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わが恵み、なんじに足れり(仮題) 第1章 香田川旅出
★内容
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わが恵み、なんじに足れり(仮題) 第1章
香田川旅出
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その日、東京は快晴。見上げると、澄み切った青空が広がっていた。
そんな東京都内の、とある閑静な住宅地――一応区内ではあるが、超高層ビ
ルが林立する都心部や、田園調布みたいな高級住宅地とは違い、日本のどこに
でもあるような、ごく普通の町並みである。――その中に、松田荘はあった。
2階建て、木造モルタル塗りのアパート。築30年近くになるそのアパートは、
外壁もあちこちが黒ずみ、あばら屋とは言わないが、いかにも古ぼけたといっ
た外観を呈している。
その松田荘の2階の左端、8号室に一人の男がいた。
中は薄暗く、窓のそばにある学習机と、その窓のカーテンレールにハンガー
をかけて吊るしてある詰め襟の学生服、あとは部屋の脇にあるちゃぶ台が目立
つ程度。そんな部屋の真ん中で、28歳の体格には似合わない童顔のその男は、
水を一杯入れたやかんを両手に持ってあぐらをかき、さっきからじっとそのや
かんを睨み続けていた。
顔面から脂汗が滲み出た頃になって、突然やかんの口から勢いよく湯気が吹
き出した。一仕事終えた男はふっと息をつき、やおら立ち上がると、沸騰した
お湯の入ったそのやかんを、流し台のガスコンロの上に置いた。
トントン。
その時、男は背後からそんな音を耳にした。隣の10号室とを隔てる薄い漆喰
の壁。その向こう側から何者かが壁をノックしている。
「守(まもる)か?」
男は振り向くと、壁の向こう側にいる筈の隣室の住人の名を呼んだ。
「タカ坊、入っていいか?」
壁の向こうから、そんな隣人の声。
「ああ」
男がそう返事すると、隣人は壁をバリバリと突き破り……じゃなかった、そ
こに何もなかったかのようにすっと壁を通り抜け、二十歳にしか見えないその
姿を現した。
「やれやれ、また念力で湯沸かしか?」
10号室の住人――近藤守(こんどう・まもる)は、ガスコンロ上のやかんを
見やりながら、8号室の住人――松田高明(まつだ・たかあき)に話しかけた。
「守こそ、透視でこっちを覗いてたくせに」
高明は不満そうな口振りでそう答える。もっとも、内心は全然怒ってないこ
とぐらい、守はお見通しである。
「コンロが壊れてる訳でも、ガスを止められてる訳でもないのに。せっかくの
超能力がもったいないだろ」
さっきの高明の台詞を無視して、守は高明に問いただす。
「これも訓練のうち。何せこっちに戻って来てから、力を発揮する場面がほと
んどなくてな。いくら僕でも、使ってないと力が錆付いちまう」
そう言いながら、高明は流し台のかごの中からコーヒーカップを二つ取り出
した。「守、コーヒーでいいよな」
「ああ、何でもいい」
高明は28歳。守も二十歳で成長が止まっているが、生年月日から数えれば一
応28歳。
高明は2歳から12歳までを大阪市で過ごした。その頃、高明の家の向かいに
住んでいたのが守で、同じ小学校に通っていたこの二人の超能力少年は、いわ
ば幼馴染みであり、また今でも大の親友である。
小学校卒業と同時に、家の事情もあって、高明は親戚が経営するこのアパー
ト・松田荘で一人暮らしを始める(冒頭の机と詰め襟は、この中学生時代の高
明のもの)。しかしそれからわずか5か月後、高明はある事件に巻き込まれ、
この世界から忽然と姿を消した。
一方、守もバイク事故が元で、二十歳の時に「一旦」死んでしまう。
ところがこの物語の年の4月、守は7年ぶりに現世に舞い戻り、高明がいた
部屋の隣に住居を構え、8月には、その高明も突然東京に戻って来た。
この話は、その高明の帰郷から3か月後、11月のことである。
「で、タカ坊、見つかったのか?……その、郡(こおり)さん」
ちゃぶ台を挟んで、守はコーヒーをすすりながら、高明に尋ねた。
「駄目だ。心霊エネルギーの高い所を片っ端から当たってるんだが、今もって
手がかり一つつかめん」
如何にもお手上げといった表情で、高明は肩をすくめた。
「そっか……」
郡新平(こおり・しんぺい)。言ってみれば、彼は高明にとって恩人であり、
また心の師であった。
高明が超能力を発揮するようになった2歳頃から、一時的にこの世界を去る
ことになった13歳まで、彼はしばしば高明の前に姿を現しては、いろいろな形
で高明を助けてくれた。
郡氏は、まるで予知能力でもあるかの如く、高明がまさに自分を必要として
いる時に、必ず現れた。
一つは、自習の時や(高明は知能指数が高過ぎ、学校の勉強以上のことを自
分でやっていた)自らの超能力を高め鍛える時に先生・コーチ役を務めるため
に。
もう一つは、悩みを抱えている時は親身になって励まし、何かうれしい事が
あれば一緒になって喜ぶために。
30歳手前くらいに見えた彼の服装はいつも決まっていて、黒のスーツの上下
をまとい、首には黒いネクタイを締め、黒のマントを肩からなびかせた、地味
なんだか派手なんだかよく判らない格好。端から見ると「変なおじさん」にし
か見えないだろう。
しかし高明にとって、そんな郡氏のいでたちは、テレビや漫画に登場するど
んなヒーローよりもかっこ良く見えた。
こんな事もあった。高明の中学生時代、ある事情で大阪に一時帰郷していた
時の事である。
府立図書館へ行くために電車に乗った高明の心に突然郡氏の声が響き、彼に
導かれるまま一駅で途中下車し、線路横の道を歩いていると、辺りが急に騒が
しくなってきた。野次馬たちが走っていく方向へ自分も行ってみると、5階建
てのビルの屋上で、左手に包丁を持った強盗らしき男が、右腕に2歳ぐらいの
女の子を抱きかかえ、何やら怒鳴っていた。
〈奴は銀行を襲って失敗、警察にあそこまで追いつめられた。逃げる途中、た
またま現場を通りかかった親子連れに出くわし、無我夢中で女の子を引っさら
い、あんなことになった〉
郡氏のテレパシーを感じる高明。高明も、どこにいるか判らない郡氏に、テ
レパシーを返す。
〈で、僕は何を? 強盗犯を捕まえるんですか?〉
〈いや、強盗犯は警察官がもうすぐ取り押さえる。ただ、その時の弾みで、犯
人は女の子を屋上から落としてしまう。だから、その子を出来るだけ高い位置
で受け止めるのが、君の役目だ〉
しばらくすると、まさしく郡氏が言った通りに事が進んだ。わっと跳びかか
る警官に一瞬気を取られた強盗犯は、女の子を抱えていた右腕の力が緩み、女
の子は腕からするりと抜け、そのまま落下を始めた。様子を眺めていた群衆か
ら悲鳴が上がる。
〈今だ!〉
郡氏の声を心に感じるか感じないかのうちに、高明はジャンプ一番、ビルの
4階の窓の辺りまで跳び上がると、女の子を両手でしっかりとキャッチ、その
まま空中浮遊を続けながら、ゆっくりと地面に降りていった。
最初、目の前で何が起こったか判らず、ただ呆然としていた群衆だったが、
泣き叫ぶ女の子を両手で大事そうに抱える高明の姿を確認すると、どこからと
もなく歓声が沸き上がり、高明は群衆に揉みくちゃにされた。
後日、大阪府警から感謝状が贈られたことは言うまでもない。過去、幾度と
なく人命救助を経験してきた高明だったが、ここまで感謝されたのは生まれて
始めてだった。
「でも、結局正体は判らず仕舞いだったんだろ?」
今述べたような、郡氏とのいろいろな想い出話を披露する高明に対し、守は
そう言った。
「ああ。……でも、あの頃は正体なんてどうでもよかったからなあ」
「“正義の味方”――それだけ判れば充分と」
「まあな。しかし今にして想えば、住所ぐらい聞いておくべきだったかもな」
「あの頃のお礼をしたくても、相手は行方知れずでどうしようもないって訳か」
「あの頃の郡さんなら、こういう時にいつも登場してくれたもんだが」
「それはどうだか。正義のヒーローってのは、他人の幸せのために登場するも
んだ。自分を喜ばせるためにやるんじゃ、ただの偽善者だぜ」
「それは言えてるな」
二人がそんな話をしているさなか、松田荘の前の道路を突如大きな車がサイ
レンをけたたましく鳴らしながら、走り去っていった。
「何だ今の? 消防車か?」
守がそう言った時、突然ドアをドンドンドンと叩く音がした。
いそいそと玄関に向かう高明。ドアを開けると、ノックの主は大家さん――
高明の叔父だった。
「高明君!……おお、近藤君も一緒か」
叔父さんの口調は、只事ではない何かを感じさせるに充分だった。
「どうしたんですか、叔父さん」
「すぐそこで火事だ。救助を手伝ってやってくれんか」
“火事”――その言葉を聞いた瞬間、高明の顔から血の気が引いていくのを、
横から見ていた守は見逃さなかった。
(第1章・完)