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アゲイン(その8) りりあん
★内容
アゲイン(その8)
りりあん
こんなときはどう答えたらいいのだろう。気の利いた台詞は何ひとつ
浮かばなかった。
「届けを出したのは1年ぐらい前だったかな」
淡々とした口調で言う。
「知らなかった」
「最初に話しておくべきだったね」
真砂は好奇心に背中を押され、ゆっくりとベッドに近づいた。拓巳は
十字架にかけられたように、両腕を左右に広げている。その視線は表情
もなく薄暗い天井に注がれていた。
「なんというか、いまの境遇を口説き文句にしたくなくて……、見栄か
もしれないな」
彼は口元を僅かに歪め、今度は両手を頭の後ろで組んだ。
「でも、どうして……」
そこまで言って、真砂は口をつぐんだ。理性が知りたい気持ちを辛う
じて抑えた。拓巳の過去をほじくりかえして一体何をしようというのだ
。「最初はね、うまくいってたと思う。でもあの子が突然逝ってから、
お互いにぎくしゃくするようになったんだ。夫婦の絆なんて、案外脆い
もんだよ。あ、いや……ごめん」
「子供が……亡くなったの?」
「生まれてまだ2週間だった」
落ち着いた物言いの中に行き場のない悲しみがあった。引っ越してき
たあの日、拓巳はどんな気持ちで息子を抱いたのだろう。
さらに、真砂は息子がまだ赤ん坊だったころを思い出していた。小さ
くて柔らかい、そしてとても暖かい肉体。それが一瞬にして冷たい骸(
むくろ)に変わったら。彼女は恐ろしさのあまり全身が震えるような気
がして、両手で自分自身を抱きしめた。
「SIDSだろうって言われてね。あいつは半狂乱になって自分を責め
続けた。僕は……なんにもできずに、ただ茫然としてた」
乳幼児突然死症候群。拓巳の子供の命を奪った、おぞましい病。
「あれは……、病気なのよ。誰のせいでもないわ」
むなしい台詞でも言わずにはいられなかった。
「……わかってる。たぶん責めることで悲しみから逃れようとしていた
んだと思う。僕は僕で、仕事に没頭して忘れようとした。あのころはお
互い、顔を合わせるのが辛くて」
静かな口調は全く変わらなかった。心の整理はとうについていると言
いたいのかもしれない。だが半分は嘘だと思う。元妻への贖罪(しょく
ざい)はまだ終わっていないのだ。慰謝料なんかでは到底払いきれない
ほどの何かがある。真砂にはその正体がわからなかった。
「僕は卑怯だった。あいつと一緒に泥だらけになって苦しむことも、か
といって助け起こしてやることもできなかった」
拓巳の表情が僅かに歪んだ。
「逃げちまったんだよ、結局」
彼はそう吐き捨てると、いきなりベッドから立ち上がった。そして真
砂の顔を見ようともせず、くるりと背を向けた。肩が2、3回大きく上
下する。爆発しかけた感情の嵐を抑えようとする努力がいたましい。
「だからあいつが別なところに救いを求めても……」
声が少し震えていた。お願いだから、もうやめて。
「僕は責められなかった。その後は坂道を転げ落ちるみたいだったな」
拓巳はガラステーブルの上に置かれたタバコの箱を手に取り、長い指
で白い紙巻きを引っぱり出した。それを口にくわえ、安物のライターで
火をつける。
彼は妻を許せなかったのだ。
「奥さんのこと、愛してたのね」
忘れたはずの嫉妬心が顔を出した。この上なく残酷な台詞だと知りな
がら、吐かずにはいられなかった。
拓巳がこちらを向く。うつろな目だ。彼をこんなに傷つけた女がうら
やましい。
「……わからない」
彼は煙を吐き出しながら、そう呟いた。
「あいつにはすまなかったと思ってる。でも正直言って別れたときは、
肩の荷が降りたみたいにほっとしたんだ」
本音なのだろうか。不安が黒い霧となって胸の中に広がる。
「つらいこと思い出させてごめんなさい」
その気持ちは嘘じゃない。
「いや、いいんだ。僕のほうこそ不愉快な話を聞かせて悪かった」
拓巳は少し肩をすくめた。苦笑した顔がいまにも泣き出しそうに見え
た。
「下まで送るよ。すぐ着替えるから待ってて」
急に早口になった。まだ半分も吸っていない紙巻きの先を灰皿に押し
つける。そしてクローゼットの前に歩み寄り、扉を開けた。
バスローブを脱ぎ捨て、ズボンをはく。浅黒い肌に直接ワイシャツを
着る。うつむきかげんでボタンをはめる仕草が、とてもいとおしく映る
。
帰りたくない。
このまま部屋を出たら、拓巳とは一生会えなくなる。
突然、そんな予感に襲われた。
「拓巳をひとりにしておくなんて……、私にはできない」
声がひどく震え、目の奥が焼けつくように熱くなった。白い背中がた
ちまち歪んで見える。
「僕は真砂が思ってるほど、ヤワじゃないよ」
拓巳は振り返らなかった。意地なのか、それとも拒絶なのか。優しい
声が真砂の胸を惑わせる。
「今夜は会えてよかった。だけど次の約束は……できないから」
真砂は半ば茫然とした面持ちでこの台詞を聞いた。泣き喚いて、彼に
取りすがりたい衝動に駆られる前に、心が完全に麻痺してしまった。も
はや何も感じない。様々な想いは砂となり、胸にあいた穴から止めどな
くこぼれ落ちてゆく。
「……わかってくれ」
拓巳の声が遠かった。溢れ続ける熱い泉は音もなく頬をつたう。
部屋全体の空気は重く、息苦しい。ぼんやりとした頭で、最後にこれ
だけは言おうと誓った。
「どんなふう生きても……行き着くところは同じなんだもの。自分自身
に嘘はつきたくなかった……」
真砂はかすれた声でそう呟くと、テーブルの上にあるバッグを取った
。ファスナーを開けハンカチとコンパクトを取り出し、頬を拭うと手早
く化粧を直した。自分でも奇妙なほど落ち着いていた。女の意地かもし
れない。情事の顛末を噛みしめるのはここを出てからにしよう。
「帰るわ」
拓巳の後ろ姿に短い言葉を投げた。足早に歩き、ドアノブに手をかけ
る。軽く回しながら手前に引くと扉は静かに開いた。
廊下の分厚いじゅうたんが目に入ったとき、肘をつかまれて中に引き
戻された。強い力が真砂を抱きすくめる。バッグは床の上に転がり、扉
がスローモーションで閉じていく。
「僕みたいな男でも……、いいのか?」
真砂は黙ってうなづいた。
「何もかも、なくすかもしれないんだぞ」
「拓巳さえいてくれたら……、他には何もいらないわ」
確かめるように彼の耳を見る。
まっ赤だった。
再び唇を重ねあう。
情熱が失われた時を焼き尽くす。
身勝手とそしられてもかまわない。
これが自分自身なのだから。
つづく
作者注;SIDS(乳幼児突然死症候群)について
つい数時間前まで元気だった乳幼児(0から2才くらい
までの子供に多い)が突然死亡してしまう疾患のこと。
原因不明とされてきたが、最近の研究では呼吸中枢に何らか
の欠陥または障害があるために引き起こされるのではない
かと言われている。また、うつぶせ寝との関連も指摘され
ており、イギリスやニュージーランドなどのデータでは、
うつぶせ寝をやめたら、この疾患による死亡率が低下した
との報告がある。また、親の喫煙率や飲酒率が高いほど、
その危険性も上昇する。
日本ではまだこの疾患に対する理解が低く、子供をなく
して悲嘆にくれる両親に、周囲の人々から心ない言動が
向けられることも多い。SIDSによって子供を失った
親の会も結成されている。