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★タイトル (BYB ) 98/ 6/15 20:38 (162)
私的ファンタジィ論D つきかげ
★内容
さて、現実とは何かという根本問題を問い直した時、神秘性について語る欲望に
僕らは直面せざるおえないばずである。例えば唯物論というものがある。ある意味
で目の前にある現実が全てであるという考えなのだろう。
ではこの目の前にある現実とは何か。
僕が高校生のころの話である。当時は公務員がスト権ストをやっていたころで、
ある数学教師が美術教師にストライキに参加するように説得しにいった時、美術教
師は一言で議論を打ち切った。それは、
「あなたは今、目の前にあるこの机が実在すると思いますか。私は実在するとは思
いません」
という言葉だった。
つまり史的唯物論者は事物の実在を論理的に言語によって証明すべきだというこ
とだろう。僕がその数学教師だったとしたら、その答えとしてとりあえず殴る。殴
ったあとにこういう。
「あなたはこの拳が実在すると思いますか。実在しないと思うのなら、あなたの今
感じている痛みは何ですか。それも存在しないものですか」
ようするに唯物論の問題は事物と私の相関関係の問題となっていく。トランスパ
ーソナル学派のケン・ウイルバーが「意識のスペクトル」という著作の中でインド
の王様の話を紹介している。
あるインドの王様は、自分に講義を行っている僧侶が本当に自分で自分の言って
いることを信じているのか疑問に思った。そこで試してみることにした。
王様の講師である僧侶が自分の庭に入ってきたところで、興奮した牛を僧侶に向
かって解き放った。牛は興奮して僧侶を追い回し、僧侶は血相を変えて逃げ出すと
慌てて木によじ登って牛から逃れた。
その様をずっと見ていた王様は、おもむろに僧侶に問いただした。
「全てが幻影であるのなら、あなたを追い回していた牛も又、幻影ではないのか」
僧侶は頷いて答えた。
「あなたの意識の中で、幻の牛が幻の私を追い回した。あなたは幻を見たのだ」
何か問題が巧妙にすり替えられたような気がする話である。王様のいいたかった
のは自らに危害を加えるものの実在を否定しては生きていけないでしょうというこ
とだと思う。どうもそれに対する明確な答えは無い。結局、事物と私との相関関係
に還元されるのではないかという話になる。
さっきの机の話を例にとれば、こうなる。
「机が実在していることを論理的に言語によって証明することはできない。しかし、
あなたと机の関係が疎である状況においては、その机の実在を疑うことができるが、
あなたがもしその机でものを書こうとして時、その机が実在していないかもしれな
いという理由でその机を使うことをやめるだろうか。あなたと机の関係が密である
時には、その机は明白に実在している」
唯物論とは世界に関与していこうとする時に、その実在をアプリオリな前提とせ
ざるおえないということだろう。これは多分、受入やすい話だ。神秘性の入り込む
余地は一見どこにも無い。
しかし、論理的に実在の根拠が証明できないという問題は残る。結局、事物の振
る舞いは論理的に記述しえるものであり、ある法則のもとでその動きを予測できる
ということで実在の代償としておくことになる。史的唯物論者の言っているのは、
科学的に説明可能なものの実在は受け入れることができるということだ。
神だの精霊だの因果的論理法則で記述できない存在については、その実在を疑う
必要があるが、ニュートン力学及びアインシュタインの相対性理論においてその運
動を記述しうるものについて実在を疑う必要は無い。
ということを唯物論者はいいたいのだと思う。それはたいへんもっともな話であ
るにも関わらず、そこには危険な落とし穴がある。つまり量子力学である。
僕は前々から唯物論者の人に聞いてみたかった。
「事物の存在を無前提につまりアプリオリに信じるのなら、あなたのいっている事
物とはなんですかね。たとえばあなたの目の前にあるこの机は原子でできているの
ですが、その原子は結局のところハイゼンベルグの不確定性原理によれば、確率的
にしか実在を記述できないはずですが」
残念ながら、そういう唯物論者(個人的には物理学ファンダメンタリストとも呼
ぶ)とは話をする機会が無い。物理学は元々世界の実在を保証するものではなかっ
たはずだ。しかし、物理学ファンダメンタリストとでもいうべき人々には物理法則
は聖書と同様の効力を持つようだ。そうした人たちは量子力学の仕掛けた罠に陥る
ことになる。量子力学は事物の実在に積極的に関与する理論であるが、その結論は
とても奇妙なものだ。
そこから神秘性を語る欲望へ直結してしまう。物理学ファンダメンタリストほど、
実在への渇望から神秘性へ逃げ込んでしまう。しかし、それは罠である。
量子力学は一見単純なことを言っているように見える。例えば電子のような微細
なものについては、測定する場合測定という行為そのものが電子に対して影響を及
ぼすのでそのふるまいを特定するのは困難である。
位置を知ると、運動量を測定できなくなるし、運動量を知ると位置を特定できな
くなる。量子力学とは一見そういうことを言っているようにも思える。観測しなけ
ればどこにあるか判りませんね。ただ観測手段が限定的なので不可測要素が多いで
すよ。
問題は、電子が波であると同時に粒子であるということだろう。学校の教科書で
は原子核の周りを小さな粒である電子が回っている形で、原子はモデル化される。
さて、この原子にエネルギーを与えた場合、電子の起動は広がってゆく。ただし連
続的ではなく起動は飛躍する。これはニュートン力学的には表現できないものだ。
不十分な測定手段であっても電子の動きは記述される。それは波として、つまり
波動関数として表現される。量子の世界では、実在は波動関数として表現される確
率的なものとなる。
やっかいなのはここからである。量子は物質である。これは疑うことができない
事実である。又、量子は波である。これも疑うことができない事実である。では問
題は、波である量子はいつ物質に変化するのか。
波である間は波動関数により確率的に偏在している量子は、観測した瞬間に物質
になるということらしい。ここからアインシュタインが決して受け入れることので
きなかった結論が導き出される。物質は観測によって創造される。
シュレディンガーの猫という有名なパラドックスがある。猫を箱にいれる。箱の
中にはふたつのスイッチがある。Aスイッチに放射線があたると毒ガスが放出され
猫は死ぬ。Bスイッチにあたれば何もおこらない。放射線は波であると同時に物質
である。波の間は放射線は偏在し、波動関数によって表現される。A、B両方のス
イッチに対して、放射線は照射される。しかし、現実にスイッチが入るのは放射線
が物質化した時であるから、観測という行為が成された時になる。
僕らが箱をあけ、結果が確認されるまで猫は生きているのと死んでいるのと二重
の状態で存在する。結果を確認するという行為を行ったとたん、猫はどちらかの状
態へ収束する。いわゆる平行宇宙のパラドックスである。
確率的にありうべき宇宙が平行して存在する。その宇宙に対して主観が介入する
ことにより、一つの宇宙が選択される。アインシュタインはこれに激しく反発し、
これもまた有名なEPR実験を行う。実験とはいえ思考実験である為、実際に行っ
た訳ではない。
これを極端に単純化してみる。
一つの光源に対して、二つの観測者を設定する。この二つの観測者は互いに光源
に対して180度反対側に位置する。さて、光は観測される前は波動関数で表現さ
れ、両方の観測地点に偏在する。しかし実際にはどちらかの観測地点で光子が検出
される。一方で検出されればもう一方では検出されない。
要するに、一方の観測が光子を創造するのなら、もう一方に光子が創造されない
という状態がつくりだされる。だが一方で光子が創造されたという結果が何らかの
形でもう一方に通知されなければもう一方で光子が検出されるという状況は起こり
得ない。
この観測者は光源に対して180度の位置に存在する。ではある一方で光子が創
造されたという事実がもう一方に瞬時に通知されるには、何ものも媒介されない非
因果的連関が二地点間でおきるか、超高速の通知が行われねばならない。
前者はニュートン力学で否定され、後者は相対性理論で否定されている。よって
観測者の観測により物質が創造されるという量子力学の理論は捨て去るべきである
といったものだ。
このEPR実験は現代においては実際に行われ、こうした事象が起こることは確
認されている。そういう意味ではアインシュタインは誤ったのである。
ここでとてもやっかいな結果が導き出されていることに気付くべきだ。
まず一つ。
量子力学に基づけば、僕らは選択可能な偏在する平行宇宙の中から一つの有りう
べき宇宙を選択している。
もう一つ。
量子力学に基づけば、因果的な連関がなく、非媒介的であってもなんらかの連関
が二つの主観の間に起こりうる。
これはユングがシンクロニシティの理論で主張していることそのままである。非
因果的かつ非媒介的な連関はテレパシーの実験においてユングは統計学的に証明さ
れていると主張する。そしてテレパシーのように非媒介的な連関は起こり得ないと
いう主張は、前述の量子力学の結果に基づくかぎり非科学的なものとして退けられ
てしまう。
また、偶然というものについても、ユングの指摘するような意味のある偶然は、
ありうるべき平行宇宙からの選択という意味において成立してしまうことになる。
魔法的な世界においては偶然というものはありえない。又、非因果的世界を魔法的
世界というのであれば、魔法とは偶然を必然に転化させることともいえる。
それらは物理学的に承認されてしまい、むしろその否定に固執することこそ、ア
ーサー・ケストラーの言い方を真似れば因果論的世界像という迷信に縛られること
である。
こうしてファンタジー的世界が物理学的な裏付けを与えられてしまう。これは非
常にやっかいな罠といえる。
まず、ユングの言説、又、それを支持した物理学者たち(例えばユングとの共同
著作を行ったパウリ等)の言説は超越論的なものである。つまり世界の根幹に対し
て、説明体系を構築してそれがどのようなものか語ろうとする試みである。
前回述べたように全ての超越論的言説は破綻を必然化されている。ところが、量
子力学を前提におく限り、その破綻を乗り越えているように感じてしまうのだ。
つまり量子力学はアインシュタインの相対性理論において完成を見たような論理
的因果関係に基づいた世界像をあくまでも物理学の言説の中で展開し破綻させ成立
させたものである為、破綻をのりこえたところに設立したもののように見えてしま
う。しかし、超越論的であることについては、アインシュタイン的世界も、量子力
学的世界も同じである。問題は実存的にどう世界へと関与するかというところにあ
るのだから。
今回の最初で述べたように、机が実在的であるかどうかはさして問題では無く、
その机と僕らの連関が疎であるか密であるかによって、机の存在は規定されてくる。
ファンタジー的世界は机の存在様式を変容させたとしても、僕らとの連関を強化す
る訳でも断つ訳でもない。
先に述べた僧侶のように全てが幻であるとすることも可能である。僕らがどう世
界と関与するかという選択において、それも又、ひとつの選択であることは否定し
ない。
ただ、その根拠が超越論的であるのならば、それは暴力的な排他的否定を産み出
す危険を孕んでいることは認識すべきである。僕らは、神秘性への欲望を持ちうる。
それは形をかえた実在への渇望にすぎない。
超越論的立場に立つ限り、ファンタジー的世界も、唯物論的世界も大差は無い。
神秘性はそれを語ろうとすることによって開示されるのではなく、ただ不在の神を
待つがごとく空白の思念により望み続けることによってもたらされるものであるこ
とを、忘れてはならない。