#473/1336 短編
★タイトル (ALN ) 95/ 7/ 1 20:44 (200)
八月の愛 聖 紫
★内容
あの子は長い髪を八月の空の下で… 風に預けた侭俯いた
背伸びに疲れた朝… 踵の高い靴の響き昨日の闇に落ちて
木霊する… 何処までも… 見送る様に… 私を見ていた
あの子は長い睫毛で夏の輝きは… 儚い夢に瞳は光りの雫
別離に理由等要らない… それは出逢いが偶然だった様に
涙のない泣き顔… 痛みの無い深い傷… 私の為に残して
あの子が長い髪を突然切るように… 終わりの為の始まり
瞬く星明かりを頼りに旅する流星に似て… 今愛が終わる
何時までも消えぬ悲しみに似て… 忘れる為の偽りに似て
八月… 夏は僅かな頂の滑らかな一瞬を通り過ぎようとして居る。
後半月もすれば、刺すような残暑の隙間にも時折秋風を感じさせられるだろう。
宮殿の様な積乱雲を浮かべた空は日毎に高くなって行き、熱を帯びた空の青色は
褪めて行きながら冷たい水色になろうとしている。
有美は、涼しくエアコンの効いた透明な空気の中でぼんやりとガラス窓の外を
眺めていた。 湿っては居ない筈の夏の風はその熱で大地の水達の肌を撫でさす
り、気付かれぬ様にそっと運び去る。 乾いた風の中で水面の肌は静かに天に向
かい昇り始める。 …取り残された街は焼けたアスファルトに焦げ付いた煤の様
に陽炎の中でぼんやりと揺らめいている… 何もかもが繰り返す夏の中で、ただ
通り過ぎようとする夏にはしがみつくものなど何一つとして無いのだと思った。
月曜日… 朝から梅雨を思わせる様な雨が降り、見飽きた紫陽花の姿も何故だ
か新鮮に目に映る… 何処からか梔の甘い香りが漂い来ると嗅覚の感情だけが敏
感に振り返るが、その香も束の間に、あの夏の雨の生臭い甘ったるさに変わって
消えた。
『昨日は、あんなに熱かったのに… 』
そんな風に思いながら会社に着くと何時もと違った雰囲気に気が付いた。
皆が一様に沈痛な面もちである。 一種独特な活気に満ちている筈のロッカール
ームですら静まり返って仕舞… 時折聞き取れない程の音のない声が短く走り抜
けては消えていく。 どうしたのかと尋ねる程の事でも無い様で、其れで居て何
よりも重大な事の様で… なのに、誰かがその理由を話してくれるまでは、聞き
出せない様な気まずくて重たい空気の中… それでも時間は流れて行き、一日も
終わりに近付いた頃、同僚の淳子が話しかけてきた。
「久しぶりに… 皆で帰りに食事をして行かない?」
有美は何でも無い事の様に聴こえたが、淳子は話し辛い事の様に心配そうな表
情で上司の桂木の机の方を振り向き少し顔を歪めたが… また有美の方に顔を向
けると、「桂木課長が… 久しぶりに皆に奢るからって… 」と、ぎこちない作
り笑顔でそう付け加えた。
「ええ、でも… 月曜日よ… 私は良いけど… 」
有美は、『まっ、いっかぁ… 』 そんな、呆れともおかしさとも付かない様
な表情で答えた。 淳子は、「じゃぁ、また後で」と言い残して自分の席に帰っ
て行った。
相変わらず雨は降り続いていた。
その所為か夏の夕方独特の『むっ』とした暑さは無い… 無い変わりに、季節を
見失いそうな、ふと不安にさせられる様な涼しさとも寒さとも形容しがたい風が
心の中を吹き抜けた様な気がした。
「皆で騒ぐのって久しぶりだねぇ」
課では一番陽気な明子は既に出来上がっている。
桂木が定期的に課の連中をつれて食事に出る事は珍しい事では無かった。 むし
ろ、最近それが無かった事の方が珍しい事だった。 居酒屋で出来上がり、カラ
オケで一頻り盛り上がった後は何時もの様にスナック組と帰宅組に別れてお開き
となる。 何時もは此処で帰宅組の浜崎が珍しく桂木と並んでスナック組と歩い
て居た。
「わぁ、浜崎係長が、ついて来てるぅぅ」
無邪気な子供の様に振り返った明子がさも嬉しそうに明るく笑いながら戯けて
見せる…
「たまには… 皆様のお供もせんとな… 」
浜崎も照れくさそうに、会社では見せた事のない様な無邪気な笑顔で返してき
た。 そんな風な話をしながら、桂木達は何時ものスナックの前まで来ていた。
「ま、久しぶりでも在る事だし… 今日は少し呑みましょう… 」
そう云って桂木は、浜崎に、何処と無く寂しそうでは在るものの、優しく微笑
んで見せた。 桂木にしても、無論、浜崎にしても今癒えつつある心の痛みは消
しきれる事など無く悲しいものであった。 彼らにとっては有望な部下であった
憲治が突然交通事故で此の世を去ってから未だ日が浅い。 彼らがあたえられた
ショック以上に大きな痛手を受けたのは、有美であった。 二人は、職場でも有
名なほど仲が良く、この秋には二人は結婚する事になっていた。 そんな矢先の
憲治の死は有美の心に測りしれぬショックをあたえて当然だったろう。 桂木を
始め課の者皆が有美のことを心配していたが、慰めるにも時期と言葉を… 等と
ついつい延び延びになって来たが、49日の法要も先日終わったのを期にと、皆
で有美を励ます為の企てであった。 桂木自身の中には、49日の法要が済んだ
事がきっかけだと云う事の他に、今一つ自分自身でも説明しきれない何かがあっ
た。
『今日でなくてはならない… 』
何故か朝からそんな思いが彼を揺さぶり続けて居たのだ。
夏の夜が更けて行く… 何処までも、何処までも落ちる様に。
朝目が覚めた時、其処に在るものは、果たして今日の続きの侭の夏の朝なのだろ
うか等と、誰も思いは仕舞… 突然秋が来るわけでもなく、ただ今夜は、否、今
は夏の夜が更けて居るに過ぎないのだ。
「少しは落ちついて来たようですか?」
桂木が浜崎に心配そうに尋ねている。
「そうですね… 今日も何時もと変わらないくらい明るくなって居ましたが…
元々、酒が入ると陽気になる方では在りますが… 何とか、立ち直ろうとは
して居るんでしょう… 」
桂木に答える浜崎の表情には、先程までの酔いの色は無く、何処か硬いものす
らうかがえてさえ来る。
「一時は、休職をとも考えてすすめたのですが… ま、こればかりは、本人次
第と云う所が大きいですから… それに、仕事に支障が出ない以上、かえっ
て本人もその方が気分が紛れて良かったかも知れないと、今は思って居るん
ですよ… 今の様子からすれば、もう安心しても良いのでは無いかとも思っ
て見ているのですが… ただ… 本人には聞き辛い事ですから、確かめては
居ないのですが… 」
浜崎が少し歯切れ悪く口ごもると、桂木は空かさず、「ただ何でしょう?」と
次の言葉を促した。 桂木にも思い当たる節があるのだ。 そのことなのか…
とにかく確認したい… その様な逸った気持ちでもあった。
「ただ… 彼女は、憲治君の死んだ事を忘れていると云うより… こう、どう
云うか… 知らないというか、気付いていないと云うか… 全く其の事実が
無かった事の様な… 」
浜崎にもどう云って良いのか、云いあぐねた様子である。
「やはりそうですか… 」
桂木もどう云えばよいのかは分からないのだけれど、恐らく同じ事だろうと思
った。 桂木や浜崎に限らず、淳子にも明子にも、課の同僚皆総てが抱いている
疑問の様なもの… 『有美は、憲治が死んだ事を知らないのでは無いか… 』
ただ、知らない事は無いだろう… 病院に真っ先に駆けつけたのは有美であり、
憲治が息を引き取った瞬間有美は夕立の時の雷のように突然激しく泣きじゃくっ
たと云う… 問題はその後… お通夜にも、葬儀にも参列していないし、昨日の
法要にも姿を見せなかった… 『ただの、薄情な女… 』 あれほど仲の良い二
人だっただけに、皆が不思議でならないのだ。
夜も11時が近くなると雨は上がり、いつの間にか真っ暗な闇は真っ白い霧に
変わって居た。 浜崎が何時もは帰宅組なのには、ひとつには浜崎の家が隣町に
在る事が上げられた。 しかも、駅から自家用車で15分は掛かるのだ。 そん
な事を云っては居られない今日ばかりは、奥さんに迎えを頼んだ。 当然、事情
を知って居る浜崎の奥さんは、「11時に、迎えに行って上げますから… 」と
快く承諾してくれた。 浜崎には、有美とは帰りの方向も同じなので、奥さんを
交えて其れとはなく話を聞いてみようか等と云う思いがあったし、実は桂木も内
心其れを期待していた。 そろそろ、浜崎の奥さんが着きそうな頃、有美はカウ
ンターの端に在る電話で誰かと話をしていた。
「ケンジもおいでよ… 」
「だめだよ… 僕は行けない… 」
「じゃぁ、私もそろそろ帰るわ… 迎えには来てくれないわよね… 」
「受話器を置いたら、直ぐに其処を出ておいで… 」
「うん… 」
短い、ほんの二言三言の話だった様だが、受話器を置くと、そろそろ帰ります
と云う有美を誰もが優しい笑顔で見送った。 普段で在れば帰りの足のことなど
色々気にかけて話し止める桂木にも浜崎にも、何故か今夜は『止められない』と
云う諦めの様なものが在った。 浜崎の奥さんは有美がスナックのドアから出て
来たのに気付き呼び止めようとしたが、男の影らしい誰かに寄り添うように歩き
始めた有美を見て声を掛けることが出来なかった。
『あの人… 憲治さん… まさか。 良く似てるわ… 』
霧の中に吸い込まれるように消えて行く二人の背中を見送りながら、浜崎の奥
さんはふとそう思ったが、『あり得ない事だわ』と、その思いを否定すると同時
に『ぞくっ』とする何かを打ち消すように、スナックの中に入って行った。
有美が帰った後、明子にも淳子にも、何かを無くした様な寂しさを感じる自分
が不思議に思えてならなかった。 それは、今更の様に言い得る術を持たず心の
奥深い所から沸き上がる淋しさにも感じられた。
「有美、どうして浜崎係長と一緒に帰ら無かったのかしら… もう、あっち方
面には電車だって無いのに… 」
明子が、そうもらすのを聞いて居た浜崎の奥さんは、あら、大丈夫よと云った
風情で、「誰かがドアの外で待って居たみたいだけど… 」と、挨拶もそこそこ
に教えてくれた。 だが流石に、『憲治さんに良く似た人』だったとは云い添え
られなくて、ただ奥さん1人が其れを思い出して云い知れぬ悲しみに似た寂しさ
を感じて居た。 それはまるで夢の中で、別れに来た亡者の背中を見送る時の様
な … 感情の刺激の及ばぬ奥深い所で感じるものに似ていた。
「誰かしら… 」
明子にも、誰にも心当たりは無かった。 有美が憲治以外の誰かと… 等と、
考えようとする事自体が不自然な気がしたが… それ以上誰も自分を含めて誰か
を納得させられる様な答えを見つける事は出来ない様な気がした。 その夜皆は
取りあえずは、と云った諦めに近い心境で帰って行ったのだが… その夜を最後
に、有美を再び見た者は誰1人として居ない。
聖 紫