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★タイトル (BKX ) 97/ 2/ 4 22:17 (125)
イノセントなもの、失われゆくもの #3−4 なつめまこと
★内容
イノセントなもの、失われゆくもの #3−4
翌日、私は深い充足感に包まれて一日を過ごした。夕食後、モルトウィスキ
ーを飲みながら、上條に礼状という形で、昨夜言い残したこと、もしくは適切
な言葉で言い表せなかったことを手紙に書いた。八年間閉じこめていた感情の
通路ができたこと、およびその通路を通じて自分の思いを伝えられることが私
に大きな満足感をもたらしていた。
次の日の朝、出勤の途中にケイコに電話して上條の下宿先の住所と電話番号
を教えてもらった。現在の実家のアドレスは分からないとのこと。(上條の家
族は卒業後、隣の市に転居していた。)宮城県にある下宿先に戻るのは一週間
ぐらい後になるということであった。
それから私は感情障害に苦しむようになった。一日中気が晴れず、底へ底へ
と沈んでいく感覚に襲われた。きっかけとしては上條への手紙の宛先をどこに
したらよいかということであったが、その背後には私の心情は通じはすまいと
いう諦念が横たわっていた。私は上條の下宿先の住所を記して手紙を投函し、
胸に巣くう空虚さと格闘し始めた。
抑鬱感は長くしつこく私を捕らえていた。折しも、職場では体育祭の取り組
みがたけなわとなり、行進練習やら組立体操やら、この世に生きるに何の意味
のないことを、サディスティックな教師たちが怒声をあげて羊のように従順な
生徒たちに強要していた。私は放送室の椅子にぶっ座り、行進曲『ボギー大佐』
のテープを操作する。今風の曲はテンポが速いので、手足がしっかり上がらな
いから採用されない。毎日のようにグランドから、
「ナツメ先生、ボリュームをもっと上げてください!」という声が飛ぶ。その
たびに私は旅客機の機長のように冷静な声でアナウンスする。
「これで最大の音量です。」
最初から最後までフォルテシモの音楽などありはしない。六百人ほどの生徒
が連日入場行進の練習をさせられる。当日それを見るのは三十人ほどの教師と
その数以下の親だけだというのに。(普通の親は中学生の体育祭を見るのに朝
の八時に来やしない。)
仕事が終わると、夏に消化器の手術をして入院している父を見舞い、外で夕
食を摂り、部屋でウィスキーを生で飲みながら、ラベルの『亡き王女のための
パヴァーヌ』やバッハの『マタイ受難曲』を聴いた。涙を流せば自らを癒やす
ことができるが、ただ心の底の私を支える土台が、サラサラと崩れ落ちていく
感じだけがしていた。
妻を持ち、子どもさえも持つであろう男に想いを残す娘。そんな娘の行く末
を悲しむ私。花も実もつかぬ愛で支える私自身の存在の空虚さ。愁殺されるよ
うに秋の夜が更けていく。
二週間が経ち、あいかわらずの精神状態なので、私はナトリさんの家に相談
に行った。ナトリさんは六十代半ばの女性で、昔、何年か一緒に仕事をしたこ
とがある。彼女は女教師としては奔放な人生を送っており、私が尊敬する女性
の一人である。彼女の女としての経歴は、妻のいる男性と恋に落ち、その妻を
別れさせて結婚し、二人の子どもを産み、育てた。そしてその夫が病気で早く
亡くなった後、若いツバメと何年か交際した。夫が病弱だったため性的快楽を
開発されずに逝かれたので、この年下の愛人によって性の開眼をしたという。
私と一緒に仕事をしていた頃は、さる校長の愛人としての日々を重ねていた。
二年前に訪れた時は、尾瀬で知り合った台湾の人間と恋仲となり、年に二、
三回台湾を訪れているという話であった。今回、話を聞いてみると、近所の七
十歳のじいさんがちょっかいを出してくるので、庭の手入れをしてもらうのに
利用しているという。まさに老成したビッチである。彼女の話によると性機能
が干上がる恐れを持った老人ほど積極的で、「私のような未亡人は隙があるよ
うに見えるのか、盛んに狙われる」そうである。
彼女の話を聞いていると、彼女が(あるいは女が)いかに動物的であり、私
がいかに植物的であるか(あるいは生きる基盤がいかに脆弱であるか)を認識
させられる。
「ナツメさんは一人で淋しいことはないの?」とナトリさんは私に訊く。
「さぁ、淋しい時もあるけれど、自分の中の女性性を見つめていると意外と独
りでいられますよ。」と私。
「難しいことはよく分からないけれど、私は一人でいると淋しくていられない
から、男の人が絶対必要だわ。あなたは若いのにセックスはしないの?」
ビッチは直裁である。
「ボクだって時々しますけれど、そんなにこだわらなくなりましたね。最近は
むしろ何もしない女友達と一緒にいる方が多くなりました。その方が解放され
ているというか、楽にいれますから。」
私は子どもがいて、離婚経験のある女友達とタイの山奥に行ったり、温泉に
行ったりした経験を語った。
「その女性なんて、顔なじみなら男と混浴するのも平気ですよ。彼女と彼女の
子どもと三人で同じ部屋に泊まったこともありますもの。」
「本当に肉体関係なしで?」ナトリさんは目を丸くして訊く。
「ええ、別な男性と再婚しましたが、ボクなんか若い時はそばに女性がいると
口説かなければ失礼なんじゃないかと思ったり、色々ぐちゃぐちゃすることの
ほうが、むしろストレスでしたから…。」
「ふーん、そういう時代なのかしら。私の甥や姪たちも遊びに行って、男女で
雑魚寝しても、何もないって言いますからね。確かに最近の若い人は植物的な
のかも知れないわ。」彼女は盛んにうなづきながら言う。
「でも、人生としてはつまらないんじゃないの。」
そう、確かにつまらないかも知れない。しかし、私を含めて多くの者が、自
らコントロールできなにい感情に身を委ねてズルズルと内臓を引きずって歩く
ような人生を選択しないことは確かだ。
私は父親が手術を受けた直後、執刀医から不意に摘出したばかりの臓器を見
せられたことを思い出した。ザラリとした不快感が去った後に自然と性欲が沸
いてきた。死の臭いを感じ取った本能が遺伝子を残そうと反応したのであろう
か。常々、我々がそのような状況にあれば、もっと動物としてふるまえるのか
も知れない。
それでいよいよ本題に入った。私が上條とのてんまつを語ると、ナトリさん
は率直に訊いてくる。
「それで、ナツメさんはその娘のことが好きなの?」
「いや、好きというよりは心配なのです。妻子ある男に未練持って、グズグズ
腐れ縁が続いて、ずっと日陰にいるなんて、なんだか女として、世間的に見て、
不幸じゃないですか。そんな女に『オレの気持ちの方が純粋だぜ。』なんてド
ブに落っこちる役はもうしませんよ。一度やって懲りてますから。」
しゃべっている間に十五年も前のことを思い出して、つい口が滑った。
「えっ、ナツメさんにそんなことあったの? 私、知らないわ。」
この際、古傷も曝してとことん語ってみようか。
「ナトリさんだって知っているでしょう。フジタさんのこと。ボクが二十六ぐ
らいの時、縁談がいくつかやってきたから、フジタさんに『どうよ?』って訊
いてみたんですよ。それまで若い者同士で遊んでいたから。そうしたら、彼女
泣きながら、一回り年上の所帯持ちとつきあっているって言うじゃない。ボク
も若かったからカーッと頭に血が上って、一生懸命迫っちゃたけれど、なびき
ゃしないですよね、結局。今から考えりゃ、『先約があるからごめんなさい。』
と言えば、『じゃあ、次ぎに行こう。』とこちらは悩まなくていいことじゃな
い。女はズルイよな。それでもう四十過ぎているのに、彼女はそのまま独り身
でしょう。それで幸せなんですか?」
ナトリさんは楽しそうに微笑みながら聞いていたが、私の問いにズケリと答
えた。
「不倫は私もしていたけれど、オイシイ所だけ食べられるってことよ。だって、
そうでしょう? 家事とか育児とか好きな人もいるけれど、だいだ嫌なことで
しょ。そういうことは相手の奥さんが引き受けてくれて、楽しいことだけ、自
分を愛してくれているって実感できることだけさせてくれるのだから、不幸な
んてことは全くないわ。」
アッパレである。こういうビッチと会話をしていると、脳細胞が描くイメー
ジに浮き橋を架けて生きるよすがとしている自分を哄笑したくなる。私の心象
は乾きに乾いて砂漠の夜を月が皓々と照らす。私はナトリさんの家を辞し、帰
路に就いた。
その後、しばらくクールに過ごせたが、また、私は落ち込んでいった。私の
心は乾くことではなく、濡れることを欲していた。
そして、二週間ほど経ち、過去の事情を承知している友人のHに電話して、
翌日会うアポを取った。かれの仕事が忙しい時期なので無理につきあわせるの
を控えていたが、私も悠長に構えていられなくなっていた。
その夜、私は救済の夢を見た。
素裸の上條が身体を丸めて泣いている。そんな彼女を私はハグをしながら添
い寝をしている。私の周囲を、入院した父を見舞うために訪れるようになった
姉たちや従兄弟たちが取り巻いている。その中には鬼籍に入った母もいる。
私は夢の中で涙を流して泣いていた。
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