AWC 海鷲の宴(プロローグ)  Vol


        
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海鷲の宴(プロローグ)  Vol
★内容

 序章 雛鳥の産声

 1923年9月3日 横須賀海軍工廠

  ドックの中は、ところ構わず、コンクリート片やトタン板と言った瓦礫が散乱し
 ていた。工廠や軍港のあちこちからは、未だに煙が立ち昇っている。一昨日の大地
 震が残した、生々しい傷痕だ。ようやく、倒壊した倉庫やクレーンの残骸の片付け
 が始まった中、半壊した船台に据えられた、やや傾いた巨体を見上げながら、二人
 の男「「加藤友三郎海軍大臣と、平賀譲造船少将がたたずんでいた。
 「これはまた……」
  と、加藤が、憮然とした顔で呟いた。あまりの事に、悲しみや憤りを通り越して、
 自嘲の響きすら感じられる声だった。
 「派手にやられたものだな……」
 「船体への被害はそれほどでもなかったのですが、内部構造が歪んでしまっては、
 どうにも……進水間近でしたが……戦艦として完成させるのは難しいでしょう」
 「……」
  二人の目の前に、無残な姿で鎮座している戦艦「「完成の暁には、「土佐」と名
 付けられる筈だった「「と、隣の第二ドックで建造されていた姉妹艦の「加賀」は、
 この1ヶ月後に廃艦となることが決まり、標的艦としてその一生を終える事になる。
 そしてそれは、後に帝国海軍が辿る事になる、数奇な運命の序曲だった「「いや、
 それは既に、7年前に始まっていたのかもしれない。

  1916年、第一次世界大戦のさなか、大英帝国とドイツ第二帝国が誇る大戦艦
 部隊同士が、ジュットランド半島(デンマーク)沖で激突した。史上最大の艦隊決
 戦と歌われる、ジュットランド沖海戦(ドイツ側公称スカゲラック沖海戦)である。
  後世に知られる通り、この海戦は英海軍の圧勝に終わった。ドイツ側は、懸命の
 奮戦で英海軍の戦艦1隻と巡洋戦艦3隻を撃沈したものの、智将ビーティ提督の、
 巡洋戦艦の機動力と火力を活かし切った巧みな艦隊運動に振り回された挙げ句、鈍
 足の英主力戦艦部隊の砲撃圏内におびき寄せられ、戦艦7隻・巡洋戦艦4隻を失い、
 その他の艦も多大な損害を受けたのだ。前年のドッガーバンク海戦で、旗艦「フリ
 ードリヒ・デア・グロッセ」の艦橋に炸裂した直撃弾によって、名称の誉れ高かっ
 たシェーア提督が戦死していたのも大きかった。
  艦隊決戦に勝利した英艦隊は、ドイツ沿岸の港湾や、陸軍の拠点への艦砲射撃を
 行い……その結果、第一次世界大戦は、ドイツ第二帝国が年内に崩壊することによ
 って終わりを告げた。ジュットランド沖海戦は、艦隊決戦によって戦争の決着が付
 くと言う戦訓となったのだ。
  一方、翌年にロシアで起きた共産主義革命は、ロマノフ王朝を打ち倒し、後に世
 界初の共産主義国家、ソビエト社会主義共和国連邦を産み出すこととなる。
  そして、戦勝国に名を連ねた米英日を始めとする列強は、戦後における海軍力の
 イニシアティブを取るべく、熾烈な建艦競争を繰り広げた。当然ながら、大戦艦の
 大量建造は列強の財政を著しく圧迫し、その重圧に耐えかねた各国の呼び掛けで、
 1921年、ワシントン軍縮会議が開催された。
  会議は、当初から紛糾した。戦艦8隻、巡洋戦艦8隻から成る八八艦隊構想を掲
 げる日本。三年計画によって、戦艦10隻、巡洋戦艦6隻の建造を進める合衆国。
 そして世界中に散らばる植民地防衛のために、大量の巡洋艦の整備を進める大英帝
 国……会議は二転三転しながら4ヶ月に渡って繰り広げられ、ようやく以下の条項
 が合意文としてまとめられた。

 ・本条約の有効期限を、1931年12月31日までの10年間とする。
 ・アメリカ合衆国は、現在建造中の主力艦のうち、メリーランド級4隻を除いて、
  条約の有効期限内における戦艦の建造を行わない。
 ・大英帝国は、現在建造中のネルソン級戦艦4隻を除き、条約の有効期限内におけ
  る戦艦の建造を行わない。
 ・大日本帝国は、現在建造中の加賀級戦艦2隻及び天城級巡洋戦艦4隻を除き、条
  約の有効期限内における戦艦の建造を行わない。
 ・フランスについては、今後一隻あたり35000トン、主砲口径16インチ
  (40.6センチ)以内と言う制約の下で、2隻まで戦艦の建造を認める。
 ・イタリアは、現在建造中のフランチェスコ・カラッチオーロ級戦艦4隻を除き、
  条約の有効期限内における戦艦の建造を行わない。
 ・各国とも、条約の有効期限内においては、保有する戦艦への16インチを超える
  砲の搭載を行わない。
 ・補助艦艇については、備砲口径の上限を8インチとする以外は、特に制限を設け
  ない。

  このうち、今回の震災によって、日本が建造を認められていた6隻の戦艦のうち、
 2隻が完成前に失われたのだ。もちろん、代艦の建造は認められていない。せめて
 八八艦隊の半分でも、と必死の思いで軍縮会議の席で主張を押し通し、乏しい国家
 予算をやりくりして建造を進め、ようやく進水に漕ぎ着ける直前で、まさしく降っ
 て湧いた天災そのものによって、計画は潰えた。
  八八艦隊計画改め四四艦隊計画の提唱者であった加藤友三郎は、この2ヶ月後に
 急性心不全に襲われ、死去する。「加賀」「土佐」の喪失が、余程ショックだった
 のだろう。


 1924年6月27日 高知沖

  殆ど上構の据え付けも終わっていない巨艦が、2隻の駆逐艦に曳航されて、ゆっ
 くりと姿を現した。艤装すらままなっていない状態だが、装甲はきちんと施されて
 おり、否が応にもこの艦の境遇を示している。
  2日前に標的艦として、砲撃によって撃沈された「土佐」に続いて、姉妹艦の
 「加賀」が、航空攻撃実験に供される事になったのだ。艦船に対する、航空爆弾及
 び、昨年ようやく実用化を見た航空魚雷の威力を確認するための実験で、実験終了
 後「加賀」は、夕方に行われる水雷戦隊による実弾雷撃訓練によって、沈められる
 予定だった。
  午前10時過ぎ、四国の航空基地から発進した最新鋭の一三式攻撃機20機が、
 5機づつの編隊を組んで「加賀」上空に飛来し、緩降下から60キロ航空爆弾を投
 下した。
  命中の瞬間、艦砲のそれにも引けを取らないと思われるような轟音が響き渡り、
 「加賀」の前檣楼脇「「もっとも、基部となる司令塔が建っているだけだったが「「
 や、煙突後方などに、次々と爆炎が踊った。次いで濛々と黒煙が立ち昇り、黒っぽ
 い破片が飛び散る。だが、黒煙が晴れた後、「加賀」は何事もなかったかのように
 浮かんでいた。
 「総長、これで戦艦の優位が証明されましたな」
  嶋田繁太郎艦政本部長が、誇らしげに言った。その視線は明らかに、隣に立つ山
 本五十六連合艦隊参謀長を意識していた。嶋田と山本は、海軍兵学校の同期生同士
 で、そのうえ嶋田は大艦巨砲主義を標榜する艦隊派、山本は航空主兵を掲げる条約
 派と、公私にわたるライバル同士とも言える間柄だった。
 「うむ、航空機の爆弾ごときでは、戦艦の分厚い装甲は貫通出来んと言う事だ」
  加藤寛治軍令部総長が、当然だ「「とでも言いたげに答える。
  しかし、被害調査が終了した4時間後に行われた航空雷撃実験で、彼らの顔は一
 様に青ざめる事となる。
  「加賀」の左右両舷から、8機づつの攻撃機が接近して、16本の九年式航空魚
 雷を投下した。うち3本は、投下時の衝撃に耐え切れずに折れてしまうなどして、
 不発に終わったが、残る13本が、「加賀」を左右両舷から挟みこむように突進し、
 2本が左舷に、6本が右舷にそれぞれ高々と水柱を上げた。
 「大丈夫だ、あの程度の事で戦艦は沈みやせん、戦艦は……」
  祈るように呟く加藤の声も、こころなしか焦りを含んでいるように聞こえる。
  だが「加賀」は、見る間に右舷に向かって大きく傾き、やがて水飛沫を上げて転
 覆し、ものの1時間足らずで、海面下に姿を消してしまった。誰もが、あまりのこ
 とに我を忘れ、呆然と立ち尽くしている。
 「艦長……雷撃訓練はどうします?」
  軽巡「鬼怒」水雷長の栗田健男大尉が、どこか間の抜けた様子で、隣の南雲忠一
 中佐に訊ねた……。


 1931年10月5日 横須賀軍港

 「しかし、今でも信じられんよ。あの根っからの大艦巨砲主義者だった加藤さんが、
 こんな計画を承認するとはな……」
  航空本部次長に就任した山本五十六中将は、目の前の光景が夢でもあるかのよう
 な口調で呟いた。
  彼の眼前の海面には、4隻の巨艦が遊弋している。その全長は250メートルを
 優に越えているが、甲板上には左舷に小さな艦橋があるのみで、後は真っ平らで砲
 塔すら積んでいない。
  航空母艦。
  7年前の実験によって、戦艦に変わる主戦兵器と見なされ、以後急ピッチで整備
 された新艦種だ。しかも、この4隻にはとんでもない過去がある。何と、この4隻
 の前身は、四四艦隊計画で整備が進んでいた、天城級巡洋戦艦なのだ。
  当然ながら、この計画が立案されたときには、海軍内で凄まじい論議が巻き起こ
 った。「加賀」の沈没をきっかけに、海軍内の航空主兵派が大きく勢力を伸ばし、
 大艦巨砲主義派は、あれは単なる実験に過ぎぬと反論した。それに決着をつけたの
 が、雷撃に先駆けて行われた、爆撃実験の報告書だった。
  すなわち、主要区画への爆撃による致命的損傷はなかったものの、副砲・高角砲
 と言った補助火器や煙突に大きな被害が生じ、司令塔への直撃弾によって内装が全
 壊したと言う結果が、厳然たる事実として突きつけられたのだ。
  それでも、嶋田繁太郎や永野修身と言った強硬な戦艦主兵派は、しぶとく抵抗し
 たが、最終的には、戦艦主兵派の巨頭と目されていた加藤寛治大将の鶴の一声で、
 天城級戦艦の空母化はスタートした。
  会議の席上、目を剥いた嶋田や永野に、加藤はこう言った。
  戦艦の防御力の強化は、一つの到達点に達しており、これ以上の劇的な防御力強
 化は考えにくい。それに対して航空機は、今後も一層の性能強化が見込め、搭載出
 来る爆弾や魚雷も、より大きく強力なものへと替わって行くだろう。
  それに、事前の徹底的な爆撃によって対空火器を、指揮系統を潰された戦艦が、
 果たして、戦艦を沈め得る威力を持つと実証された航空雷撃を、免れることが出来
 るだろうか?
  まさか、主砲で飛行機が落とせる訳もあるまい。四方八方から攻撃機に押し包ま
 れ、無数の魚雷を受けて転覆するのは目に見えている。
  そのうえ、戦艦に打ち勝つ戦力を、戦艦よりも安価に整備出来るのだから、結果
 的に空母を多数建造した方が、将来生起するであろう艦隊決戦において優位に立て
 るだろう「「
  こう論破されては、誰も反論出来なかった。
  ただ、この主張転換を背信と見た者はかなり多かったらしい。加藤は、その後3
 回に渡って、戦艦派の青年将校らによる暗殺未遂に遭い、退役を余儀なくされた。

  この年、ワシントン軍縮条約は失効した。合衆国は直ちに、凍結状態にあった三
 年計画艦隊の整備を再開する。一方日本は、表向きは「主力艦」4隻を建造すると
 発表し、極めて異例な事に、起工に先駆けて艦名を公表した。すなわち、「紀伊」
 「尾張」「駿河」「近江」である。列強諸国は、これに対して極めて過敏な反応を
 見せた。常識に従えば、これらの国名を由来とする艦名は、戦艦に付けられるもの
 だからだ。そのうえこれらの艦名は、日本が長年悲願として来た八八艦隊の、9〜
 12番艦に予定されていた艦名なのだ。
  だが、これらの4隻は全て、航空母艦だった。対外的には、高知沖での航空攻撃
 実験の結果は最重要軍事機密として秘匿され、加賀級戦艦は、関東大震災による損
 傷の為、解体処分に付された事になっていた。さすがに、天城級戦艦の空母化まで
 は隠せなかったが、当時の日本は、戦争経済の反動による恐慌で、財政事情がお世
 辞にも芳しいとは言えなかったため、予算不足による戦艦建造の断念を疑う者はい
 なかった。
  一方、正規の航空母艦の建造も、順調に進捗していた。蒼龍級、翔鶴級と言った
 中型正規空母や、隼鷹級、龍鳳級のような改装空母の整備が急ピッチで進み、さら
 に、飛行甲板に装甲を施した大鳳級中型正規空母の建造が始められようとしていた。

  その頃日本は、満州事変をきっかけとする一連の中国問題で、国際社会での孤立
 を深めていた。中国の利権を巡っての合衆国との対立は、やがて日本がドイツとの
 関係を強めて行く結果となる。
  1936年、日独防共協定が結ばれ、翌年の蘆溝橋事件によって日中戦争が勃発。
 統帥権独立を盾に、政府のコントロールを離れた陸軍は、怒涛の勢いで中国領内へ
 の侵攻を開始し、見事に泥沼にはまった。15年に渡る戦争の始まりだった。
  勢いに乗って進撃を重ねる陸軍は、政府の戦争不拡大方針も、大本営の命令も、
 天皇の勅令さえも無視して、暴走を続けていた。各地で、関東軍兵士による残虐行
 為が繰り広げられ、日本を非難する声は日増しに高まって行った。
  この戦争は、米英を始めとする列強に、格好の日本攻撃の口実を与えた。特に、
 中国市場への参入を狙うアメリカは、これを機に日本を潰しておこうとばかりに、
 苛めにも近い対日経済制裁を行ったのだ。
  太平洋に、戦火の火種がくすぶり始めた……。

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 この作品の内容には、史実との著しい相違や、類似した点などが多数存在しますが、
 それらは全て架空のものであり、実在の人物・団体・事件・兵器・戦闘などとは
 一切関係ありません。

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