#6776/7701 連載
★タイトル (SEF ) 98/11/ 7 23:34 (108)
ART【5】 /えびす
★内容
フロントの女が電話を取った。そのまま嵯峨に渡す。嵯峨はフロントに背を
向けたまま左手で受話器を受け取り、耳から五センチほど離して相手の声を待
った。
「初めて会ったときの俺のシャツの色」
受話器からの音声は雑音がひどかった。
「青。最後に取り引きしたものは」
その嵯峨の問いに電話の相手が答えるまで、若干の時間があいた。
「二〇代の女。髪が全部剃られ、両方の瞼が切り取られてた。剥がされた爪は
四本。そのうち足の爪は二本。死因は溺死」
「うん。ひさしぶり」
嵯峨が受話器を耳に当てた。雑音の中、いろいろな音が耳に入ってくる。電
話が繋がった先の空間が、回線を通じてビジョンとしてぼんやりと嵯峨の頭に
浮かんできた。相手は確かに〈葬儀屋〉だった。左頬を負傷している。発声の
しかたで分かる。そして、彼は死に向かいつつある、というのもすぐに分かっ
た。腹部をひどく負傷しているらしい。
車のクラクションが絶え間なく聞こえる。食器の音も聞こえる。どこかの通
りに面した食堂だった。なにか、全体に熱気が伝わってくる。
日本では、ない。どこか、アジアの国だ。
「竹さんから最後に連絡があったのは」
「だいたい一三日前。直で会った」
「そうか。一〇四時間ぐらい前、竹さんがまずいことになったらしい。たぶん、
あんたも危ない」
「分かった。ありがとう」
嵯峨が即座に受話器を置こうとする。頭の中では、既に、事実の確認作業の
手順と同時に、潜るためのプランを立て始めている。
「待った、待った。まだ話がある」
国際電話のタイムラグのせいで、嵯峨が手を止めたのは受話器を置く寸前だ
った。ふたたび、耳に受話器を戻す。
「悪いけど手短に」
「分かってる。今から言う住所を記憶してくれ」
〈葬儀屋〉が住所を告げた。青森県だった。嵯峨がそれを暗記する。
「記憶した」
「復唱したほうがいい」
「それ、どういう意味なのか分かってるのか」
「ああ。全部分かってる。頼むから復唱して確認してくれ。安心して眠れない」
嵯峨がフロントの女のほうに身体を向け直す。女は黙ってそこに立っている。
たとえどんな事態になってもその場所からは動かないだろう。そういう仕事な
のだ。
嵯峨は、電話回線の向こうの〈葬儀屋〉の身体にさらに強い死の匂いを感じ
た。やはり彼は死にかけていた。二時間以内に高度な治療を受けて、生存率は
六割程度、と嵯峨は読み取った。
「分かった」
嵯峨が住所を復唱する。フロントの女は眉ひとつ動かさない。
「OK。今川公園のトイレの洗面台、いちばん左の排水管の中に、その住所の
鍵がある。安全はじぶんで確認してくれ。鍵をまわしてからドアを開けるまで
一〇秒以上待つこと。待たないとたぶん死ぬ。中の物は全部あんたに譲る」
「そうか。ありがとう」
「もうひとつ。俺のほうの相手のうちひとりが〈ガン・スモーク〉だった」
「目視したのか」
「ああ。初めて見た。噂通りだった。俺のほうは、俺の他は全員殺られた。で、
慌てて飛んだ」
〈葬儀屋〉が〈ガン・スモーク〉と一戦交えた上で、生き延びた、という事実
に、嵯峨は素直に驚愕した。〈葬儀屋〉は超一流だがアーティストではない。
普通の人間がアーティストと闘って無事逃げ延びるなどということは滅多にあ
ることではない。あるいは、〈ガン・スモーク〉に〈葬儀屋〉を殺す意志が無
かったか、だ。
「ひとつ聞いていいか」
「ああ」
「おまえ、わたしに惚れてたのか」
「うるせえ」
電話が切られた。
これから先、〈葬儀屋〉と会うことはあるのだろうか、と嵯峨は思った。五
分五分だろう。〈葬儀屋〉の持っていたシステムも壊滅したと考えたほうがい
い。しかし、彼なら、今の状況でも生き延びるような気もした。数年もすれば
会えるかもしれない。その時には一緒に寝てやろう、と決めた。
嵯峨がフロントの女に受話器を手渡した。女が電話を置く。
「すまん」
嵯峨が言う。
「いいえ。仕事ですから」
「何かできることはあるか」
「三つ。いいですか」
「いいよ。どんなことでも」
「もしよろしければ、今から言う口座にお金を振り込んでください」
女が口座の名を告げた。
「分かった。いくら」
「いくらでも」
「ふたつめは」
「ポケットの中のものを見せていただけますか」
「いいよ」
嵯峨はあっさりそういうと、革ジャンのポケットからその物を出し、フロン
トの女に見せた。女の目が、ほんの少し見開かれた。僅かでもこの女の表情が
変わったところを、嵯峨は初めて見た。
「これ、触ってもいいですか」
「もちろん」
嵯峨がそれを女に手渡す。裏返したり、斜めにしてみたり、じっくり見たあ
と、女はそれを嵯峨に返した。嵯峨はふたたびそれをポケットに入れた。
「面白いですね。ほんとうに面白い」
「ありがとう。三つめは」
「キスしてください」
嵯峨と女が口づけを交わした。
フロントの女を殺害した後、街が目覚めるまで嵯峨は数時間歩き続けた。そ
して雑貨屋でレンチを買い、〈葬儀屋〉が言った通り今川公園のトイレで鍵を
入手した。主宅にいちども戻ることなく、帽子屋でつばの広い帽子を買い、コ
ンビニで安いサングラスを買い、そのまま銀行に向かった。銀行の数百メート
ル前で帽子を深く被り、サングラスをかけると、意識的に猫背にして歩いた。
銀行に入り、今持っている口座のひとつからキャッシュカードで二〇〇万円を
おろし、残りの約三三〇〇万円全てをフロントの女が告げた口座に振り込んだ。
銀行内ではずっと猫背を続けていた。それだけで、印象が違う。銀行を出た後、
使ったカードは三つに切断し、それぞれ充分に離れた場所にある街角の屑入れ
に捨てていった。サングラスも屑入れに捨てた。
最後に、歩いていてたまたま目についたマンションの前に鎮座していたライ
オンのブロンズ像の頭に帽子をそっと被せ、嵯峨は消えた。
【つづく】