#789/1336 短編
★タイトル (TMF ) 97/ 5/26 23: 5 ( 90)
お題>レンゲ畑 沢井亜有
★内容
ゴールデンウィークに入った最初の土曜日の午後、純(じゅん)は友人の満
(みつる)が運転する車の助手席に座っていた。満の家を出て間もなく、純は
「男同士でデートなんて、悲しいものがあるよな、お互いに。」
と苦笑したのだが、満はそんなことは気にしていないらしい。
「ま、いいじゃないか。」
満だって女性とドライブしたいのだろうが、それとこれとはまた別の問題で
あるようだ。いいけどさ、と言って純は流れる景色に目をやった。
満は、純が地方都市の大学に入学して最初にできた友達だった。同じ学部で
取った講義もほとんど一緒だった。しかし生活環境は全く違っていた。大学ま
で自転車で十五分のところに下宿している純に対して、満は自宅から一時間半
もかけて電車通学していたのである。
満は大学一年の夏休みに運転免許を取り、半年ほどたった頃から純を何度か
誘った。
「俺んちへ遊びに来いよ。駅まで迎えに行くからさ。」
満は簡単に言うが、片道一時間半もかかるのだ。純は面倒なので軽く受け流
していた。満も二年の夏を過ぎてからは誘わなくなった。
そして三年になり、進路が分かれてしまった。もう会って話をする機会はほ
とんどない。新しい友達が増え、満とは疎遠になっていくだろう。そう思って
いた純の下宿に満が突然電話をかけてきたのは、四月も半ばのことだった。
「せっかく東京から出てきたのに、もったいない。俺の家は一応市街地にある
けど、車で三十分も走ればもう山の中なんだよ。たんぼや畑だって見たことな
いんだろ?」
まさか、そんなわけはない。満は少々誤解しているようだ、と思った純の方
にも実は誤解があった。テレビや写真で見たような山間の寒村を想像していた
のである。
――もし東京へ戻って就職したら、こんなチャンスはもうないかも……。――
「そうだなあ、一度くらい見ておきたい気もするなあ。」
純が電話口で独り言のように言うと、満は嬉しそうに
「損はしないって。保証する。」
と言い、さっそく連休中の都合を聞いてきた。そんなにも熱心に勧めるのだか
ら、よほどきれいな景色を見せてくれるに違いない。二人は大学が休みである
土曜日に決めたのであった。
下宿生の朝は遅い。待ち合わせは満の自宅の最寄りの駅に昼過ぎだった。
電車が駅に近付くに連れて、遠くに低く見えていた山が存在感を持って迫っ
てきた。その手前には住宅地や商店街らしい街並みが広がっている。純は新鮮
な驚きを感じながら駅のホームに降り立った。
満はすでに来て、車に乗って待っていた。古そうなセダンは、どうやら親の
ものらしい。
まず、駅から車で三十分弱のところにある満の自宅へ寄った。満の家族はそ
れぞれ外出していて留守だった。二人は満の部屋へ上がり、しばらくそれぞれ
の新しい講義や先生のことなどをしゃべっていたが、やがて再び車に乗り込ん
だ。
車はなだらかに連なる山々へと向かって走る。それほど深くはなさそうだ。
そろそろ山のふもとかという頃、道の両側に杉か何かの林が現れ、緩やかな上
り坂になった。時計を見ると、家を出てからちょうど三十分。満が言ったとお
りである。
道はカーブの連続する山道になっていく。
「この辺りは運転の練習のためによく走ったから、けっこう慣れてるんだ。」
満は、待避所のようなところに車を寄せて止めた。
「降りてみよう。」
満に続いて純も車から降りた。穏やかな風となって流れてくる空気を、純は
きれいだと思った。東京はもちろん、大学の周辺などよりずっときれいだ。
少し歩くと道の片側が急にひらけ、眼下に平野が見えた。そろそろ夕方、太
陽も低くなっている。夕日に照らし出された市街地は意外に美しいものだった。
「あそこに見える街が、俺んちがある街。」
満は指差して教えた。その街の向こうに、もっと大きな街が見える。たぶん、
さっき降りた駅のある辺りなのだろう。いちばん手前にあるはずの田園地帯は
山の陰になっていて見えない。
「夜景もいいんだけどね。……じゃ、そろそろ行こうか。」
純はもう少し眺めていたかったのだが、夕暮れ時の風は冷たかったため、満
の言葉に従った。
車はそのまま峠を越え、再び平野に下りた。往きとは別の、民家と田畑が混
在する田園地帯の中を走っている。それだけでも純には珍しい風景だった。満
はただ黙って車を走らせる。
「あれ?」
純は一瞬、桃色の何かを見た。それはすぐに民家に隠れて見えなくなってし
まった。満は何も言わない。
少し大きな集落を抜けるまで、純はそのことを忘れてしまっていた。しかし、
道路の両側に一面の桃色が現れたとき、彼は思わず溜息をもらした。
「おお……すげえ……。」
「レンゲだよ。」
山を下りてから初めて満が口を開いた。
「レンゲ? 栽培してるのか?」
「中学か高校で習わなかったかな。レンゲなんかのマメ科の植物は、空気中の
窒素を土壌に固定する働きがあるんだ。だから稲がよく育つ。」
満が説明する間にも、車は交通量が少ない割に広い道路を快適なスピードで
走っていく。それでも、少し紫がかった桃色の中に緑色が点描されているレン
ゲ畑は途切れることなく、散在する民家の間を埋め尽くしている。
「最近は種をまいてるみたいだけど、昔は種なんかまかなくても毎年自然に生
えてきてたんだってさ。親父が言ってた。」
それ自体を目的として育てられているのではない花畑。しかも感覚を遥かに
越えたスケール。純は言葉が出なかった。
山の端にかかった赤い太陽がレンゲ畑を照らし、桃色はいっそう深くなる。
満が見せたかった景色がまさか花畑だったとは、純にはまったく想像もつか
なかった。しかしそんなことはどうでもいい。満がこの時期に突然電話をよこ
した理由が、純には分かったような気がした。
<おわり>