#610/1336 短編
★タイトル (AZA ) 96/ 7/22 18:29 (106)
お題>味知らぬ、天丼 永山
★内容
どう見ても、その天丼は天丼らしくなかった。
どこを探しても海老が見当たらない。
穴子も鱚もししとうも紫蘇も海苔もない。断っておくが、決してかき揚げ丼
ではない。何かを天ぷらにした物が入っているのだが、その正体が分からない
のだ。
お品書きに目をやる。
てんどん ¥六五〇 と達者な筆運びで記されてある。
考えてみよう。
天丼とは天ぷらの丼物である。載せる具は天ぷらであれば何でもよく、海老
の天ぷらの丼とは限らない、ということなのだろうか。
だが、世間一般常識と照らし合わせ、天丼と言えば海老の天ぷらが入ってい
る物ではないか。天ぷら定食を注文して、紫蘇の天ぷらの山盛りを持って来ら
れたら、客は怒るだろう。
私も怒ろうと思った。
が、ちょっと待て。今一度、冷静になってみよう。
周囲を見渡してみる。
私の前に置かれている「天丼」と同じ物を食べているのは……五人いた。
皆、文句一つ言わずに食べている。それも、実にうまそうに。
ふむ。もう一度、考えてみよう。
私は確かに、天丼とは海老天丼であることを期待していた。口も舌も、海老
の天ぷらを期待して、その味を待ちかまえている。裏切られた失望感は大きい。
しかし、である。もしも、この眼前の丼に載る天ぷらが、海老天と全く同じ
味を有していたら、どうであろう。許せるのではないか。
いや、違う。料理は目でも味わうものと、誰かが言っていた。味は海老でも
形がかような得体の知れないまるまるした物では、失格である。
……待てよ。こいつが海老天を上回るうまさだとすればどうか。この世の物
とは思えぬ、絶品の美味であったら、どう対処すればよいのだ? 少なくとも、
文句を言っては筋違いになる気がしてきた。
悩んでいた私は、すぐに解決策にたどり着いた。
食えばいいのだ。
一すくい、この謎の天ぷらを口に運ぶ。それで全てはけりが着く。うまけり
ゃこのまま黙って食えばいいし、まずけりゃこれが天丼か!と怒鳴ってやれば
いいのだ。簡単だ。
私は割り箸を割ると、店の主人を見た。
厳つい顔であった。
もしかすると……と、私は想像する。
文句を言おうものなら、叩き出されるのではないだろうか。「うちの店では、
これが天丼だ。けちを着けるんなら、出てってくれ!」てなもんではなかろう
か? しかも、きっちり代金は徴収された上で。
そうなっては最悪である。文句を言うんなら、箸を着けない内にした方が賢
明だろう。代金を払わずに済むかもしれない。
いやいや。あの主人はそんな甘いたまではなさそうだ。作ったからには、金
を払えと言ってきそうだ。うん、そうに違いない。
困ったぞ。金だけ払って出るのは、絶対に嫌だ。となると、どうしてもこの
天丼を食わなければならない。
やむを得まい。まずかったら、飯だけ食おう。
食べ残すとまた文句を言われるかもしれない。が、幸い、丼に蓋は付き物だ。
食べ終わると同時に被せ、すぐに店を出ればいいだろう。
私はもう一度、店の主人の様子を慎重にうかがってから、遂にそのものを口
に運んだ。
−−うまい。
声に出しそうなほど、美味である。
何かの肉だとは分かった。やわらかく、ちょっと癖がある。その癖が魅力に
なっている。調理の腕なのだろうか、肉そのものの味を楽しめる。
最初の憂いはどこへやら、私は貪り食った。すぐに食べ始めなかったのが、
馬鹿らしく思えたほどだ。
「ごちそうさん」
満足した。
ふと、店の主人の顔をまた見やる。愛想の良いものに感じられてきたから不
思議だ。
「ご主人」
たまらなくなって、私は声をかけた。
彼は目だけをこちらに向けた。
「よかったらでいいんだが、教えてくれないかな。この天丼は何の天ぷらを使
っているんだい?」
「てんどんはてんどんだ」
予想通り、素っ気ない返事だ。
「私は素人だから、それでは分からないんだよ。まさか、海老や鱚じゃないで
しょう? この味は動物の肉だと思う」
「それだけ分かれば、充分ですぜ」
「そんな。なあ、頼むよ。今後、ひいきにさせてもらうから」
私は食い下がった。別に家で自分で作ってみようという訳じゃない。ただ単
に、知りたいのだ。
「そんなこと言われてもねえ、旦那。てんどんはてんどんなんだよっ」
「しかし……」
「ヒントをやろう。店を出る前に、もう一度、ようく品書きをご覧になってみ
な。それで気付かなけりゃ、あきらめてもらいましょうか」
「……見れば分かるんだな?」
私は代金を払ってから、じっくりとお品書きを見た。
しかし、てんどん ¥六五〇 からは、書いてあること以上の情報は読み取れ
ない。
困っている私を見かねたのか、主人が声をかけてくれた。
「他の品も見てくれなきゃなあ!」
「他の?」
言われるまま、目を移す。
いくらどん、うなどん、おやこどん、かつどん、ぎゅうどん……別に変わっ
た点はない。
だが、私はやっと、おかしなことに気が付いた。
天どん−−何故か、もう一つ、天丼があるのだ。
「あれ? どうして二つ、天丼が……」
「そこまで気付きながら、まだ分かりませんかねえ。ようく、ようく、穴が開
くほど見つめりゃねえ」
私は二つの札を見比べ、その違いにすぐ気付いた。
てんどん と 天どん。
「−−ああ!」
私は全てを理解し、声を上げた。
「分かったようですな」
「なるほどね。『てん』のどんぶりか……。しかし、私は天どんを頼んだのだ
よ。どうして、てんどんを出したんだね?」
「はあ、そりゃあ、決まってまさあ」
主人は快活な声で言った。
「初めてのお客さんが『TENDON』と注文したときは、必ず『てんどん』
の方をお出しすると決めている。それだけ自信があるんでね」
彼の得意げな表情をあとに、私は店を出た。
−−終わり