AWC 「麗らかな陽射しに誘われて」(1)   悠歩


        
#2084/5495 長編
★タイトル (RAD     )  93/ 5/ 5  23:51  (179)
「麗らかな陽射しに誘われて」(1)   悠歩
★内容

「麗らかな陽射しに誘われて」
                          悠歩

 私は狂ってしまったのかも知れない。こんな事は絶対にありえない、いやあっては
ならない事だ。私のなかで「モラル」という言葉が大きく揺れている。
 このままではいけない。何とかしなければ。そう思う反面、このまま堕ちて行きた
いという誘惑が私の心を支配して行く。
 私はいま、恋をしてしいる。決して許されない恋を。

 私の名は牧野春幸、三十三歳。小学校の教員となって、今年で十年目を迎える。
 自分で言うのもなんだが、私は優秀な教師であると自負している。十年の間、特に
問題を起こすこともなく、これまで受け持った生徒、父兄、同僚の先生方に対しての
評判も良かった。
 私は教師と云う仕事に誇りを持っていた。
 そしてこの春私は望まれて、新しい学校に転勤になった。

 五年五組と表示された教室。
 初めての学校の、初めての教室。初めて自分の受け持つ生徒達と顔を合わせる瞬間。
何度経験しても緊張するものだ。
 教室の戸を、ガラッと音を立てて開ける。それまで騒がしかった教室が、水を打っ
たように静まり返る。教室の中のすべての目が、見慣れぬ私に注がれる。
 そんな中を、私は堂々とした足取りで教壇へ歩いて行く。やにわにチョークを握り、
大きな音を響かせながら黒板に私の名を書き記す。
 緩慢な生徒達の反応。子供達の値踏みするような視線。
 果たしてこの教師はどんな人物であるのか、怖くて厳しい先生であればこらからの
一年間の小学校生活が憂鬱なものになるだろう。
 やや大きめに書いた私の名前を背にして、生徒達を振り返る。すぐには自分の名前
を声にして発する事はしない。
 こうして私が無言でいることによって生徒達の緊張は、一層高まる。
「まきの……はる…ゆき?」
 緊張に耐えかねた生徒の一人が、遠慮がちに声を出す。
 この時ようやく私は、それまでの表情を崩して微笑みを見せてやる。
「そうだ、牧野春幸。これから一年間、君達と一緒に勉強をすることになった。先生
はこの学校に来たばかりで、分からないことがまだ多い。この学校のことは君達のほ
うが、ずっと先輩だ。どうか宜しく頼む」
 途端に教室の中の緊張が解け、和やかな空気に包まれる。
「先生はいままで、どこの学校にいたんですか?」
「歳はいくつなの?」
「すきな食べ物はなんですか?」
 様々な質問が浴びせ掛けられる。
 もう大丈夫だ。私はこの学校でも、これまでと同じように“良い先生”としてやっ
て行ける。そう確信した。
 周囲に群がってくる生徒達と雑談を交わしながら、私の視線は一人の少女を捕らえ
た。教室の後ろのほうの窓際の席で、外の風景をぼんやりと眺めている少女。
 生徒達すべての関心が私に集まる中、唯一人私に対し興味を微塵も示さない。
「ふうっ」
 私は心のなかで溜息をついた。どこのクラスにもこんな生徒はいるものである。内
気な生徒か、他の子に比べて冷めた生徒か。いずれにしろ少々、相手にするのには疲
れる子供だ。
 しかし面倒であれば極力関わり合いは避けた方が、無難だろう。問題さえ起こさな
ければ一人の生徒を無視したところで、他の生徒達の事をうまくやれば私の教師とし
ての評価には影響が無い。
 −−木原仁美(ひとみ)−−
 他の生徒に気付かれないよう、私はその少女の名を名簿で確認した。

「木原、木原仁美はいないのか」
 今日から授業を始めるという初日。私は少し力んでいたのかも知れない。
 教室に入った時点で、欠席者のいないことは確認済みである。しかし出席を取り始
めると、他の生徒が素直に返事を返す中、あの少女だけはそれを無視するように黙っ
て窓の外を眺めている。
「木原仁美、君はなぜ返事をしない」
 私は少女の横に立ち、出来るかぎり感情を押さえて言った。本当なら怒鳴ってやり
たいところだが、それは他の生徒達に私が怖い教師だという印象を与えかねず得策で
は無いと判断したからだ。
「木原!」
 二度目に声を掛けて、少女はようやく緩慢な動きで私を振り返った。
「はい。来ています……」
 その声は極めて穏やかで澄んでいた。それは決して気の弱い少女のものでは無い。
 大きな瞳がじっと私を見つめる。長い髪が風を受けてふわっと揺れる。
 その時、私の中に何か不思議な感情が沸き上がってくるような気がした。
「そ、そうか……。い、いるならちゃんと返事をしなくちゃな」
 私の注意がまるで聞こえていないかのように、少女は再び窓の外に視線を戻した。
「木原……」
 私はもう一度注意をしようとして止めた。この子には出来るだけ関わらないほうが
いい。十年間、私を“良い教師”と周囲に評価させてきた勘が囁いた。
「木村美加子」
「はい」
 再び私は出席の続きを取り始めた。

 一日の授業を終え、生徒達を家に返すと私は急いで職員室に戻り、生徒達の資料を
調べ始めた。
「牧野先生、何か調べ物ですか?」
 私の斜め前の席に座った、まだ眼鏡をした若い女の教師が声を掛けてくる。
「あ、いえ、ちょっと気になる生徒がいたもので……」
「あの……もしかして、木原仁美さんの事ですか?」
「どうしてそれを」
 その女の教師が木原仁美の名を口にしたとき、私は心の中を読まれたように感じて
一瞬あせった。だが考えてみれば私より、ほんの一年先にこの学校に来ていれば木原
の事を知っていて何の不思議もない。寧ろ知っていて当たり前だろう。
「岬先生は木原さんの事を御存じなんですか」
 極力平静を装ってはいたが、木原仁美に対して感じた不思議な感情を見透かれはし
ないかと声がうわずってしまったかも知れない。
「ええ、私も直接あのこの担任になったことは無いのですけど……」
 まだ教師になって一年という若い教師は、この学校では私より自分のほうが先輩だ
ということを強調しているのかベテランの様な口ぶりで言った。
「資料をみて頂ければお分かりでしょうけど、あの子、家庭が複雑で……。そのせい
か変に冷めていて、他の子達と会わないみたいで友達らしい友達がいないんです。
 かと言って、私たち教師に対しても心を開いてくれなくて」
『なるほど』
 私はたった今見つけた、木原仁美の資料に目を通しながら心で呟いた。
 資料には余り詳しいことは書いていないが、彼女の保護者は父方の祖父母になって
いる。
「この資料によると、彼女には両親がいないようですが?」
「え、ええ……」
 私の質問に対し、彼女が返事を返すまで幾分時間が掛かった。何やら木原仁美には
複雑な事情がありそうだ。
「そうですね……。牧野先生は木原さんの担任になられたんですから、知っておくべ
きですよね」
 やがて彼女は勿体ぶった口ぶりで話し始める。いちいちそういったプロセスを踏ま
なければ、話の出来ないタイプのようだ。どうせ彼女がこれから話すことなど、この
学校の他の教師は皆、知っている事であろうに。
「木原さんのお母さん、殺されたんですよ。お父さんに……」
「……………」
「あの、なんて言うか……、木原さんのお母さん、男遊びの派手な方でその日も男友
達を家に連れてきていて、そこへ帰って来たお父さんがカッとなって包丁で男友達と
お母さんを……」
「刺し殺したのですか」
 彼女はコクリと頷いた。
「それもまだ小学校に上がったばかりの、仁美さんの目の前で……」
「それではなぜ、父方の祖父母に……?」
「お母さまの方には身寄りが無かったんです。それでいろいろあった様ですけど、結
局お父さまの方のお爺さまとお婆さまが……」
 それから彼女は無言で私の顔を見つめていた。自分の話したことが私に与えた衝撃
を確かめるように。
 しかし私の十年間の教師生活の中では、これ程までではないにしろ、何人かの複雑
な家庭環境を持った生徒を受け持って来た。木原仁美の事も、今更特に驚くような事
でもない。
 だがそれではこの若い教師に対し、余りにも無愛想だと思い、一応驚いたような表
情を作る。
「そうですか……。そんな事情が」
「牧野先生、新しい学校に来ていきなりで大変でしょうが、木原さんのことどうかお
願いします!」
 若い教師は大仰に頭を下げて見せた。若い故の情熱か、あるいは私に問題児を押し
付けてお手並み拝見と洒落込むつもりか。
 ふと私の脳裏に木原仁美の、憂いを秘めた眼差しが浮かび上がってきた。それと同
時に今までの教師生活のなかで、どの生徒に対しても感じたことの無い不思議な気持
ちが沸き上がってくるのを感じた。
 その時私はまだそれをなんであるか、気付くことが出来なかった。

 その日の放課後。私は忘れ物を思い出し、教室に向かった。
 下校時間が迫り、校内にはほとんど生徒は残っていない。校庭で遊んでいた生徒達
も、そろそろ帰り支度を始めている。
 昼間の活気溢れた風景とはうって変わり、夕刻の校内はどことなく寂しさに満ちて
いた。
 生徒達が帰り、明かりも落とされて薄暗くなった教室の戸を開けて教卓の中に置か
れたままの忘れ物を取りに入る。
 忘れ物がそこにあることを確認して顔を上げたとき、私の心臓はそのまま止まって
しまわなかった事が不思議なくらいに縮み上がった。
 誰もいないはずの、少なくとも私はそう思っていた教室の隅の席に、例の少女が朝
と全く同じように窓の外を見つめながら座っていたのだ。
 彼女は朝からずっとそうしていたと言うのか。なんと無意味なことだろう。
 しかし、赤い夕日に染め上げられた少女は偉大なる芸術家の手による崇高な絵画の
ように思えた。
 私は少女に声を掛けようとしてためらった。その神々しさに気押されて私はただ、
少女を見つめるばかりだった。少女は夕日を、私は少女を静かに見つめていた。
 しばらくして私は意を決して少女に声を掛けた。
「おい木原、何をしている。もう下校時間だぞ」
 朝と同じように、少女は何も答えない。私の存在など眼中にないという事か?
 頭に血が上って行くのを感じた。少女の存在に怯んだことが逆に私に虚勢を張らせ
たのだ。
「聞こえんのか、木原!!」
 少女の小さな肩を掴み、私は力ずくでこちらを向かせるという手段に出る。
「あまり先生を舐めるんじゃないぞ! いいか……」
 声を荒げてまくし立てた私は、脅えた表情で私を見上げる少女の顔を見て息を飲ん
だ。少女の瞳からは大粒の涙がとめどなくこぼれ出していた。
「お、おい、木原……。何も泣かなくたって……。別に先生は本気で怒った訳じゃな
いんだから……」
 叱った生徒に泣き出されるなどというのはこれまでの間、数え切れないほど経験し
てきたことである。それなのに私は少女の涙に、みっともないほど取り乱し慌ててし
まった。どうしていいのか分からず、ただその場に立ち尽すばかりであった。
「せんせいの……せいじゃ……ない」
 消え入りそうな声で少女は言った。その声は私にとって極上の麻薬の様な効果をも
たらした。私の心は抗うことの出来ない強い力に引かれて行った。
「帰ります」
 突然少女は立ち上がり、私を突き飛ばすようにして教室を出て行った。
「木原!」
 我に返った私は慌てて少女の後を追ったが、追いつくことは出来なかった。





前のメッセージ 次のメッセージ 
「長編」一覧 悠歩の作品 悠歩のホームページ
修正・削除する         


オプション検索 利用者登録 アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE