#348/1336 短編
★タイトル (XVB ) 94/12/31 22:15 (200)
覆面>恋人
★内容
三ヶ月の間だ休日も無く、残業続きで家に帰るのは入浴と睡眠の為と云えるような
生活が続いていた。此の不景気な時期に有り難い事と思いながらも、やはり、内心は
世間並みの暇が欲しい等と不謹慎な煩悩もちらちらと灯るくらいの余裕さえあったが
仕事が一段落して、ふと平常な生活に戻ると、突然分けの分からない淋しさが襲って
くる事に気づいた… 仕事をしていないと不安だと言うのでは無く、仕事にかこつけ
て紛らわせていた何かを思い出す… そんな自分に気が付けるだけの時間的余裕が出
来たのであろうか… ぽかんと空いた時間の使い道を持て余していた雅に突然電話が
掛かってきた。受話器をとると、懐かしい志津馨の声が聞こえてきた。会って話した
い事が在ると言う。電話は何時も掛かって居たのかも知れない… ただ、雅がその時
空に居合わせなかっただけで… ぽっかり空いた時間は常に存在せず、絶えず何処か
で、ぎゅうぎゅう詰めになって居るような気さえしてきた… どうせ、持て余しそう
だった一日を、持て余さずに済む… そんな、気軽な気持ちと、久しぶりに志津馨に
あっても観たいと言う雅の素直な衝動が、その日の午後を約束させた。
師走の街は例年と変わらず、緩やかな微睡みにも似た昼下がりは、人混みと白けた
イルミネーションの雑踏に彩られ、目的のそれぞれが違う癖に全く同じものような無表情な流
れの中で突然開けた様な錯覚を覚える辻の一角に志津馨は待っていた。雅が志津馨に
会うのは3カ月ぶりだろうか… 忙しくなる前に一度会った切りだから、もっとたつ
かも知れない。 二人は、久しぶりに会う、お互いの代わり無い事を喜び合いながら、
決まっている路を歩き始めるように、どちらからとも無く歩き始め、何も言わなくて
もわっかている場所のように、ひとつの カフェテラス へと消えた。其処は、雅と志津馨の
お気に入りの場所で、決まって二人の時には此の店へと足が向く。
「ねぇ、雅… そろそろ、結婚してみない?」
珈琲を運んで来たウエイトレスの娘を目で追う雅をみながら、志津馨が優しい声で
話を切り出した。
「志津さんとだったら良いよ… で、何時?」
今度は、志津馨が立ち去るウエートレスの娘をみながら少し紅くなって答えた。
「馬鹿ねぇ、私には武郎が居るでしょう。」
雅は珈琲をひとくち、さも熱そうに呑むと、煙草を取り出しながら無造作に答えた。
「私は未だ結婚なんて考えていないよ… 」
自分のくわえた煙草を煙たそうに見つめたあと、雅の瞳が志津馨を見つめた… 様
に見えたが、志津馨にはその視線が自分を突き抜け、遥か彼方の遠い所に焦点が在る
事に気づいた。
「今日は、涼子ちゃんはどうしてるの?」
一瞬、雅の焦点が志津馨の視線に合った。
「武郎と遊園地に行ってるの……
後で一緒に夕食をって、武郎が言ってたわ、雅、時間は大丈夫なんでしょう?」
志津馨は珈琲に落としたミルクを静かにスプーンでかき混ぜながら答えた。そうす
る事で、雅の視線をやっとかわすことが出来たと言った方が良かったかも知れない。
「今日は大丈夫だよ。そうかぁ、久しぶりだなぁ、武郎さんと食事するのも…
…… と言う事は、夫公認で夕方まで私とデートって事ですか… 志津さん」
「そうね、久しぶりにゆっくり雅と話が出来るわ… 」
「何処行こうか… 時間はたっぷり在るよ… 何だったら、此のまま駆け落ち
する?」
雅はいつもの冗談のつもりで、また、志津馨と久しぶりにゆっくり逢えた事の歓び
を素直に表現する積もりでおどけて見せたのであったが…… 志津馨には、未だ少し、
心にチクリと感じる言葉でも在った。
「そんな風に話を紛らわせないで、真面目に考えてみてよ…
お話しが在るうちに決めなきゃぁって… おばさん心配してらっしゃるのよ
… 誰かすきな人が他に居るんだったら、その人のことも話してくれれば良
いのにって… もう7回も断ったんでしょう? 今回だって、写真も見ない
で突き返したんですって? 良いお嬢さんらしいわよ… 」
自分でも、何故こんな話の展開になったのかが分からないけれど…… 雅の母親に
持ちかけられた相談は、何故雅が頑なに結婚を拒むのか、見合いまでもしたがらない
理由を、古い付き合いのある志津馨に聞き出してみて欲しいと言うものだった。確か
に、学生時代には雅の家にも何度か訪ねた事もある。卒業してからも、雅が在学中に
は頻繁に逢って居たこともみんな知っている。志津馨が結婚してからでさえ、時折、
こうして在って話事は珍しいことでも無いのだ…… 夫の武郎が、雅の事をよく知っ
ているから騒ぎにならないくらいの事で、もしそうでなかったら… 世間で言う怪し
い関係では無いかと誤解を招きかねないくらいに二人は深い友情で結ばれて居た。武
郎は、兄弟の居ない志津馨にとって、雅が唯一の姉弟の様だと云い、事実武郎自身が
雅のことを義理の弟の様に思い、してくれる事を、志津馨も、雅の母親も有り難く思
っていた。雅の母親が志津馨の所に来て、此の相談を持ち出した時、武郎から志津馨
に尋ねさせますと切り出した時は、志津馨自身夫の自分への信頼の深さと、雅との友
情を認める寛容な態度に改めて深い愛情を感じたものであった。と、同時に… 雅が
未だに先を見つめない、頑なに不安定な状態を続ける理由が、或いは志津馨の心当た
りの在ることかも知れないのに、答えることの出来ない自分自身が何か大きな罪を隠
そうとしている罪人の様な気持ちにもなるのだった… 確かめなくては… 志津馨は
そう思った。雅の優しく笑みをたたえた瞳をぼんやりと眺めながら、志津馨は先程の
雅の遠く焦点の定まらぬ… 端からはそう見えるが、雅の中では確実に在る一点に焦
点が合ってる… そんな瞳を思い出していた。
……あの日のままなんだわ……
志津馨は、或いは雅が結婚したがらないのは、もっと単純な別な理由からで在ろう
事も微かに期待していたのだが、それとはまた別の、雅が結婚しない理由は志津馨自
身が一番良く知っている…… と言う、一番辛い話の展開に向かおうとしている事に
恐怖さえ覚えるのであった。
「雅だって、何時までも独りで居るわけにはいかないのよ」
静香の脳裏を十年前の緊張が走り抜けていった。
一瞬、頭の中を真っ白い霧が包みこみ、息苦しささえ感じた一瞬…… あの日と同じ
言葉を繰り返した自分の唇が微かに震え始め、鼓膜を突き破るように自分自身の耳か
ら聞こえ、真っ白い心に突き刺さり、其処から得体の知れない寒い風が一面に吹き荒
れるのを感じた。
「独りじゃ無いよ」
雅の突き刺さる様な視線を感じた。
志津馨の瞳を凝視し、雅は独り言の様に云ったが、志津馨には冬の遠雷のように、心
から、身体までも震撼させる様な轟きの様に感じられた。そして、雅の痛い視線の焦
点は、志津馨の瞳を突き刺し、貫き、遥かその後方で焦点を結んで居る事に脅えた。
「お願いだから… もう、忘れて……」
泣き出しそうな声でやっとそう云った志津馨は、何を云ったのか自分でも良く分か
らない…… そんな感じだった。
「志津さんが居る」
一瞬の恐怖と、緊張をその一言が和らげた。
「馬鹿」
志津馨は、少し照れくさそうに微笑みながら、瞳に溢れそうな涙のまま、雅を見つ
め返して続けた。雅が結婚を拒む理由が紛れもなく遠い過去へと向けられた頑なな迄
の拘りだと云うことはもう疑う余地は無い……
「もう十年が来るのよ… 何時まで拘ってるの… 」
「拘って居ないよ
だから、こうして平気で逢って、話して居られるんだよ」
雅は、あくまでも戯けてみせる。
確かにひと頃は、雅が結婚をしないのは、志津馨のせいでは無いかと二人を取り巻く
者達に思わせていた。雅の母親でさえ、武郎でさえ、もしかすると… などと、真剣
に考えた事もあったが、当の本人同士が全くそんな関係で繋がっていない事を知って
居たし… 結局は、全くの見当違いな見解であった事は、今では周知の事であった。
「そうじゃ無いでしょう… 本当に怒るわよ…
何時までも若くは無いのよ… ほら、お腹だって最近出てきてるじゃない…
梅田さんも心配してらしたわよ… 折角いい男なんだがなぁ、何時までも遊
んで居ないで、速く腰を落ちつけてくれなくては… 対外的にも不利になる
んだが… って…… 別に遊んでると言う分けではないだろうけど…雅の様
な人が今でも独り身だって言うのは、端から見れば良い方にはとってくれな
いってこぼしてらしたそうだし… 」
志津馨は少しづつ落ちつきを取り戻していく自分を感じながら、話し続けた。
雅が何時までも過去に拘るのは、志津馨自身良いことでは無いと思い続けていた事で
もある。出来れば、そろそろ、新しい路を歩く事を望んでもみたい。そうする事で少
しは頑なな拘りも薄らぎは仕舞かと… 薄らいでくれるだろうと願うのでもあった。
「梅田さんが、お話しを持って来られたときも、お嬢さんが卒業するまで待っ
てますってはぐらかしたんでしょう? 梅田さん自身は、半分本気になられ
てお喜びになられた様だけど… 半分は、かつがれて居るような気がするっ
て… 」
雅は取締役付部長梅田の直轄の部下であった。
仕事で総てを忘れようとする雅の仕事ぶりは、回りの者を脅かす迄の気迫がみなぎり
中間管理職では扱いきれない… と言うのが実際の所であったが、梅田が雅をそこ迄
認めるには、仕事の気迫実績もさることながら、人間性も充分に評価したうえで、独
りの青年としても認めて居たからに他ならない。
「酔っていたんだよ、部長も、私も… 覚えて居ないよ… 」
しかし、当の雅はそんな事は殆ど気にもかけていないのである。
「悪巫山戯ばかりしていないで… 真面目に考えなさい」
やっと、やわらぎかけた雰囲気の中で、志津馨は最後の珈琲をすすりながら、雅を
怒るような目で見ながら云った。その瞳は先程までの感情とはまた別な、大きな瞳を
持つ者特有の妖しい輝きが一層志津馨を美しく見せていた。
「武郎さんもこの話の続きをするつもりなんだろうか…」
やはり志津さんは、可愛いなぁ… 等と、訳の分から無い事を考えながら、雅は話
しを繋ぐ。
「武郎はしないでしょう… 結婚しろとは言うでしょうけど…
あの人は何も知らないのよ、うっすらと… くらいでしょう… 話して居な
いの… 」
雅は、2本目の煙草に火を付けて、暫く紫煙の行方を楽しんだ後、ぬるくなった珈
琲を飲み干して、いつもの様に静かに話した。
「結婚なんてしなくても良いよ… もう、何も拘っていない……
本当にいい人が見つかったら、誰が反対しても… 今度こそ、一緒になるさ」
投げ遣りでもなく、志津馨を安心させるための嘘でもなく…… 結局、答えなんか
出ないことなんだよと、寂しそうな瞳が追想を補って居る様でもあった。
「本当にそうなの?」
と、聴きかけて志津馨が念を押せなかったのは、何気ない仕草で左を向いた雅の優
しくて悲しそうな瞳に見つめられて… 今にも雅と肩が触れんばかりに寄り添い、あ
の日のままの愛くるしい微笑みを返す裕子の姿をみたからである…… 志津馨は青ざ
めていく自分よりも、一生、雅の左に生身の女の子が寄り添うことは無いのだと…
諦めにもにた安堵感が沸き上がるのを感じていた。