を抜きだして
みた。

万延元年(1860年)1月、咸臨丸で勝海舟、福沢諭吉らがアメリカへ出発

文久1年(1861年)12月、遣欧使節として竹内保徳、福沢諭吉、箕作秋坪、福地
桜痴らがヨーロッパへ出発

文久3年(1863年)5月、長州藩士の井上馨、伊藤俊輔(博文)らが15人が密出
国。この時にもグラバーが裏で密航の援助をしている。ジャーディン・マジソン商会(
社長、ヒュー・マジソン)の援助で上海から喜望峰まわりの帆走貨物船に便乗、英国へ
。
相当重労働させられたとの事。

トーマス・ブレイク・グラバー、イギリス商人。良く言えば西洋文化の紹介者、悪く言
えば死の商人である。倒幕勢力の巨頭、薩摩藩に艦船を売ったのも彼だし、長州藩に武
具を売ったのもこの人だ。(この時、長州藩は「薩摩藩名義」で購入している。斡旋し
たのは坂本竜馬だ)日本名「倉場」、野村文夫は「俄羅布児」と書いている。

元治2年=慶応元年(1865)3月、薩摩の五代才助(友厚)、寺島宗則、森有礼(
ありのり)らのイギリス行きも、グラバーが手助けした。

4月、長州藩の南貞助、山崎小三郎、竹田庸次郎。グラバー援助。

慶応2年(1866)、佐賀藩の石丸虎五郎、馬渡八郎、広島藩の野村文夫

五代友厚は、野村文夫と酒を飲みあって、海外についてあれこれ論じたと言う仲だ。森
有礼は後に明六社を結成、「明六雑誌」を刊行し、野村文夫と同じく文筆活動をする事
になる。また、後に野村文夫が発行する「団団珍聞」(まるまるちんぶん)は、最後に
は伊藤博文に息の根を止められる事になる。グラバーの所にやってきた役者たちが歴史
の舞台にあがっていくのはもうすぐだ。

 野村文夫に話を戻そう。ロンドンに着いた三人はロンドンっ子たちの目を楽しませた
。
以前この地に来た伊藤博文たちは洋服だったが、野村たちの格好と言えば、どっからど
う見ても日本人スタイルであった。私達がいまテレビドラマで見る、あれだ。あんな格
好のやつが町を歩いたら、そりゃ騒ぐのが当り前です。「おいおい、見ろよあれ。なん
であんなに人が集まってるんだ、野村よお」

「馬鹿だなあ、馬渡。あの集団は、俺たちを見に来たんだよ。」
「ひえええ!すごい人数だぜ。どこからあんなに集まるんだかなあ?」
「そんなこと知るか。さあいよいよ上陸だあ、ムシシシ」
「笑い事じゃないぜえ野村。俺は緊張してきた。ちょいと小便してくる」
「ハハハ、緊張するほどの事かいまったく。なあ虎五郎」
「ああ、そうだな。それにしてもどうだろう、あの見物人の量。すげえ人数だ」
「そんなに日本人が珍しいかねえ、俺たちゃもう見飽きているがなあ」
「アハハ、本当だ!」

ロンドンをうろついた野村は、この町をしきりに感心しながら見た。西洋文明のパワー
をあからさまに見て、ゾッとした。

馬車。洋服。街灯。

目に入るもの全てが、彼の心を動揺させる。スカートをはいて、青い目をしてるレディ
。
シルクハットをかぶったジェントルマン。

みな、当然のように英語を喋る。野村が苦心して勉強した英語を、だ!そんな様々な異
文化を目にして、文夫は興奮する。ここは日本ではない、との思いが文夫をゾクゾクさ
せる。ここは、この地は、かねてから憧れていた異国の地、英国なのだ……!ボーッと
町並みを見ていると、いつの間にか野次馬が三人を取り囲んで、今や身動きが取れない
ほどになってしまった。「な、なんだ!どいてくれ」と言っても、野次馬たちはどいて
くれない。どくどころか、彼らにペタペタとさわり始めた。物好きな連中にとって、刀
やらチョンマゲやらはよほど珍しいものだったんだろう。

「やめろ、さわるな!ああっ駄目だったら!刀にさわっちゃ駄目だってば、無礼者」
「おい野村、これは戻った方がよさそうだぞ。」
「ハハハ、まったくだ」
「よし、ロンドン塔を見たら船に戻ろう。」
「アイテテ、まげをいじるな!こら」

野次馬たちはほがらかに笑っていたが、野村たちは気が気ではなかった。だが、野次馬
達には奇妙な日本人を歓迎していると言う雰囲気があったので、怒りの感情は涌いてこ
なかった。三人はロンドンをもの珍しく見物し、(彼らが珍しく見物された、とも言え
るが)

薄暗くなる頃に、ロンドン港に戻った。




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