#997/1336 短編
★タイトル (NKG ) 98/ 2/11 17:49 (160)
報復 柊 瑠兎奈
★内容
外気にさらされた白い乳房をこねまわすように乱暴に扱う男の手。そして、興奮
した鼻息とともに肌を舐め回すまるでナメクジのような舌。
不快感を感じていたのは最初のうちだけ。感覚はだんだんと麻痺してくる。この
まま冷たい肉の塊と化してしまうのか、それとも魂の抜けた人形のようになってし
まうのか。奈江は、虚空を見つめながらぼんやりと考えていた。
事の起こりは、数日前の会社での出来事である。その部署では有名なセクハラ上
司が、いつものごとく奈江や同僚にちょっかいをかけてきた。それは日常茶飯事、
いくら注意しても聞く耳を持とうとしないので、彼女たちは哀れんでやることでそ
の上司の行為を我慢していた。しょせん、その程度の事しかできないようなチンケ
なオヤジなんだと。
でも、その日は新入社員が初めて彼女らの部署に配属されるという事で、何人か
の初々しい女性社員がやってきた。女には目ざといセクハラ上司は、まるで上役の
特権かのように女性社員たちの身体を触ったり、失礼な質問をして赤面させたりし
たのだった。
奈江はセクハラ上司が後輩たちまで餌食にすることが許せなかった。彼女はいき
り立って、上司に平手打ちを喰らわせた。そして、後輩たちの目の前で自分よりも
上の身分である者を叱りつけた。思えばこの時の彼女自身の言い方がまずかったの
かもしれない。この日を境に上司としての威厳はなくなり果て、新入社員にまで馬
鹿にされるようになったのだから。
それは、言い方を変えれば逆恨みされてもしょうがない状況にあった。だから、
彼女は気をつけるべきだった。追いつめられたセクハラ上司がどんな行動に出るか
を。
たぶん計画的犯行だろう。その日、上司は残業で残ると言っていた。彼女は、先
に会社を出たはずだった。
だが、夜道で後ろを付けてくる男があのセクハラ上司だと気づいたのは、後ろか
らふいに羽交い締めにされて、その声を聞いた時だった。
「よくも私に恥をかかせてくれたな」
被害妄想の強い人間は、自分の事しか考えない。自分が他人に何をやったかなど
という記憶など、自分自身の中で消し去ってしまう。もし覚えていたとしても、そ
れを思い出すことすらしないのだ。
奈江は抵抗する間もなく、薬品を香がされて眠りにおちていった。
不快感で目が覚めた時には、両手は縛られ、さらけ出された肌の上を汚らしい舌
が這いずり回っていた。
彼女は泣き喚いて抵抗した。だが、上司はそんな彼女を見て嗤った。その顔には
歪んだ感情が表れていた。
そして、まるで野獣のように衣服を引き裂き、潰れんばかりに乳房を鷲掴みにす
る。
痛みと恐怖とあらゆる不快な感覚が奈江の中に一気に流れ込んできた。なんで自
分がこんな目に遭わなくてはいけないのか? そんな自問することですら、恐怖で
混乱した頭には何も考えられなくなっていく。
もう上に覆い被さってくる男が、彼女の上司であるということばかりか、人間な
のかさえもわからなくなっていた。そこにあるのは気色の悪い一つの生物でしかな
い。
胃の中のものが逆流してきそうな、こみ上げてくる気持ち悪さを彼女は必死に抑
えていた。いや、本来なら我慢などしてもしょうがない状況だ。だが、彼女の中に
残ったわずかな躊躇いが、この場で醜態を見せることを制御していたのだった。
ぷつりと何かが彼女の中で途切れる。それは、魂を繋ぐ糸かそれとも張りつめて
いた感覚か。
ぼんやりと虚空を見つめながら、だんだんと感覚が麻痺してくるのを彼女は認識
していた。
不快感は薄れていく。しかし、心だけ肉体からどんどんと引き離されているよう
な感覚もあった。
奈江の視線が覆い被さっている生物へと向けられる。それは、まるで他人事のよ
うに彼女の頭の中へ今の状況を映し出していた。
肉体を弄ぶ醜悪な生物。本能に支配され、人間としての誇りを捨て去った哀れな
姿。
自らの快楽を押しつけ、コミュニケーションをとる方法さえ知らない有機物。い
や、まだ下等な生物だって同族とのコミュニケーションはきちんととっている。今、
彼女の上に存在するものは、それ以下のものでしかない。
哀れむどころか、その存在すら認めてはいけないものかもしれない。
そして、それに脅かされる彼女の肉体こそ哀れむに相応しいものなのだ。
だが、彼女にはこの上の物体を排除する力はない。されるがままに、無駄でもっ
とも愚かな時間を過ごさなくてはならない。それは同時に、彼女の彼女としての機
能を失わせる結果になるかもしれないだろう。
このまま冷たい肉の塊になってしまうのか、それとも心だけ抜け去って奈江とい
う形をしたただの人形になってしまうのか。どちらにせよ、絶望に等しい未来が待っ
ているのだろう。
「ホラ、オキアガレ!」
物体が言葉を発する。一瞬だけ奈江は解放されるが、上半身だけ起こされると再
び身体が支配される。髪の毛を掴まれ前へと引っ張られた。口元に生温かい肉棒が
触れる。
鼻を突くようなすえた臭い。
「クワエロ」
また物体は言葉を発した。何を喋っているかわからなかった。
彼女は虚ろな瞳で上を見る。
「クワエロッテ、イッテルダロ!」
物体の顔と呼ばれる部分から、唾液が霧状に降ってくる。
とても滑稽かもしれない。人に命令していい気になっている愚かな物体。人間で
あることを放棄したコレには他人の感情すら理解できないのだから。
奈江はくすりと嗤った。
そう、とても馬鹿馬鹿しいから。
「ナニガオカシイ?」
言葉なんか無視して彼女は笑い続けた。それは、この物体が滑稽だったからだけ
ではない。こんな塵芥な存在に自分の運命が左右されることにも、馬鹿臭さを感じ
たからであった。
「アホらし」
奈江は嘲笑を上へと向けた。その瞬間、彼女の頬に平手が当たる。
「ワタシヲミテワラウナ!」
また何か喋っている。もし、この物体がこれからもこの人間社会で存在し続けよ
うとするならば、コミュニケーションというものを教えてやらなくてはいけないの
かもしれない。でも、自分で教えるのだけは勘弁してもらいたい、そう彼女は思っ
た。
「存在価値ってのは自分で見つけるものだけどね。最初から意味のない存在は、消
えるべきよ。それが社会のためだから」
再び平手が当たる。
「トリケセ! イマイッタコトバヲトリケセ!」
彼女の顔から笑みが消えた。所詮、脳の回路がイカレた物体である。これ以上相
手にしてると、不快感が再び甦ってきてしまう。
「チクショウ! コンナトコデモバカニシヤガッテ」
もう一回彼女の頬に平手が当たり、鼻の奥の方が熱くなる。
つつっと右の鼻孔から液体が垂れる感覚がする。
「ハハハ。ザマァナイナ」
顎を掴まれ顔が近づいてくる。歪んだ笑い。鼻血の垂れた奈江の顔を見て嗤って
いるのだろう。でも、そんな事でしか笑えないなんて最低だ。
「サア、クワエロ。イタイメニアイタクナカッタラ、イウトオリニシロ!」
肉棒が頬にぶつかる。先ほどより少し萎えてしまったのだろうか、ぐにゅぐにゅ
と弱々しく撓っていた。
奈江は最後の抵抗を試みる。歯を食いしばり口におもいっきり力を入れて固く閉
じる。肉棒の侵入は許さない。それが、彼女の唯一の限度ライン。このまま死ぬに
せよ、すべてこの物体の思うがままの状態にはさせない。こんな無意味な存在に彼
女は屈したくなかった。
「ムダナテイコウハヤメロ」
彼女の鼻孔を片手で塞ぎ、もう一方の手で軽く首を締めてくる。
息が出来なくなり、歯だけ閉じて口元を少し開ける。それでも呼吸ができず、思
わず口を大きく開けてしまう。
にゅるりと口の中へと何かが突っ込まれる。喉の奥が詰まる。呼吸が苦しくなる。
「バカナオンナダ」
肉棒はだんだんと膨張し固くなってくる。それと同時に前後へと彼女の頭を髪の
毛を掴んだ手が揺らす。
脳は味覚からの信号を拒否し、思考能力を低下させる。それは、彼女自身の身体
の持つ防衛本能なのか。
心だけは再び不快感の底へと沈められていく。なんで私だけがこんな目に遭わな
ければ? そんな問いとともに。
「オ、オ、オ、オ、オ」
なんともいえない声が物体の口からこぼれる。獣でも、もう少し愛らしい鳴き声
をするものだ。
感覚の麻痺は続いている。だから、どうにか狂わずにいられる。でも、いっそ狂っ
てしまった方が楽なのだろうか。
−なんでこんな物くわえているんだろ?
発狂寸前の思考回路がぼんやりとそう考え出す。
−こんなこと馬鹿らしいよね?
正常な思考が問いかけてくる。
−………………ばいいじゃん。
彼女の中の何かがそう言った。
−………ちゃえばいいじゃん。
それはとても単純なことだった。
−喰いちぎっちゃえばいいじゃん。
目の前にいる物体は意味のない存在。だから……。
「ウグゥ……グ」
その物体は吠えた。そして地面に血の海を作りながらのたうち回る。
奈江はすぐにその忌々しい肉棒を吐き捨てた。そして、人間とは思えない悲鳴を
あげてもだえ苦しむ物体に視線を向ける。
「大丈夫。救急車は呼んであげる。それから、今日のことは告訴しないであげる。
でもね、今度私の前に現れたらただじゃ済まないからね。そのことはよーく覚えて
おいて!」
物体は何も答えない。いや、答えられないのだろう。彼女は嗤った。
奈江は地面に投げ捨てられた物体が着ていたコートを拾うと、その内ポケットか
らサイフを抜き出す。
「これは、私の服代、それからこれは慰謝料。全部はとらないから」
そう言って、一万円札を数枚抜き取ってサイフを元に戻す。
「まったく……これじゃ、しばらくはソーセージが気持ち悪くて食えやしない」
彼女は独り言のようにそう呟くと、投げ捨てられた自分のバッグを拾い、その中
から携帯電話を取り出した。
(終)