AWC 海鷲の宴(8−2)  Vol


        
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★タイトル (USM     )  97/ 6/29  18: 1  ( 56)
海鷲の宴(8−2)  Vol
★内容


 1942年1月2日 フィリピン

  この日、日本陸軍の第十四軍がマニラに進駐した。開戦直後から繰り返された、
 台湾の航空部隊の攻撃によって、ルソン島各地に展開していた米陸軍航空隊は壊滅
 的な打撃を受けていた。台湾から往復2000キロの距離を悠々と飛来した零戦は、
 カーチスP40トマホーク、ベルP39エアラコブラ、セバスキーP35モホーク
 といった、在比米陸軍が保有する戦闘機を、片っ端から叩き落としていった。かな
 わじと見た在比米軍総司令官ダグラス・マッカーサー大将は、マニラ湾の西に位置
 するバターン半島とその先に位置するコレヒドール島の要塞に立てこもり、持久戦
 の構えを見せたが、日本軍の進行が迅速だったため、必要な武器弾薬と食料の半分
 も運び込めず、彼の目論見は最初から頓挫を来していた。

  1月23日、ビスマルク諸島ニューブリテン島北部に位置するラバウルが、日本
 陸軍に占領された。中部太平洋最大の要衝であるトラック環礁の南の守りを固める
 と共に、オーストラリア作戦が発動された際の拠点としての役目を果たす基地だっ
 た。
  2月15日には、イギリスの東南アジアにおける最大の拠点・シンガポールが、
 山下奉文中将率いる第二五軍の猛攻の前に陥落した。
  さらに3月に入ると、オランダ領インドネシアに対する攻勢が本格化した。防衛
 に当たっていたオランダ東洋艦隊は、フィリピンから逃げて来た合衆国アジア艦隊
 や、英東洋艦隊の生き残りである重巡「エクゼター」などと共に、侵攻して来た第
 二艦隊に決戦を挑んだが、旗艦「榛名」以下重巡6、軽巡3を始めとする圧倒的に
 優勢な第二艦隊から、日本軍のお家芸である夜間攻撃を食らって、一方的に撃ちま
 くられたオランダ艦隊は、司令官カレル・ドールマン中将もろとも全滅、英重巡
 「エクゼター」も「榛名」の14インチ砲弾を食らって沈没の憂き目に遭い、米ア
 ジア艦隊も、軽巡「マーブルヘッド」を酸素魚雷の前に失い、大半の艦艇を傷物に
 されて、ほうほうの体でニューギニア/オーストラリア方面へとさらに逃げていっ
 た。
  そして3月9日、帝国陸軍は予想外の速さでジャワ島の完全占領を達成した。た
 だ一つ残った、フィリピンのバターン/コレヒドール要塞も、食料と医薬品の欠乏
 に見舞われ、航空部隊の爆撃と第二艦隊からの艦砲射撃をくらい、3ヶ月と持たず
 に陥落した。マッカーサーは間一髪でコレヒドールを脱出し、「アイ・シャル・リ
 ターン」の台詞と共に、オーストラリアへ落ち延びていった。これで困ったのが、
 第十四軍である。司令官の本間雅晴中将は、マニラやコレヒドールで捕獲した物の
 他、自軍の保有していたトラックまで最大限に活用して、30000人を遥かに超
 える数の捕虜の移送を命じた。ところが、第十八師団を率いる牟田口廉也少将が、
 「残敵掃討部隊の輸送のため」と称して、その大半を勝手に持っていってしまった。
 陸軍お得意の、「事後承諾を見込んでの独走」である。その結果、捕虜のほとんど
 が、バターンからマニラまでの50キロの距離を、飢餓と疾病に苦しみながら炎天
 下を徒歩で移動させられる羽目に陥り、5000人を超える死者を出した。この事
 件は後に「バターン死の行進」と呼ばれ、後世に悪名を残すこととなる。
  本間は後に、この事件について戦犯として起訴されるが、証言に当たった当時の
 第十八師団参謀長によって、この事件は牟田口の暴走が原因であることが判明する。

  ともあれ、これによって、東シナ海と南シナ海を取り巻く一帯が、完全に日本の
 支配下に置かれることとなった。開戦前から大本営が策定していた長期自給体制が、
 実現を見たのである。

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 第二部開幕です。本部前半で、日本軍はその絶頂期を迎えます。圧倒的劣勢の米軍
 が、どのようにして戦局を挽回して行くのか、その過程をお楽しみ下さい。

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