#976/1336 短編
★タイトル (PRN ) 98/ 1/ 4 18:17 (178)
伏線 已岬佳恭(ジョッシュ)
★内容
車は海岸沿いの長い直線道路にはいった。
車の数は多いが、まずまずのスピードで流れている。
「案外、空いていそうね、よかったわ」
運転するぼくのとなりから志津子が話しかける。ぼくは黙って頷き返し、車を
走らせる。左手に見える海は、冬らしい暗く深い藍色の中のところどころに白い
波を立てていた。波間に黒いウェットスーツ姿のサーファーたちが浮いている。
彼らもそろそろ帰り支度にはいるのだろう。砂浜に停めてある大きなワゴン車の
周囲にも同じような黒い影が集まっていた。
それらを横目に見ながら、ぼくは車を走らせる。
ぼくが志津子と週末にこうして会うようになって、そろそろ半年になろうとし
ていた。だいたいぼくの車で岬まで出かける。志津子が弁当を作ってきて、それ
を二人で食べる。そしてお互いの共通の話題であるミステリの話をする。最近読
んだ本や好きな作家のことなどだ。そして夕暮れになると帰る。そんなことを繰
り返している。それ以上の進展はない。まだ手も握っていなければキスもしてい
ない。
ぼくが悪いのだ。
謎解きミステリが大好きなくせに、ぼくは謎解きのヒントとして作家がわざわ
ざ用意してくれる伏線がまるっきり分からない。それだから名探偵の鮮やかな推
理に、いつも感激する。そして後から「ああそうか」と周到に張り巡らされた伏
線に気づくという案配。
それは実生活でもそうだった。
高校3年の冬だった。付き合っていた同級生の女の子に家に呼ばれたことがあ
った。彼女はわざわざぼくに「今日は家族が旅行でいないのよ」と説明した。そ
れは確かに伏線だったのだろう。学校帰りに立ち寄ったぼくは、彼女の部屋に案
内された。彼女のシングルベッドにならんで腰を下ろし、彼女の小さい頃からの
写真を並べたアルバムを見た。紅茶を飲んだ。それで帰ってきた。翌日から彼女
はしばらく口をきいてくれなかった。
ぼくは志津子に夢中だ。
志津子に見つめられると、体の一部が溶け出すような感覚に襲われることがあ
る。体のどこかがじーんとして、触れたこともない志津子の体が急に匂いを持っ
てぼくを包み込む。志津子に見つめられるとぼくは夢見心地だ。日常が遠くへと
押しやられ、目の前の志津子だけがぼくの視野に広がる。そうして志津子と会う
度に、ぼくの気持ちは志津子にのめり込んでゆくのだ。
でもぼくは不満だった。精神的には志津子に包まれることができるのに、現実
には志津子には指一本触れたことがないのだ。そう思った途端に志津子は遠い存
在になった。ぼくは至福の絶頂から冷たい現実に突き落とされる。
志津子に届きたい。志津子に触れたい。
でも今日も何事もないまま、僕らは帰路に就いていた。
二人の間にこれといった進展はないが、志津子は週末ごとに出かけてきてくれ
た。ぼくといっしょにいて楽しそうに見える。志津子もまんざらではないのだと
思う。そしてぼくよりも伏線を読むのが上手だ。
ミステリ小説を読んでも、名探偵が謎解きする前に志津子は自分なりの回答を
用意する。伏線に注意して、推理を組み立てる。そして「当たった」とか「外れ
た」とか言っている。その点ではぼくよりもずっとミステリを理解していた。ぼ
くはそんな読み方ができない。
だからきっと、ぼくに対してもいろんな伏線を張り巡らせているに違いない。
ぼくがそれに気づかないだけなのだろう。早いところ気づかないと、あの高校3
年の時の女の子みたいな思いをさせてしまうのではないか。
そう思うとぼくは焦る。
「なによ、黙りこんじゃって」
志津子がぼくの肩を叩く。
今日は帰り道を幹線道路にした。岬からの帰り道、いつもは混雑を避けて裏道
から裏道へと抜けて帰る。これが一番早いし、いらいらしなくてすむ。ただ途中
には何もない。何しろ田圃と住宅街を抜けてゆく狭い道なのだ。走り抜けて、志
津子のアパートの前でさよならだ。そんなことではつまらない。
それで今日は幹線道路にした。途中にレストランは幾つでも並んでるし、カラ
オケボックスもある。ホテルのサインもたくさん並んでいた。具体的な手はずは
なかったが、漠然とした期待だけはあった。
「ねえ、あれを見て」
志津子がすっとんきょうな声を出した。
ちょうど左側が大きなコンテナヤードになっていて、道路沿いに背丈ほどのフ
ェンスが続いている。志津子は顔をぼくに近づけると、進行方向の左手を指した。
ぼくの注意を引くためにやったのだろうが、ほのかな化粧水の匂いが胸を騒がせ
る。
志津子が指したもの、それはすぐに分かった。
前方の路側帯で自動車が倒立のような格好になっていた。どうやら頭から突っ
込んだらしい。車体は前部が地面にのめり込み、後輪は空に浮いている。
「あれあれ、どうしたんだろ」
ぼくは単純に驚いた。車内に人影はない。どうやら運転手はどこかへ行ってし
まったようだ。車体は完全に道路から飛び出してしまっていて、交通の妨げには
なっていない。しかし見物してゆくのだろう、車列の速度が急に落ちてきた。
「昨日からの雨で、ちょうどあそこはぬかるんでいるのね。あの車、見事に地面
にもぐりこんでいるわ。ねえ、どう思う?」
志津子がぼくの耳のすぐそばで、楽しそうに話しかける。
「ハンドルを切り損ねたんだろ。ひどいもんだ」
志津子が鼻をならした。ぼくのコメントが不満らしい。
「ミステリ好きにしてはずいぶん簡単な感想ね。もう少し観察したら、あの車が
何をやろうとしていたか、分かるわ」
「なにをやろうとしていたか、だって?」
「ええ、そうよ。ほら見てごらんなさい。あの車、ナンバープレートがないわ」
言われてみるとその通りだった。浮きあがった車の後部バンパー辺りにはナン
バープレートを取り付けるスペースだけがぽっかりと目立つ。
「新車でもなさそうなのに、ナンバープレートの取り付け板だけがぴかぴかね。
ということは、ナンバープレートを取り外してからまだ時間が経っていないとい
うことになる」
「なるほど。確かにそうだ」
ぼくは相槌を打った。あらためて事故車を観察する。車が詰まってきていて、
のろのろ運転になっていた。
「あの車は捨てられたんだね。事故を起こしてしまったので、運転していた人が
ナンバープレートだけ取り外して逃げた」
ぼくなりの推理を述べた。
「違うわ。もっと事情は複雑ね」
あっけなく志津子から否定されてしまった。志津子はミステリ小説の途中で
「犯人が分かったわ」と叫ぶときがあったが、その時の感じによく似ていた。
「あれは海外へ密輸される車ね」
ぼくは思わず志津子の顔を見た。とんでもないことを言う。
「危ないから、ちゃんと前を見て運転してよ」
驚いたぼくに志津子は微笑みかける。
「わかってるよ。それにしても密輸車とはすごい推理だなあ」
それまでのもやもやを忘れて、ぼくは正直に言った。
「間違いないと思うな。まず、ナンバープレートだけど、普通はナンバープレー
トって車の前にもついてるでしょう。もし事故した後に運転手がプレートを外し
たのなら、後ろだけじゃなくて前のプレートも外していかなくっちゃね。だけど
あの状態、前が地面にのめり込んだ状態では前についているナンバープレートを
取り外せると思う?」
「無理だね」ぼくはあっさりと認める。
「そうでしょう。そうすると後ろだけナンバープレートを外すというのは合理的
じゃないわ。あのナンバープレートはあらかじめ外されていたと考えるべきね。
それに車の持ち主を特定できるのは、なにもナンバープレートには限らないわ。
車体番号とかエンジン番号とかもあるし。たぶん、それらもちゃんと消してある
と思うけど。調べてみる?」
「いや結構」
「そう。それから車の回りの地面に注意して。ほら、車の近くに足跡が見当たら
ないでしょ。雨で緩くなった地面に足跡がないということは、どういうことだか
分かる?」
ぼくは首をねじって地面を見た。志津子の言うとおりだった。足跡がない。そ
の代わり、杭でも打ったような四角い穴が車から数メートル離れたところに見つ
かった。
「あら、いいところに気づいたね。うふふ、それじゃあ、まず足跡の件ね。足跡
がないということは、あの車から降りた人はいないということ。つまり、最初か
らあの車には誰も乗っていなかった」
「誰も乗っていなかったって。それじゃ、いったい誰が運転してきたんだ。幽霊
かい」
「いいえ、誰も運転してこなかったのよ。それにさ、普通に道路を運転してきて、
あんな形で地面に突っ込めるかしら。ここは落差のない平坦な道よ。不自然だわ。
あの車は落ちたのよ」
「落ちたって・・・」
「うん。あの四角い深い穴。あれが謎を解く鍵ね。あれはクレーン車の足の跡よ。
クレーン車はクレーンを伸ばすと重量がアンバランスになるので、4本の足のよ
うな支えを伸ばして地面に突っ張るのね。その時にできた穴。クレーン車で車を
吊り上げて、道路側から金網の向こうに移していた。金網の向こうは貨物用のコ
ンテナヤードでしょ。でも手違いが起きた。その時に1台落としてしまったのね。
クレーンに吊り上げられ、そして落ちたからあんなに地面にのめり込んだのよ。
もちろんこんな所から車を金網越しに中へ入れるなんて尋常じゃないわ。まず間
違いなく違法輸出、つまり密輸ね。だけど落としてしまった車はキズ物。そのま
ま輸出もできないし、だからといって持ち帰っても仕方がない。それでそのまま
放置された。そんなところかな」
「なるほどねえ」
ぼくは感心したきり声もない。ミステリに関しては志津子の方がずっと頭の回
転は速い。
「ねえ、実際に確かめてみない?」
志津子の口調が変わった。いたずらっぽい響きがある。
「確かめるって、何を」
ぼくには志津子の意味することが分からない。まるで名探偵のそばに必ず登場
する善良な引き立て役のようだ。
「だから、あのコンテナヤードの中味。わたしの推理が当たっているかどうか知
りたいわ」
またまた志津子はとんでもないことを言う。ぼくは困ってしまった。
「密輸犯たちが作業をするのは夜中ね。昼間はこんなに車の通りがあるから無理
だわ」
歌うように志津子は喋る。
「おいおい、まさか夜までここで見張っていようというんじゃないだろう」
そう言ったぼくを志津子が黙って見返した。その目に何かを感じて、ぼくは口
をつぐむ。行く手左前方に「左手、ホテル・休憩3000円」の赤いサインが見
える。ぼくは急いで頭を整理した。
「それじゃあ、あそこで事情聴取をしてみるというのはどうだい。ひょっとした
ら、昨日の夜、誰かが密輸犯たちの作業を目撃しているかもしれないし」
はたして志津子がにこりとした。
「それは良いアイデアだわ」
渋滞の中、ぼくは車をゆっくり走らせる。
曲がり角の赤い看板が近づいてくる。
それにしても志津子の推理は見事だった。そしてその後の伏線も。ぼくはやっ
との事でその伏線に気づくことができた。
バックミラーに先ほどの倒立した車が写っている。こちら側の車体には、大き
な文字が見えた。「格安ガソリン」と読める。
そうか、反対側からくる車へのガソリンスタンドの宣伝だったのだ。あれなら
目を引くだろう。
きっと志津子もバックミラーを見ている。でも気づかないふりをして、ぼくは
ハンドルを左に切った・・・。
<伏線−−了>