#930/1336 短編
★タイトル (RJN ) 97/10/30 17: 8 (135)
お題>幽霊>非常階段(上) ルー
★内容
お題>幽霊>非常階段
「非常階段」
大野幸雄は、S市にあるM総合病院の守衛兼ボイラー技師をしていた。これといっ
た取り柄もなく、子供の頃からいるのかいないのかわからないほど目立たない風貌と
性格をしていた。自分の将来に対する積極的な希望もなく、人並みにほどほど学業を
修めてから、縁もゆかりもなかったが、郷里から遠く離れたM総合病院にたまたま採
用されたのがきっかけで、この街にやってきた。
女遊びもしなければ、酒も賭事もやらない。かといって謹厳居士ではない。彼は無
駄な労力を惜しんでいただけだ。娯楽や知的好奇心というものは、創造力を必要とす
るので自分には無縁なものだと決めてかかっていた。唯一の趣味といえば、近所の貧
弱な釣り堀に行って鮒の類を釣ることぐらいだった。
しかし、守衛という仕事には彼のような性格が幸いした。M総合病院は、そのあた
りでも屈指の大病院で、就職した頃は途方もない規模に呆然としたものだが、30年
も経てば手に取るようにどこになにがあるかわかる。彼の仕事ぶりは、長年の経験に
より無駄なところは削ぎ落とされ、効率を最優先にしながら万一に備える手順は、モ
ザイク模様の伝統工芸品だった。
「おまえなあ、そんな風に巡回したってアナだらけだろうが。」
大野は人に手を出したことがないが、口調は厳しい。
「すんませぇん。」
小泉が頭をかく。
相棒の小泉正一が病院に来たばかりの頃は、よく頭ごなしに叱った。
小泉は、髪をはやりの茶髪に染めた、普段の服装ももうひとつ締まりのない若者だ
ったが、それでもまっとうに仕事には出てきていた。大野の注意も素直に聞く。それ
が取り柄だった。だから、大野も「正チャン」と呼び、小泉も「大野サン」と呼んで
親しく話しをするようになった。
しかし、定年を間近に控えた大野が口に出すのは、再就職の愚痴になりがちだった
。
「なあ、正チャン。55歳で定年ですからお払い箱っていってもよ。こちとら息子と
娘はまだ学生で、親のすねかじりだっていうのにさ。冷たいねえ。俺はこの仕事しか
してこなかったし、いまさらどこかのビルの管理人といってもなあ。」
「それなら、まだいいほうじゃないすか。でも、ここらに大きいビルって言ったら、
この病院ぐらいなもんだし、捜すんならもっと大きな街でないと。通うのたいへんス
よね。」
「なんぎだなあ。」
「まだ老け込む歳じゃないデショ。退職金たんまりもらって、遊んだら。」
「馬鹿言え。家のローンがまだ残ってるんだ。それに年金は65歳まででないし、そ
のあいだ、どうやって暮らせっていうんだよ。」
「ままっ、年金もらえるまで長生きしないとね。あ、こんどの出番替わってもらえま
すっ?オレ、久しぶりにロック・コンサートに行くんですよ。嫁さんに頼んでね。赤
ん坊、世話手伝えないけどゴメン、ゴメン、て。たまにだから。」
「あんな騒々しい音のどこがいいんだ?いつも車で聴いてるヤツだろ。俺なら、なに
もないからいいけど。」
「恩にきます!ストレス発散ですよう、発散。」
夕方、外来の客が引けると、大野は外回りに異状がないか点検しながら、病院内を
戸締まりして回る。毎日変わることなく、持ち前のきめの細かさと実直さで丹念に仕
事をこなしていく。目の付け所も心得たものだった。
どこの小窓が開いたままになっているか、どこのドアがどんな癖があって、どこの
階段が滑りやすいか、見なくてもわかる。他の人間なら絶対閉められないドアを、大
野は難無く鍵をかけてしまう。トイレの水の出が悪いとか、廊下の板が剥がれてきた
とか、戸棚の取っ手が外れかけているといった修理も手慣れたものだった。
そんな大野にも苦手なことがあった。高い所での作業である。子供の頃は苦になら
なかったのに、歳をとるにつれ負担に感じるようになった。もっとも、M総合病院は
6階建てだから、高い所で修繕箇所があったとしても専門の業者に任せてしまう。大
野が無理をして昇る必要はない。
しかし、守衛の仕事で高い所を避けて通れない場所がひとつあった。非常階段であ
る。病院の両端にそれぞれ、1階から6階まで寒々と続く非常階段があった。
非常階段は、日の当たらない病院の裏側に蜘蛛の巣のように張り付いていた。病院
の白い壁も年月のせいか薄汚れていたが、非常階段もあちこち錆びて塗料が剥がれ、
地のどんよりした紫色のペンキよりも黒ずんで見えた。そこを塗り替えようという話
は聞かなかった。誰もが非常階段など眼中にない。それは日常で使用することを意識
されるべきものでなく、あるかもしれない事態に備えて見放されている物体だった。
雨や風に晒されながら、他のどんなものよりも顧みられはしなかった。
大野と小泉は巡回を分担していた。病院の東側は小泉が、西側は大野が回るのであ
る。それは巡回を能率的に進める良い方法だった。
巡回は、夕方のまだ陽のあるうちに下の様々な施設、駐車場や物置や倉庫、ボイラ
ー室や電気、水道関係の設備を点検してから屋上へ上り、6階から1階に順に下って
くるのが通例だった。
屋上は、フェンスに囲まれて高架水槽と小さな物置があるだけで、大野は恐怖を感
じたことはなかった。
問題は6階の非常階段だった。実際に降りるわけではなかったが、もし火事などに
なったとき患者達が安全に逃げられるように、そこはチェックしておくべき場所だっ
た。
大野は6階の非常階段のドアに向かうとき、いつも心臓が早鐘のように打つのを感
じた。仕事だから精一杯平静を装ってはいたが、行きたくないのが本音だった。ドア
の施錠をはずし、外側に開く。すると足場などもろくも崩れそうな、鉄骨の細い手す
りの付いた非常階段が現れる。
大野は緊張で目のくらむ思いをしながら、手すりにしっかり掴まって2歩だけ足を
踏み入れる。非常階段に異状がないことを確かめるのは2歩で充分だ、大野はそう吐
き捨てた。そして、病院の裏側の外回りにも異状がないかどうか一通り見渡す。病院
の壁を裏から見ると、沢山の入院患者がその中で日々を過ごしていたり、お見舞いの
客が訪れたり、外来患者が長い順番待ちをしていることなどが信じられぬほど深閑と
していて味気なかった。
なるべく階段の真ん中に立つようにして、大野は考える。
もし非常事態が起こったとしても、大勢いる患者達をここに誘導して安全に避難さ
せることが果たして可能だろうかと。ここから降りろということなど、新たな死の口
実を設けているにすぎないと思った。
険しい勾配をした階段の隙間から、下に駐車している車が何台か見えた。
10月も下旬近くになって、唐突に真冬並の寒波が襲ってきた。
遅番で出勤した大野は、ボイラーが故障してお湯が出なくなったといって、出し抜
けに事務長の静井からこっぴどく叱られた。静井は最近事務長に就任したばかりで、
なんでも病院の理事長の妾の子だとか、いや親戚だとか、まことしやかな噂もささや
かれていたが、末端で働いている大野には無縁な話だった。キザな柄のブランドもの
のネクタイを締めて、神経質そうな細面の顔立ちをしていた。
「そんなはずないんですがねえ。昨日点検したときは異常なかったし。とにかく、み
てみましょ。」
大野は静井とともにボイラー室に直行した。
大野が操作すると、お湯はすぐに、まだ若い事務長をあざ笑うかのごとく、湯気を立
ててほとばしり出た。
静井は顔を真っ赤にして怒りだした。
「とにかく、いままではちっとも出なかったんです!」
大野を睨み付けて、静井はさらに声を荒立てた。
「あなたの責任ですよ!あなたの!今度からきちんと管理してください。あなたの仕
事でしょっ!こんなこと二度とあったら承知しませんから。」
事務長は、白衣のポケットに手を突っ込んでくるりと背を向けると、靴音も険しく医
局の方に引き返していった。
口べたな大野は、言い訳もできなかった。
ただ、お湯が出たときに大野に向けられた事務長の一瞥が脳裏に焼き付いていた。
年寄りの守衛のくせに。その目ははっきりそう語っていた。
大野は自嘲した。そんなこと、いままで30年もこの病院に勤めてきて、いくらで
もあったじゃないか。いつもいつも、そうだったじゃないか。自分にはこの仕事以外
に何の取り柄もない。職場でも、世間でも、家庭にかえってからさえそう言われ続け
てきたじゃないか。子供じゃあるまいし。
自分にそう言い聞かせても、静井事務長の顔は大野の胸につかえて消えることがな
かった。
それからほどなくして、大野は病院内のある窓口を受診した。