#748/1336 短編
★タイトル (PRN ) 97/ 1/26 20:32 (105)
短編> 山 人 叙朱(ジョッシュ)
★内容
「山 人」 叙 朱 (ジョッシュ)
俊平は今日こそは行ってみようと思った。
その山は窓の近くにあった。手を伸ばせば届きそうな近さだった。しかしや
かんの水を飲む時、ついでに首をもたげてながめてみると、その山はひどく遠
くにでんと居直っていて俊平に声を掛けていた。
「ここまで来いきるや。ここまで来いきるや。」
霞の向こうで大勢の山人が、「おーい、ここまでおいで歩いてこい」と俊平
を呼んでいるようなのだ。
「山人が呼んどるね。」
体温を測りに来た母に言っても、母は眉をひそめただけで受け合わなかった。
山人は自分を呼んどる、と俊平は確信した。だから母ちゃんには聞こえんと
だ。
「母ちゃん、おれ、いつになったら歩けるんかな。」
そう思うと俊平はいたたまれなくなって問うた。
「もうすぐじゃっけん。じきに歩けるようになるけん。」
母の答えはいつもの通りだった。それは「まだ当分は駄目ですよ」と俊平に
は聞こえた。
俊平が山人の話を聞いたのは、去年亡くなった祖母からだった。
「山には山人という番人がおって山を守っとる。そして、おいがごた独りの者
の所に話ばしに来ると。おかげで独りでおってん退屈はせんと。」
去年、山人は俊平の家に実際にやってきては、縁側にいる祖母と話をしてい
たらしい。
といっても俊平はまだ山人を一度も見たことはなかった。
一度だけ、山人が来たと思って急いで納屋に隠れ、縁側をこっそり見つめて
いたことがあった。でもその時やってきたのは山人ではなくて、この村のまと
め役をしている老寄りだった。
がっかりしてその事を母に話すと母は目をつり上げて怒った。もう二度とそ
んなのぞき見などするなときつく言われ、しないと約束させられたことを俊平
は覚えている。
以来、俊平はその山人の住むという山といっしょに暮らしてきた。生まれつ
きひ弱な方だった俊平は去年の内にとうとう床に臥したのだった。
冬になると、その山はひどく怒ったような顔をして不機嫌だった。俊平が話
しかけても、ろくに口をきいてくれなかった。
ところが春になって山を覆っていた雪が溶け出すと、それといっしょに山が
大きくあくびをしたようだった。山人も冬眠から覚めたらしく、俊平に陽気な
声を掛けてくるようだった。
「ここまでおいで、歩いてこい。」
俊平は決まって「絶対行くせん」と答えた。あの山まで一度でいいから行っ
てみたかなぁ。俊平は真剣に考えた。
山まで行くのには、歩くことが必要だ。
そう思った俊平は母がいない時を見計らっては蒲団から抜け出し、立ち上が
る稽古をした。
初めはうまくいかなかった。頭を上げただけで、ふらっとした。ひざががく
がくなって、天井と床が逆さまになったような錯覚に襲われた。一人で恐くな
って逃げるように蒲団にもぐり込み、めそめそ泣いた。蒼白い両足を「こん畜
生」と言って、たたきながら泣いた。
しかしそれでも俊平は立とうと思った。相変わらず山人は毎日毎日、俊平を
呼んでいるようだった。
「おーい、ここまでおいで、歩いてこい。」
そうして、よろめきながらもどうにか窓に食い下がって俊平は立ちあがった。
立とうと決心してから、六日目の真昼近くだった。
立ち上がって窓から見た外の景色のまぶしさに、俊平はめまいを覚えた。山
は高かった。恐ろしいくらいに高かった。その山は途中で雲を突き抜いていた。
去年まではこげん高うはなかったのに。
窓から見えた高い山に、俊平は見覚えがあった。確かあれは...。
あ、そうだ。祖母ちゃんの逝った山だ!
そう思った瞬間、俊平は激しい吐き気に襲われた。目の前が真っ白になって、
その場にずるずると倒れこんた。
俊平は自分の前を、二人の男に支えられて歩いて行く老婆に気づいていた。
老婆は白い服を着ていた。肩を落とした後ろ姿が妙に小さく見える。歩きなが
ら、三人とも一言も口をきかなかった。俊平も声を掛けられない。三人連れに
は異様な緊張感があった。
俊平は、すっかり元気な足取りで念願の山に向かっていた。目指す山は眼前
にそびえていた。嬉しさがこみ上げてくる。ふと気がつくと三人連れの姿は消
えていた。森にさしかかった。静かで深い森だった。俊平は歩き続けた。
突然、森をぬけた。俊平の前には直立の絶壁が現れていた。
上を見あげると太陽が山の頂上あたりに陣取っている。「この絶壁をのぼっ
て来いというのか」、俊平は問うた。返事は無かった。急に寂しくなってもう
一度頂上を仰いだとき、頂上から落下してくる何か黒いものが目に入った。
その落下物は小さな点からだんだん形をなしてきた。人だった。さっきの白
い服を着た老婆だった。老婆は顔をまっすぐ俊平に向けていた。
その瞬間、俊平は電流に打たれたようになった。
「あ、祖母ちゃん!」
俊平は叫んだ。落下してくる祖母の顔だけが俊平の眼前に迫っていた。
霞がかかっていた去年の春の記憶が、素早くよみがえった。
「祖母ちゃんは、山人に連れていかれたと。大きい兄ちゃんと小さい兄ちゃん
とが、山まで連れていったとやった。」
俊平は叫びながら、恐怖で全身が硬直した。
俊平が寝汗をびっしょりかいて意識を取り戻したのは、窓の所で倒れてから
だいぶ後だった。もう夜になったようで、灯りのついていない部屋は真っ暗だ
った。俊平は蒲団の中に横たわっていた。耳を澄ましても、山人の声は聞こえ
ない。
身体に先ほどの恐怖の感覚がよみがえり、俊平は蒲団の中でぶるっと震えた。
そういえばあの日、祖母は俊平にこう言ったものだ。
「役立たずは、山人といっしょに山にいくさ。」
翌朝になった。
体温を測りに来た母は、昨日の俊平の無茶について何も言わなかった。俊平
は気分がとても良いことに気づいた。その事を母に告げる。母は、「そうかい」
と言ったきりだった。祖母のことも話そうかと思ったがやめた。水を飲もうと、
やかんに手を伸ばした。思ったより軽く手が動いた。首を持ち上げてみた。め
まいも覚えなかった。嬉しくなった。
耳を澄ますと、山人の呼び声がすぐ近くに聞こえるような気がした。
「おーい、ここまでおいで、歩いてこい。
俊平は今日こそは行ってみようと思った。
<了>
注>文中の口語部分は長崎県島原半島あたりの方言です。