#931/1336 短編
★タイトル (RJN ) 97/10/30 17:11 (128)
お題>幽霊>非常階段(下) ルー
★内容
よく眠れない日が続いて苦しかった大野も、医者からもらった薬のおかげで症状も
収まり、いつもどおり勤務していた。
11月も半ばに入り、樹木も大部分落葉していた。
外来の客足が途絶えると、彼は病院内の巡回を始めた。6階の非常階段に来て、不
安を感じるのはいつものことだ。大丈夫だ、今日も異常なし。
ドアのノブに手をかけて鍵を回した。カシャンと音がしてきれいに鍵が降りた。ず
いぶん鍵の滑りがいい。誰か油でも差したんだろうか。油を差すような人間は自分し
かいないことをわかっていながら、大野はわざとそんなことを考えた。
ドアが止まるまで目一杯に開く。目の前に非常階段のテラスがある。心臓が輪をか
けて早く打つ。足を一歩踏み出す。手すりをぎゅっと握りしめる。手のひらにはびっ
しょり汗をかいている。もう一歩踏み出す。手すりから手を離さないように注意して
手を移動させる。前よりさらに強く握りしめる。足を踏ん張って落ちないように気を
つける。まるで絞首台にでも向かうようだ、大野はつらさを噛みしめた。その時、彼
は無性に飛び降りたいという衝動に駆られた。すーっと自然に体が浮いて、手すりの
上を乗り越えてしまうような気がした。
頭がぐらぐらした。大野はしゃがみこんで大きな息を何回も吐いていた。
とにかく、こうしていれば落ちない。
いつのまにか周囲には霧が立ちこめていた。静かだった。動悸が抑まるまで、大野
は一人でしゃがんでいた。
誰かが、下から大きな声で叫んでいる、そんな気がした。
まさか。空耳だ。いまごろ大声を出すヤツなんているわけがない。それに1階から
6階の非常階段までなんて聞こえるはずがない。
彼は耳をそばだてた。風向きが変わったのか、霧が横に北から南に流れはじめた。
声が聞こえた。
「お・・い」
「お・・い」
男の声らしかった。
最初幽かだったその声は、だんだんとはっきりした言葉に変わっていた。
「おーーい!」
「おーーい!」
「おーーーい!」
「おーーい!」
「おーーい!」
抑揚のない、不作法とも思えるほど粗野な声が叫んでいた。
「おーーーい!」
「おーーーい!」
声は、途絶える気配がなかった。単調で、耳をつんざくような絶叫が非常階段にこだ
ました。
「もう、やめてくれ!」
彼は、たまらなくなって膝に顔を埋めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
大野は震えながらまた非常階段に立っていた。二度と来たくはなかったが、仕方が
なかった。
下の方から声が聞こえた。はっきりとヴィヴラートを帯びた凄みのある声音で叫ん
でいた。
「大地震が来るぞゥ。崩れるぞゥ。みんな死ぬぞゥ。逃げろゥ、逃げろゥ!」
「火事だァ。火事だァ。火が来るぞゥ。煙に巻かれるぞゥ。おまえだけ逃げろゥ。こ
こから逃げろゥ!」
大野は驚いて言った。
「馬鹿な!俺一人で逃げられるものか。病院にいるみんなに知らせなければ。みんな
も逃がさなければ。」
「その、みんなとは誰だ。おまえは病院の人間から一度でも親切にされたことがある
のか。逃げろゥ。逃げろゥ。火の手がまわるぞ。病院が崩れるぞ。おまえだけ逃げろ
ゥ。ここから降りて逃げろゥ!」
ゴゴーッと地響きがしたかと思うと同時に、人々の悲鳴が一斉に聞こえた。バリバ
リというものすごい音とともに、一歩遅れて遠くで大きな爆発音が起こった。また、
前より一層怯えた悲鳴が耳に届いた。どす黒い煙が目の前を遮った。
ああ、本当に非常事態が起こったんだ。病院が崩れるんだ。みんな死ぬんだ。大野
は経験したことのない恐怖に憑かれた。死にたくない、死にたくないよう、かあちゃ
ん助けてくれよう。
裏手にある窓が一度に音を立てて壊れ、そこから炎が吹き出した。大野はガタガタ
震えだした。それなのに、誰も非常階段に避難しない。大野が身動きできないで立ち
すくしている非常階段に、誰も、来ない。
「おーーーい!」
「おーーーい!」
「おーーーい!」
「おーーーい!」
大野は病室に向かって声を張りあげた。それしか言葉にならなかった。
「おーーーい!」
誰か来てくれよう、お願いだから。そしたら、一緒に逃げよう。大野は涙声になって
必死に叫んでいた。
足下がぐらりと揺れた。地鳴りの音が腹にひびいた。余震が来る。病院は幾筋かの
火柱と黒煙が上がっていた。もう躊躇している余裕はなかった。
大野は渾身の力と最大限の勇気を振り絞って、かつて2歩しか足を踏み入れたこと
のない非常階段に、初めて3歩目の足を進めた。
しかし、その足は宙に滑って、大野はまっすぐ非常階段を転がり落ちた。階段の曲
がっているところで手すりを乗り越え、大野の体は放り出されてはるか下に落ちてい
った。
「大野サン、大野サン・・・・」
筋張った手が、肩を掴んでぐいぐい揺すっているのに気が付いて、大野は目を覚まし
た。ぼんやりとした目をこすると茶髪の正チャンの顔が見えた。
「大丈夫スカ、大野サン。気持ちよく昼寝してるかと思ったら、ずいぶんうなされて
たから。」
大野はのろのろと起きあがった。
「そんなにうなされていたかい。」
「うん、なんかすごく苦しそうだった。変な夢でもみたの。」
「ああ・・・、夢でよかったよ・・・・」
正チャンが、わざと茶目っ気のある表情を作って言った。
「しっかりしてよ、大野サン。自殺でもしそうな顔してるじゃないスか。」
「ああ、ひどい夢だったな・・・・」
「大野サンてば。今日は冷えてきたから、帰りに赤チョーチンに行って一杯やらない
すか。あったまるよ。たまにはいいっす、飲めなくても。つきあってくださいよ。」
つきあってくれるのは本当は正チャンの方なのだろう、とは言えなかった。
「いいな、つきあうよ。」
「よっ!いいねえ。はじめてっすね、大野サンと飲みに行くの。」
自分は何者で、自分の相棒のこの若者のことをいままでいったいどのくらい考えてや
っていたのだろうか、と大野は思った。
「なあ、正チャン・・・・」
「ん?なに、大野サン。」
「もし病院が、火事とか地震とかになってな、あの非常階段しか逃げ道がないときは
一緒に逃げようなあ・・・・・」
「やだなァ、いきなり。なに言ってんですよウ。あったり前でしょ、そんなこと。」
「うん、そうだな。当たり前だな、当たり前のことだよな。」
大野は、うなだれた肩はそのままで、気分を変えようとして顔を上げた。だが、止め
どなく涙が溢れてくるのを抑えることができなかった。
「大野サン、どうしたの・・・・・」
「大野サンてば・・・・・」
正チャンの声が、遠くで優しく聞こえた。
その涙が、希望の涙なのか、絶望の涙なのか大野自身にもわからなかった。
・・・・・・・・了 by ルー rjn08600
1997,10,30