AWC トランク                  聖 紫


        
#384/1336 短編
★タイトル (ALN     )  95/ 1/28  18:57  (200)
トランク                  聖 紫
★内容

 フォグランプの射光は既に色を忘れていた。ミルクのようにまったりとした霧の所
為ばかりでは無い。それは十分に気流の存在を忘れさせ、個体の壁となり、スライス
された一面をもって絶えず時間の中を移動していた。男は疲れていたのだ。時折動く
眼球は、悪戯な闇にパネルの残光が輝く煙の帯のように引きながら流れるのを観てい
た。

 「此の峠を越せば、ホテルが在るはずだ… 」

 数年ぶりの路を微かな記憶を頼りに男は走っていた。
昨夜から一睡もしていない男は既に32時間近く起きている。そして、車で5時間は
走り続けている。疲労は視覚ばかりでは無く、聴覚までも麻痺させ始めていた。カー
ステレオから流れる曲が聞き取れなくなってきた… ボリュームを少し上げると、疲
れた心に痛い。神経も過敏になってきたようだ。唇は渇き、ヒリヒリとする。早く眠
りたい… そんなあせりが、車を乱暴に扱わせる。コーナーの深みも分からないくら
い感覚も麻痺している。車体は限界まで沈み、タイヤが鳴きながらかろうじて姿勢を
保つ。峠の7合目辺りだろうか… やっと、下りにさしかかったと思う頃、谷沿いに
霧を押し上げる気流と、山頂から吹き下ろす風の境界に僅かに透明な空間が存在した
その蒼い闇の中に突然視界が開けた時、男は背筋の凍るのを覚えた… 戦慄は首筋か
ら尾てい骨に走り、股間にちじまる冷たいものの存在ををはっきりと覚えた。顔面が
ゴワゴワと皮膚の表面を覆われる様な感覚でひきつると、やがて頬の肉もこわばって
来た。

 「出た… 」

 他に、言葉が浮かばなかった。
淡い紫のシクラメンを思わせるブラウス、少し濃いめのスーツ… 長い髪は腰の近く
まで在りそうなのがはっきりと見えた。一気に通り過ぎたい恐怖と裏腹に、本能が急
ブレーキを掛けさせた。見たく無い恐怖と裏腹に、恐怖で閉ざされない瞳が凝視させ
た。

 「美しい… 」

 車のライトに浮かび上がった影は、若く美しい女性であった。
形の良い脚、魅惑の腰は形の良い丸みの後キュートにくびれ、美しく突き出した胸は
息苦しささえ覚えさせた。少し広めのブラウスの袷から覗く肌がまるで今宵のぬめら
かな霧のままの様に白く見える… 面立ちは聡明そうな大きく美しい瞳を印象に、清
楚で可憐な妖しさを醸し出している。

 まさに、化け物を見るような、呆気にとられたと言うよりは硬直したような眼差し
の中で、張りつめた緊張の糸を引きちぎったのはその美しい女性の強張った微笑みで
あった。彼女にとっても、こんな夜更けにこんな山道で車に出逢えるとは思わなかっ
たが… 男にしてみればそれ以上に、予想は愚か目の当たりにも信じ切れない事であ
る。ステアリングを握りしめたまま指が凍り付いている。やっとの思いで左側のウイ
ンドウを開くスイッチ釦を探り当てた右手の指はカチカチと震える感覚のないままで
それを押した。静かにウインドウ硝子が下がり始めると、外気の冷たい気流と同時に
闇の静寂が流れ込んで来た。ウインドウの開くのを見た彼女が羚羊の様に細い足首の
先に履いたヒールの音を響かせながら近づいてきた。慌ててウインドウを閉じてしま
いたい程、男を恐怖が襲った。が、男の指はそれ以上の恐怖で動くことを拒んだ…

 「御免なさい… 」

 美しい女性はそう云いながら、窓越しに覗き込むように少し上体を傾けた… 同時
に、長く美しい髪が斜に流れた。今宵の霧のせいばかりでは在るまい、しっとりと鴉
の濡羽の様に艶かしく見える。声は凡そ此の世のものとも思えないくらい美しい…
男が過去に天使の声を聞いたことは一度も無いが、もし聴いたことが在るとすれば、
全く同じくらい清らかで美しいものだと云えるのでは無かったか… 男は、やっとの
思いで左に向くと、微笑んで見せたが、明らかにその顔は微笑みでは無く、ひきつっ
た顔であった。にも関わらず、70年代ばりの二枚目の男はそれで充分絵になってい
た。しかし、声は… 出なかった。代わりに、先程凍えたようにちじこっまた股間が、
ホットに蠢く気配を感じた… 緊張がじわっと、とけて行くのが分かったが、恐怖は
依然続いている… 幾ら此の男が女好きとは云え、此の世のものとも思えないくらい
美しい女性を目の前にしているとは云え、此処で軟派できるほど屈強な精神は持ち合
わせて居なかった。彼女は状況を充分理解できるように、落ちついた口調で、しかし
充分恐縮して続けた。

 「御免なさい、こんな時間に… 驚きになられたでしょう…
  車を落として仕舞いましたの… どうしようかと、思っておりましたら… 」

 恐怖が少しづつ引いていく…
確かに、前方の薄闇の中に斜めになった車が、フロントを左側の茅林に突っ込んで止
まって居る。男は、やっと金縛りから解かれたかのように、身体の強張りが引いて行
くのを覚え、どうにか車の外に出られる迄落ちついてきたが、未だ彼女が幽霊で無い
と云える確たる保証は無かった。 …かりに、その魅惑的な肢体に抱きついて、肉体
的感覚を確認したところで、幽体で無いから感触が在ると判断できるかどうかの基準
さえ定かではない。話しを聴きながら、哀れに草と土を頬張った車に近づくと、車は
怒りに狂い、鼻息も荒く蒸気を吐いている… ラジェーターが壊れて居るらしい。右
側後輪は、霧に濡れたアスファルトと言い訳程度の接触を試みてはいるが、不安定に
浮き上がっている。

 「酷いなぁ… 」

 そう云ったと同時に、男の脳裏を再び恐怖が襲った。
こんなに思いっきりの良い事故をしておきながら、かすり傷ひとつ無いのはおかしい
と思った。凡そ車とは、タイミング次第では信じがたい壊れ方もすれば、奇跡に近い
くらい無傷でも在るものだ。と同時に、それは乗車して居る者にも云えることでも在
った。車が大破に近い状態でも衝撃の無い圧損の場合、運転者等が怪我をすることは
余り無い、代わりに僅かな破損でも俊速的な衝撃が加わった場合、思いも寄らぬ怪我
を負うことがある。しかし、此の状況は衝撃を伴わない圧損とも思えない…

 「良く怪我をしませんでしたね… 」

 声が、強張った。
そう云ったとたんに、世にも恐ろしい金切り笑いと共に、此の美しい女性が、山姥か
何かのように醜く変貌し、襲いかかって来そうな気がしたのだ。

 「御陰様で… 」

 美しさは全くそのままで、彼女は答えた。

 「しぶとい… 」

 きっと、もう少し深みに誘い込んで、きっと二度と在りはしないくらいの恐怖を与
える気に違いない… そんな事を取り留めも無く男の心が満たしたが、確かめる勇気
も術も無かった。何れにしても、此の状態では車は使えない… 取りあえずは、彼女
を自分の車に乗せて、この場を離れる以外に無かろうかと思った。ふと、腕時計を見
ると1時37分…

 「嫌な時間だなぁ… 」

 とは、思ったが。

 「明るくなるまで、此処に居るわけにも行かないでしょう… 」

 男は、仕方なくそんな風に切り出した。彼女は少し戸惑いながら、頷いた。確かに
このまま朝まで此処に居ても致し方はない。しかし、車を此処に放置したまま立ち去
るのも躊躇われたのだ。が、結局は男の云う通りにせざる得ない事も分かっていた。

 「此の麓に一寸したホテルが在りますから…
                    其処まででも、お送りいたしましょう」

/* 男は自分の云った“ホテル”と言う言葉に妙な興奮を覚えてしまい、次の言葉が
 続かなかった。彼女はそれ以上に[危険]と云う予感を覚えた。(嘘)・・・ ^^; */

 「とにかく… 此の車を放置できる状態にしなくては… 」

 男は、彼女に車のハザードを着けるように云い、遮光板を車の前後に置く事くらい
で仕方ないだろうと指示した。ハザードもバッテリー液さえ被害を受けていなければ
明るくなるくらいまで何とかなるだろうと… その場しのぎの気休めでもあったが、
焚ないよりましだと思った。遮光板は、彼女の車にはひとつしか無いと言うので、男
の車の物も使うことにした。男が自分の車のトランクをのぞき込んだ時、彼女もまた
自分の哀れな車のトランクを開いた所であった。

 「ひぃっ…… きゃぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 男は、そのままトランクの中に飛び込んで、蹲って仕舞いたいほど驚いた。
彼女の悲鳴である。吸い込んだ息が喉につっかえ、それをなおも無理して吸い込もう
としたような短い呼吸の後、闇を切り裂き序でに月までも真双つに割ってしまいそう
な悲鳴が突然響いた。

 「あほっ… 」

 我に返るより先に、その悲鳴が、山姥の金切り笑いでは無く、美しい女性のそれだ
ったので、驚きはあったが、恐怖には繋がらないことを本能的に悟って出た言葉であ
ったが… 車越しに何事かと彼女の方をみると、彼女は、あんぐりと口を開けたトラ
ンクの前で、硬直したままマネキン人形のように突っ立て居る。訝しく思いながら近
づいた男を、形容し難い恐怖が打ちのめした。彼女は、男の気配を背中に感じると、
安心仕切ったのか身体の力が一気に抜け、寄り掛かるように倒れた。それを支えた男
も、卒倒してしまいそうな恐怖に襲われていた。彼女を気遣う余裕もそこそこに、此
の事態をどう理解すべきか… 腕の中に背をもたれる彼女を自分の方に向けなおすと
彼女は、かろうじて残る意識の中でその大きな瞳を伏し目がちに開き、男に何か訴え
たそうに力無く首を左右に振った… 男は、未だ言葉が見つからないで居たが、彼女
を見つめるその目は、確かに、彼女に答えを要求していた。どのくらいの時間が経っ
ただろうか… 恐らくは、一分と経っていないだろう… 男がやっとの事で言葉を見
つけだした。

 「君は… 」

 しかし、それがやっとだった。

 今度は、彼女が譫言のように口を開いた。

 「私じゃありません… 」

 彼女は、それだけ云うと、また力無く首を左右に振るのであった。
男は、彼女を右手で胸に抱くように支えたまま暫くトランクの中を凝視していたが、
そのまま左手で静かにトランクをしめると、自分自身が落ちつくのも待つ為でもある
かの様に、言葉もなく彼女を力づけるように優しく抱きしめた。
/* 決して彼女の豊満な肢体を堪能する為ではない…… アヤシイ ^^;  */

 「此処に居てはいけない… さぁ、私の車に乗って… 」

 暫くの時が感覚も無く流れて行き、男は静かに囁き彼女を促した。
力無くもたれ掛かる彼女をそのまま抱えるように、自分の車の助手席に乗せると、男
は自分のスーツの上着を脱ぎ彼女にかけてやった。 /* 別に彼女がミニスカートの為
ムチムチの腿が気になって運転できないからでは無い……  ^^; キャイーィン */
 先程までの眠気が嘘のように消え去り、代わりに無睡の覚醒に似た異常な感覚が、
否応なく神経を刺激する。事故車の側を静かに通り過ぎ、男はアクセルを踏み込んだ。
先程までの乱暴な運転ではない。助手席の彼女を気遣う為だけでもない。いやに落ち
着き払っていた。ビードロの響きの様な刺激が神経を逆撫でしていたが、男の心は、
深夜の滑走路に着陸しようとするジャンボジェット機の主翼のように、また、それを
迎える滑走路の両脇に連なる導灯の様に奇妙に悠々としていた。

 「まさか… 君が今夜の霧の原因だったとはねぇ… 」

 男のの口調は実に穏やかなものだった。

 「あら、私本当に知りませんでしたのよ… 」

 女も幾分落ちつきを取り戻している。

 彼たちが車のトランクで見たものは…
 << キューピット磁石 >> と云う、巡り会う筈の男女なのに、なかなか巡り
会えない男女のために開発された新製品の試作版で、その二人が在る圏内に入ると、
突然、濃い霧(恋霧)を発生させて周りを隠し、お互いノミを見えるようにさせる装
置だったのだ… 彼女の知らない内に、家族の誰かが忍ばせておいたのだろう…
しかし、試作版とは云え… 裸体の男女が絡み合ったデザインは… 如何にもアカデ
ミックで在った…

                                 聖 紫




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