#4001/7701 連載
★タイトル (GSC ) 95/ 1/26 6:39 ( 44)
随想 〈なんまんだぶつ〉
★内容
『存在すること』の意義について、私は時折考える。
自分自身は勿論のこと、宇宙・地球・人間・病原微生物……、全ての『もの』につ
いて、存在することの意義が、「ある」と思えばあるし、「ない」と思えばない。
私など死んでしまえば『無』に帰るし、太陽も地球も何億年か後には消えて無くな
ってしまう。病原微生物の短い寿命も、地球の何百億年の寿命も、宇宙から見れば大
差はない。
しかし当面、私は2時間後には出勤して、好むと好まざるとに関わらず、勤めを果
たさねばならぬ。自分の仕事に意義を求めつつ、自分なりには一生懸命やって来たつ
もりでも、それが本当に良かったのかどうか疑問であり、現に、努力する割には成果
が上がらないし、私の意見と他人の意見はしばしば正反対になる。
「自分の生きたいように生き、それでいて、他人の迷惑にならないようにする。」
などということは、人間社会において実現不可能であるから、「石になりたい」とか、
「樹が羨ましい」などと思ってみても、それはそれだけのことである。
先ほど早朝のラジオ番組で、『癌告知』に関する講話があった。
「癌を本人に知らせることは、死を宣告するのと同じである。」
「癌であることを本人に告げるからには、本人と一緒に苦しむつもりでなければい
けない。」
「けれども、何人かの人は、癌と聞かされてから、むしろ元気に明るくなる。」
「いずれは死なねばならないが、今は生きている、と実感することにより、残りの
人生を有意義に平穏に過ごしたいと考えるようになるものである。」
「………」
そのラジオを聞きながら、私は突然「南無阿弥陀仏」とつぶやいて両手を合わせた。
すると今までにないほど心が落ちつき、気持ちが楽になった。
けれどもそれはほんの一瞬だけである。
そこでもう一度「南無阿弥陀仏」と唱えてみると、心が安らかになる。
「なるほど、こういうことだったのか!」
私の子供の頃、よく近所のおばあさんが念仏を唱えていた。肺結核で早死にした私
の母親も、時々「なんまんだぶつ」と口の中で言っていた。
自分の力でどうにもできない時、考えても解決が付かない時、苦しい時、悲しい時
…、念仏を唱えて救われた人々が何人もいたのである。
「南無阿弥陀仏を唱えさえすれば、誰でも極楽へ行ける。」と言う法然上人や親鸞
上人の言葉を、私は今までほとんど信じていなかった。
ところが今日だけかも知れないが、ふと、ほんの一瞬だけ、気分が楽になった。
年齢のせいと言われればそれまでである。私も昔は「年寄りくさい」と思ったもの
である。
「南無阿弥陀仏」と言うよりも、私には「なんまんだぶつ」と唱える方が自然な感
じがするので、何度も手を合わせながら、「なんまんだぶつ なんまんだぶつ なん
まんだぶつ なんまんだぶつ」と繰り返してみた。
OAK