#835/1336 短編
★タイトル (CHX ) 97/ 8/ 3 1:44 (149)
とけた涙 周太郎
★内容
私は12時という時間が嫌いだった。夜は孤独を噛みしめる時間
だったし、昼間は仕事が切れる時間だった。欲しくもない昼食と楽
しい振りをしなくてはいけない談笑。若い頃はなりふり構わず仕事
に逃げ込んでいたが、30を過ぎると周りの空気も考えなくては
ならないだろう。総合職とはいえ女性に本気で門戸を開いている会
社ではないし、不景気の続き過ぎもあって停滞ムードを打破する動
きもない。学生時代の延長を楽しむOLの間を抜けて、歩いて3分
ほどの商店街に向かった。ハンバーガーショップがこのところ私の
お気に入りの店になっていた。
別に食べるわけではない。1階はテイクアウトの客を含めて人が
多く賑わっているが、この2階席は絶好の穴場なのだ。うまくいけ
ば小1時間貸し切りになるし、店員もバイトばかりだから何も気に
しない。気に入ったオープンキッチンなどを見つけても少し通い続
けると常連扱いを受け店主のお愛想に答えたり、常連面をステータ
スくらいに思う安サラリーマンに下品な冗談を浴びせられる煩わし
さがある。ここでも、たまに子供や連れた若い母親が上がってくる
こともあるが、コーヒーくらいしか手をつけないセットの片割れの
ハンバーガーやポテトを子供に差し出すと私が席を立つまで気を使
って子供を騒がせないようになった。
その日は、土砂降りにだった。3度も同じミスをした腰掛けOL
を叱ると事務所の空気が固まった。この女の不注意で何時間も残業
する羽目になるのは私なのだ。しかし、今まで笑顔と涙で困難をか
いくぐってきた彼女には理解できず、味方になりそうな男性社員を
目で探っていた。案の定、
「まあ、良いじゃないか。佐織ちゃんだって悪気があったわけでな
し。それにもう昼飯の時間だし。まあ、このへんで・・・。」
といい出すものが現れた。悪気でこんな事をやられたんじゃたまら
ない。こういった空気の後の社員食堂は疲れそうだ。
表に出るとさっきより雨の勢いは増していたがロッカーに着替え
もあるし、ワイルドなシャワーを浴びる気分で駆け出した。きのう
美容院に行ったばかりのことを思い出して少し失敗したかと思った
けれど今更引き返したって同じ事だ。レストランへいくでなし、た
かがファースト・フードの店ではないか。思った通り人影は少なく
1階席でも良いような気がしたが、多少の身繕いはしたいので洗面
所のある2階席へ上がった。トレーを適当な席におくと鏡の前にた
ってみた。イライラと蒸し暑さで上気した顔は化粧気が無く、雨に
濡れた長い髪はTVドラマの幽霊を思わせた。化粧道具もブラシも
ロッカーの中なのを確認すると鏡から目を背けるという手段しか選
べなかった。そこへ、人の上がってくる気配がした。
「済みませんねえ。本当にこんな店で良いんですか。」
「いやあ、気にしないで下さい。僕はあちらでもこういう穴場をよ
く使うんですよ。人に話しかけられたり、変に気を使ったりしなく
て良いでしょう。雨に濡れながら遠くへいく気にもなれないし。」
男性客のふたり連れのようだ。気にしてもしょうがない、出ようと
したときに、また声がした。
「あれ、誰かいる。ひとりのようですね。すごい美人だったら良い
ですよねえ。」
「そうですねえ。さあ、仕事を片づけますか。」
「もう河本さん真面目なんだから。」
「違いますよ。早く片づけて遊びに行きたいんですよ。」
私は壁の裏側で固まっていた。彼かもしれない。中学生の頃の初恋
の相手、河本智史君。声も話し方も似ている。いやそんな訳はない。
あれから、16.7年がたつのだから分かるものか。去年も河本君
だと思いこんだ後ろ姿を追いかけて馬鹿を見たではないか。もうひ
とりの男のたわいもない冗談に閉じこめられた自分が惨めに思えた。
喫茶店なら素知らぬ顔でやり過ごす陰を探せるが此処には何もない。
もう一度鏡に向かい手櫛で髪を整えた。ちっとも綺麗じゃない。
中学生の頃の私は恋愛とは無縁の人間の振りをしていた。同じク
ラスの女の子たちが意中の男の子の何気ない仕草にキャーキャー騒
ぐのを冷静に眺める振りをしながら、誰よりも河本君を見つめてい
た。冬になると好きな男の子が席あきの時そこへ座るのが流行り始
めた。体育や技術の時間になると男生徒が誰もいないので内気な子
も座れるのだった。
河本君の席には栗本玲子という女性徒がいつも座ってしまい何人
かの女の子は少しばつが悪そうに眺めているだけだった。
栗本さんはお人形のように顔立ちの整った子で、勉強もスポーツ
も何でも良くできた。クラスの女王様という存在で天真爛漫思うこ
とを言い、行動した。そんな彼女に張り合うことなど考えにくいこ
とであった。陰では悪口を言う人もいたが、彼女といると楽しいの
は女生徒も同じであったから河本君から栗本さんへ、
「つきあって下さい。」
の一言を待つ空気が流れ始めた。いつも、彼女を妬ましげに見つめ
る子たちも彼を諦めるいいきっかけになると言うのだった。
なかなか進展しないので、彼女とその侍女のような友人で作戦を
立てた。まるで甲子園のトーナメントの様にクラスの女の子全員の
名前を書き男生徒に好きな方を聞いた。ミスクラスを決めるという
名目であったが学校一の美女を自他と共に認める彼女にとってそん
な事はどうでも良かったはずだ。調子に乗りやすい男から声をかけ
十分に話題になってから河本君に見せた。面倒くさいのか照れてい
るのか彼はぶっきらぼうに答えていた。
最後に恥を掻いてはいけないので彼女は組み合わせを周到に考え
最後のカードの相手は私にした。クラスでは「川瀬さん」と呼ばれ
ていたが名字で呼ばれるのも「さん」付けなのも私だけであった。
だから「栗本、川瀬」のカードであれば番狂わせもなく、また傷つ
くものもなく終わることが出来る。以外に彼女が繊細だと思ったの
は彼に思いを寄せていると思われる女の子と自分を直接当たらない
ように組み合わせを考えていたらしいことだ。最後のセリフまで決
まっていた。優勝が栗本玲子に決まった時点で、
「じゃあ河本君、私とつきあえたら嬉しい?」
と彼女が言い、周りで盛り上げるという趣向だった。これが巧くい
ったらコンテストの名目で彼からの告白を受けられると後に続きた
い女の子達も熱狂していた。ここで男生徒の注目を集める彼女を売
約済みにしてしまえば、安心も増す。
「じゃあ、最後の質問ね。」
甘い声の栗本さんは河本君の目をじっと見つめた。
「うーん、川瀬さんかな。」
教室がシーンとなってしまった。彼女は固まっていた。みんなの視
線は河本君、栗本さんと動き私で止まってしまった。ほんの数秒だ
ろうに私には耐え難いほど長い時間に思えた。
「えっ、私なら河本君を優勝にはしないけど。」
これ以上見られると気持ちを見抜かれそうで言いだした言葉だった。
今度は河本君が注目された。
「下らないよ。もう絶対参加しないからな。」
そして、そのまま午後の授業をエスケープしてしまった。
こんな事があって私は益々河本君の椅子に座ることが出来なくな
った。昼食の後、男生徒は雪の降る日も校庭で遊んでいた。最後の
ひとりの男の子が消えると女の子は目的の席に駆け寄った。元気が
なくなった栗本さんもその時は楽しそうだった。
「ねえ、暖かいね。椅子だけじゃなくて机も。なんだか一緒にいる
みたいね。」
彼女の言葉にみんなはドキッとした。そして愛おしげに机を撫でる
様子はまるで河本君を愛撫するように見え正視出来なかった。たか
が机じゃないのと呟いてみても気持ちのやり場はないのだ。私は下
校前に学校の図書館によることが多かったが、つい読みふけった為
校舎も校庭も人気のない時間になってしまった。誰もいない。そう
思うと足は教室に向かった。歩調は鼓動に会わせてどんどん早くな
った。最後に駆け込み戸を閉め、辺りを窺うと見つめるだけだった
河本君の席に着いた。
「冷たい。」
声が出るくらい冷たい椅子だった。机を見ると小さな落書きがあっ
たが何が書いてあるのか読めない。すぐに触りたい気持ちを抑え映
画のヒロインが恋人にもたれるシーンを思い浮かべ、ゆっくりと指
先からふれていった。静かに撫でながら栗本さんよりずっと素敵に
撫でているわ。そう納得すると体全部を机に預けた。胸の中の硬く
て小さいものが溶けるような感触をにとまどっているくせにとても
幸せだった。それが河本君との一番大きな思い出だった。
かまうものか。気にしたって向こうが覚えているとも思えないし
彼かどうかも分からない。トイレの前で何時までもたっているのも
嫌だ。なるべく素知らぬ振りでトレーのある席に着いた。コーヒー
を手にしたときその人と目線が重なった。河本君だ。向こうも気づ
いてる。何か言いたそうにしている。私は変な男に見つめられたO
Lの顔を作った。彼はばつが悪そうに視線を変えるともうこちらを
見なかった。私は中学生から進歩していないのだ。程なく携帯電話
が鳴りふたりは店を出ていった。階段を下りる時の会話が切れ切れ
に聞こえた。
「えっ、・・・・ですか。」
「・・・でも、・・・だったひとだから。」
「・・・違うでしょう。・・・四十が近いんじゃないですか。」
「いや、・・・・。」
完全に声が聞こえなくなると私は急いで河本君がいた椅子に座った。
暖かい。同じ位置に肘をつき、空いた手で机を撫でた。遠い日に欲
しかったものが此処にある。胸の中で何かが溶けかかっている。こ
のまま眠ってしまいたい気持ちと追いかけて、ひょっとして河本君
じゃないのと白々しく話しかけ連絡先を聞き出したい気持ちがぶつ
かった。溶けてしまった何かが涙になって後から後から頬を伝い、
机に貯まった小さな水たまりには照明や壁紙が写っていた。
(おわり)