#857/1336 短編
★タイトル (AZA ) 97/ 8/12 1: 2 (164)
お題>ノックの音がした>幻想密室 真壁聖一
★内容
ノックの音がした。
稲葉勇征が歩き出す。
彼が扉を開けるよりも早く、来客−−警部は言った。
「稲葉さん。あんた好みの事件が、また起きましたぜ」
「好みの事件なんて、私にはない」
仏頂面で答えてから、招き入れる。
シンプルであることにこだわった室内に、男が三人。私こと真壁、稲葉、警
部の軽部。洒落た会話でも始まるのなら、まだしも心が浮き立つかもしれない
が、事件の話では、そうもいくまい。
「好みのパズルのタイプならあるがね。犯罪事件はパズルではない」
「固いことを言わずに、素直に聞きなさい。天下の警察が、市井の探偵に助け
を求めてやっているのだから」
「自虐もそこまで行けば、ユーモアになるやもしれませんね」
勝手に座った警部に、稲葉は視線を合わせず皮肉を言うと、その正面に腰を
据えた。
「そうまで仰るなら、早く話してください。どうせ密室でしょう」
「ご名答。私は悟りましたよ。こういう馬鹿げた問題は、警察では扱わず、名
探偵に任せるべきだ、とね。その方が時間も労力も省けて、地球に優しい」
「引き延ばしても、紅茶も何も出ません」
稲葉の言い種に、警部は本気かどうか、ちぇと舌打ちし、ごま塩頭をかいた。
それからの、警部の長い話をまとめると、次のようになる。
死んだのは尾桜恭範、十八歳。S高校の三年で、文系の大学へ進学希望者。
成績は上の下ぐらいか。父親は薬局経営で、それなりに繁盛している。母親は
専業主婦で、他に家族はなし。
S高校では、昨年度末に生徒の行方不明事件が起こっており、いなくなった
のが校内ミスコンテストの一位に輝いた美少女一年生だったこともあって、大
きな騒ぎになったが、結局未解決のままである。そして夏休みのこの時期、新
たな事件発生となってしまった訳だ。
警部担当の事件に戻ろう。
一昨々日の朝九時頃、学校のグラウンド脇にある屋外プール施設内で溺死し
ているのを、部活に出て来た水泳部の生徒数名により発見された。実際に死ん
だのは四日前の夜九時から十一時の間と見られる。
去年、水泳部にさる金持ちの令嬢が入ったおかげで、プール及び関連施設の
改善が行われる運びになったとかで、今年の三月に大幅改装を終えたばかりの
プールは、金網フェンスで囲われている。頑丈なフェンスには、穴一つ開いて
いない。が、乗り越えるのは容易で、実際、夜、こっそりやって来ては、無断
でひと泳ぎしていく者が何人かいたらしい。尾桜もそんな連中の一人だと考え
られた。
「何の不思議があるんです?」
私は思わず、口を差し挟んだ。
「出入り自由の屋外プールで溺死だなんて、道端で殺されたのと変わりない」
「真壁さん、よく聞いてくれなくちゃ困りますぜ」
軽部警部は嬉しそうににやついた。私の今の台詞を、稲葉が言ったとすれば、
もっと喜んでいたに違いない。
「私はね、プール施設内で溺死したと言っただけで、プールの入れ物に尾桜の
死体が浮いてたとは一言も」
「そうでしたか? では、プール施設とは、何なんです?」
「更衣室です。脱衣所かと私が言ったら、『銭湯じゃないんですからっ』と非
難されたよ」
空虚な笑いをする警部に、稲葉が尋ねる。
「その更衣室は、出入り自由だった?」
「そう。水泳部員用と一般生徒用があり、尾桜が死んでたのは後者。普段から
開けっ放しで、利用者が内側から鍵を掛ける。そこが密室状態になっており、
被害者は海パン一丁で濡れたまま、横たわっていたと。あと、空の薬瓶らしき
物が、遺体のそばに転がってましてね。何の薬だったかや、尾桜がその薬を飲
んだかどうかは、調査中でさあ。恐らく、親父の店の棚か倉庫からくすねたん
じゃないかと、当たりを着けてますから、すぐに判明するでしょうな」
「何故、水泳部の部員は、一般生徒用の更衣室を気にしたのかな?」
「いつもはたいてい半開きになっている戸が、ぴたりと閉じていたからだと言
っておりますね。得も言われぬ、違和感を覚えたとか」
「被害者は溺死と言いましたが、肺の水は、プールの水と同じだった?」
「どんぴしゃ、一致してますよ。ついでに言えば、被害者の身体を濡らしてい
たのも、プールの水」
肩と腹を揺すって答える警部。最近、太り始めたようだ。
「常識から言って、被害者はプールで溺れた−−事故か他殺かは別として、そ
う考えるべき。自殺か事故死で処理される状況を壊し、わざわざ更衣室に運び、
密室状態にした理由が問題になる。鍵の仕組み、説明してもらいましょうか」
「単純な閂錠でしてね。横にスライドさせたら、がっちり掛かる。だが、糸を
結び付けてどうこうという方法はできない。扉に隙間がほとんどないし、閂そ
のものが、えらく重たいのだ。手を使わないと、とても動かないほど」
「外から鍵を使っての施錠は、できないのですかね?」
「無理無理。発見者の部員達も、ドアの磨りガラス部分を割って、腕を突っ込
んで解錠していた」
「……まさか、密室状態のままの現場を、誰も見ていないのではないですか?」
稲葉は目を見開き、警部に詰め寄った。警部が鼻で笑った。
「何を仰る、稲葉さん。水泳部の部員達が見ている」
「と、水泳部員達が言っているだけではありませんか?」
「……そりゃあ、そうだが。稲葉さん、もしや、水泳部の連中が怪しいと」
「客観性に欠けると指摘したいだけです」
「警察も馬鹿じゃありませんぞ」
口調を改める軽部警部。居住まいも正した。
「遺体発見に関わった部員の数を、言ってませんでしたな。十人ですよ。十人
が十人、ぐるになって偽証したとでも言いますか」
「可能性は残ります。何しろ、その十人は水泳部というカテゴリーで一括りに
できるのだから。組織としての犯罪であれば、充分にあり得る話でしょう」
「馬鹿馬鹿しい。だったら、密室なんて幻想は捨てて、最初から遺体をプール
に放り込んだままにしておけば、警察も……苦戦するだろう」
「いやいや。私は、水泳部が尾桜を殺害したとは考えていません。そうですね、
十名もいるのなら、誰か心弱き、優しき者が自白する可能性が高いとみて、こ
ちらの想像を述べてみます。
水泳部の部員達は、朝、プールに浮かぶ尾桜の遺体を見つけた。驚いたこと
でしょう。そして、プールに遺体を放置しておけない何らかの理由が、彼らに
はあった。窮余の一策、遺体を引き上げ、更衣室で自殺したと見せかけようと
考え、実行した。密室状態であったと、口裏を合わせたのもそのためです」
「待った待った。分からんことだらけだ」
頭をかきむしる警部。
「更衣室で自殺したように見せかけるなんて、馬鹿げている。被害者は溺死な
んだ、部屋の中で死ねるはずがない」
「部員達は勘違いしたのではないかな。きっと、水面に浮かぶ尾桜の遺体の手
は、薬瓶を握りしめていたのだろう。水泳部員達は、それを見て、尾桜は服毒
して死んだのだと思った」
「ええ?」
「実際は、尾桜は入水自殺するに当たり、自らの身体が動かないよう、睡眠薬
か何かを飲んだのだと思いますね。でも、部員達に分かるはずがない。だから
こそ、部屋の中で死んでいても、おかしくないだろうと考えたんじゃないかな。
現場には、薬瓶も転がしてあったのでしょう?」
「そ、それはそうだが。……そうだ、ふ、服ぐらい、着せてやっても」
「髪の毛が濡れていたんじゃないですか。乾かす時間はないから、着替えさせ
ても、意味がない。そう判断したんでしょう」
「うむ……。じゃあ、尾桜は自殺だと?」
「私の推測では、そうなります。動機までは、推測しかねます」
手を組み合わせた稲葉に、警部は指を突き付けた。
「では、水泳部が、そんな馬鹿げた真似をしでかす理由は? そちらの方も、
何ら推測しかねますでは、困るんですがね」
「行方不明事件が絡んでくるかもしれません」
天井を見つめながら、稲葉はいささか唐突にその単語を持ち出した。
「行方不明事件?」
「年度末−−三月に、S高校の生徒が行方不明になってるんでしょう? 一方、
プールが改築されたのも、三月。改築の規模がどの程度かは知りませんが、ひ
ょっとすると、プールのタイルの張り直しなんてこともしたんじゃないか。そ
う考えると、セメントが大量に使われたはずだ。人一人を塗り込めるぐらい、
充分なほどの」
「行方不明の女生徒を、プールを回収した工務店の店員が殺した? そんな無
茶苦茶な!」
警部は、腹を立てたようにわめき散らす。
「動機は何だ、動機は?」
警部の苛立ちをまるで意に介さず、続ける稲葉。
「殺したのは、工務店の店員などではないだろうね。私の貧困な想像力で語れ
ば、お金持ちのお嬢様なんて、性格が悪いと決まっている。目立ちがり屋のお
嬢様は、ミスコンテストで後塵を拝した仕返しに、陰険にも、ミスに輝いた女
生徒を……なんて筋書きがあったかもしれません」
「……そんな理由で?」
首を振った警部に、稲葉は諭すかのように、訥々と話す。
「あるいは、他に何かあったのかもしれませんがね。まあ、工務店の店員達が
S高校の女生徒を殺害したと考えるよりも、生徒同士の諍いの結果と考える方
が、合理的というものではありませんか、警部?」
「……空想だ」
「その通り」
警部の言葉を、稲葉はあっさりと肯定した。
「これは推測であって、証拠がない。ただ、確認が容易でもある。プールの水
を抜いて、子細に調べてご覧なさい。どこかに不自然な箇所があるかもしれま
せんよ」
「水泳部の連中が、遺体の場所を移したのは、それが理由か? プールに浮か
んだままでは、水を抜いて、調べられてしまうと思った……」
「ですから、お調べください。理屈を付ければ、簡単にできると思いますね。
もちろん、調査は念入りに。今夏、プールを何度か掃除しているはずですが、
その際に見つからないのだから、よほど小さな痕跡しか残ってないでしょうね。
たとえば、排水孔のセメントから、短い人毛が数本、生えているとか」
「……参考意見として、取り入れるよう、進言してみよう」
警部は呻きつつ、気重そうに立ち上がった。その丸まった背に、稲葉が声を
かける。
「結果を知らせてくださいよ! もし、外れていたら、私は水泳部員達に謝り
に行かねばなりませんから」
警部の訪問から二週間足らずが経って、彼から稲葉宛に、菓子折が届いた。
いつものように、手紙は付されていなかった。
ノックの音がした。
室内に、聞く耳はない。
何故なら、そこは密室殺人の現場となるのだから。
推理小説のみに許された甘美な匣が、今、解かれる。
解かれることで、その魅力を失おうとも……。
−−封印