AWC お題>劇場                     スパマン


        
#340/1336 短編
★タイトル (GVM     )  94/12/13  12:41  (198)
お題>劇場                     スパマン
★内容
 嵐が近付いていた。大気が震え、波打ち、うなっている。雨はますます激しくなり、
彼はどこかで雨宿りしたいと思った。二本も骨の折れた傘では、傘の役目を果たしてい
るとは言えないのだ。
 「くそっ!よりによって、こんなときに。」と、毒づいた。
 居眠りをしていて、電車の駅を一つ乗り越してしまったのだ。普通なら、駅で戻りの
電車を待てばいいのだが、最終電車では、戻りの電車は明朝6時。その小さな駅で眠る
こともためらわれた。都会ならば深夜喫茶の一つや二つすぐに見付けることができるだ
ろうが、あいにくここは田舎だった。駅を出れば暗黒の世界と言っても良かった。
 雨も降っていたが、彼は意を決して、歩いて戻ることにした。せいぜい、2、3キロ
のものだろう。小走りで行けば30分も掛からぬだろうと思ったのだ。もちろん月もな
く星もなかったが、歩き始めれば目は闇に慣れて道は辛うじて見えた。
 だが、雨はますます激しくなり、雷まで鳴り始めた。
 ふと前方に明りが見えた。赤と白の看板だった。コーヒーという片仮名が見える。
 「お、こんな所に喫茶店があるのか。」
 そう思ったが、こんな田舎では、まさか深夜に営業しているはずもなく、おそらく看
板を消し忘れたのだろうと無理に考えた。彼はいつの間にか、すべてに対して期待をし
ないようになっていたのだ。その期待が裏切られたときが辛いからだ。だから、心をな
るべく硬くして、感動もなくすように努めていた。
 しかし、その店はどうやら営業しているようだった。店の中には明りがともっている
し、硝子をはめ込んだ格子のドアには、営業中の札が掛かっている。そして、その札の
下に「深夜営業中  セネカ」と小さい貼り紙があった。
 (こんな所で!)と驚きながらも、彼はドアを引いた。
 カランカランと、カウベルが鳴った。かなり広い店であった。ボックスが8つもあり
ドアを開けてすぐの正面のカウンターにはスツールが10は確実にあった。
 「いらっしゃいませ。」
 白いレースのエプロンをした若奥様風の女性が、カウンターの下からすうっと立ち上
がった。
 豊満な胸の美人だった。彼は一瞬絶句し、彼女を見つめてしまった。女性がにこりと
微笑むのに気付いて、慌てて視線をそらした。彼のほかには客はいないようだった。そ
れはそうだろう、こんなへんぴな所で営業しているのがおかしいのだ。
 「雨が止むまで居てもいいですか。」
 ほかに客が居ないので、注文したものをわざわざボックスまで持ってきてもらうのも
悪いと思い、カウンターについた。
 「どうぞ、ごゆっくり。朝まででもいいですわよ。」
 「ありがとう、熱いコーヒーをとりあえず…」
 彼女は、初々しく微笑んでコーヒーを立て始めた。豊満な胸の間には金色の十字架が
光っている。その十字架のことを聞きたかったが、胸を見ていたことを知られたくなく
て、彼は違うことを聞いた。
 「あのう、こう言っちゃ何ですが、ここじゃ商売にならないんじゃないですか。」
 「はい。そうですね。」
 「じゃ、どうして、」
 「趣味なんですのよ。」
 「深夜営業が?」
 「はい。」
 変な女性だと彼は思った。ひょっとして、彼は狐狸の類に化かされて居るのではない
かと思い、こっそりと頬をつねってみた。
 「ほほほ…」
 ふいに、女が笑いだした。どうやら、彼のしぐさに気付いたようだ。彼は顔が真っ赤
になるのが分かった。
 「あら、ごめんなさい。でも、私は正真正銘の人間ですわよ。」
 「は、はい…」
 「で、どうでした、」
 「はあ、」
 「ほっぺ、痛かったでしょう。」
 確かに痛かった。これは夢でも何でもない。現実なのだと結論した。
 彼女は、きびきびとした態度でコーヒーを入れ、それを彼の前に置いたとき、奥の小
さなドアが開いて、黒のセーターに黒のズボンの、鋭い目付きの痩せた男が出てきた。
 「主人ですの。」
 彼女はその主人の方を見ずに言った。やはり、人の妻だったのかと残念な気がした。
 ニヒルな秘密警察官とでも言った風情の主人は、適度に丁寧な挨拶をした。それはま
さに適度なものだったので、彼は、お客だということを忘れずに済んだ。ところが、コ
ーヒーカップを手にして、熱い液体をすすり始めたとき、その主人は言った。
 「あなた様のナイフをお預かり致しておりました。」
 「はぁ?」
 「あなた様のナイフをお預かり致しておりました。」
 「何ですって?」
 「あなた様のナイフでございます。」
 喫茶店の主人は、そう言って、細長い黒い箱をセーターの下から取り出した。その動
きで彼は一瞬腰を抜かしそうになった。しかし、ヤクザのどすのように隠し持っていた
訳ではなかった。まさに肌身放さずに持っていたという感じであった。
 「人違いだろ。僕はナイフなんて知らない。」
 「いえ、人違いではございません。あなた様にお渡しするものでございます。」
 「そんな…!」
 「詳しくお話すれば、長い時間がかかるのでございますが、簡単に申せば、私がさる
お方から、預けられたものでございます。そのお方は、こう申されました。『10年後
この場所に一人の若者が来る。その者にナイフを渡し、我が国にお連れ申せ。』と。」
 彼は夢でも見ているのではないかと疑った。だが、そうではないことは先刻確かめた
ばかりではないか。夢でないとすれば、この主人がおかしいのか。女性の様子を見ると
別に動揺しているふうでもない。じゃ、二人して、からかっているのか…。
 「冗談は止めて下さい。」
 「この人の言うことを信じて下さい。」女性が口を出した。
 「冗談じゃありませんし、狂ってるわけでもありません。」
 「じゃ、からかってるんだ。」
 「違いますわ。信じて下さい。」
 「とにかく、御覧下さい。」
 ニヒルな男はその容貌に似合わないもたもたした手つきで箱を開けようとした。それ
を若い妻が手伝った。箱は境目にろうでも流してあるのか、なかなか開かなかった。
 間が持たず、彼はコーヒーをすすった。冗談にしろ、本気にしろ、このコーヒーを飲
み干して金を払ったら、さっさと店を出ようと決めていた。
 「御覧下さい。」
 男は彼の前に箱を置き、ふたを取った。見ると、それは、刺身包丁ような形をしてい
た。幅が狭くて長いのだ。刃の長さは二十センチぐらいで、黒い柄の中央に宝石が埋め
込まれていた。いや、ガラスだろう。直径二センチぐらいもあって、ダイヤのように輝
いている。そんな大きいものは、偽物に違いない。
 「お手に取って、御覧下さい。」
 男は、彼が興味を示したのを喜んでいた。彼はためらいがちに手を伸ばした。
 ナイフには普通のものと決定的に異なる点があった。刃の断面がT字形になっている
のだ。そんなものを見るのは初めてだった。彼はしげしげと見詰めた。
 「その宝石は、本物でございます。」
 「本物のダイヤですのよ。」二人して言った。
 彼は、腹立たしくなった。そこで水の入ったコップを左手に取り、ナイフの柄をこす
り付けた。コップのガラスは、いとも簡単に傷付き、どうせ偽物と、高をくくっていた
彼は見込みが外れて戸惑った。
 「本物かどうかは解らないが、とにかくガラスではないようですね。」
 「本物ですよ。」
 「でも、要りませんよ。」彼は箱にナイフを戻しながら言った。
 「もらう理由がない。本物なら、なお更にね。」
 「信じて下さい。あなた様のものなんです。」
 主人が焦っているのが解った。なぜ、こんなものを受け取らせようとするのか。
 「そうだ、その国と言うのは、どこなんですか。」
 「それは、まだ申せません。このナイフを受取り、行くと約束して頂かなければ。」
 どうして、ナイフを受け取らせることに固執するのか解らなかった。(まさか、この
ナイフで、誰かが人殺しをやったんじゃ…そして、その罪を誰かに…)
 そう気付いた彼は、慌ててナイフをつかみ、ハンカチを出して柄に付いたはずの指紋
を拭き取った。
 「そんな心配はご無用です。」若妻は微笑んでいる。
 主人は言った。
 「異人が話す言葉を話し、異人が聴く音楽を聴いて、異人が食べるものを食べ、異人
が住むこの世界に住むことが、はたして幸福なのでしょうか。」
 「何を言ってるのか、さっぱりわからんよ。」
 「あなたの住むべき世界は、この世界ではないのです。」
 彼は、とんでもない喫茶店に入ってしまったのだと思った。早く店を出るべきだ。
 「帰ります。」
 彼はそう言って立ち上がった。主人が悲しそうな目をする。若妻の姿が消えていた。
はっと気付いたときには、ふっくらとした手で、口と鼻に布を当てられた。つんとした
刺激臭が、脳の中に染み込んだ。そして彼は、そのまま意識を失った。
 「さあ、行きましょう。」若妻は手にしたハンカチを床に捨てた。
 「ああ、仕方がないな。ま、素直に来るはずもないが。」
 男は、気を失った彼の体を軽々と担ぎあげて、奥の部屋に入った。若妻が店の看板の
明りを消し、後を追った。

 彼が目覚めたのは、喧騒の中だった。石の椅子に座っていた。コロセウムだ。そして
その巨大な石の広場には、彼が映画で見たようなローマ時代の観衆がいた。
 彼は、まだ脳がしびれているような気がした。太陽はいかにもまぶしく、何度も目を
きつく閉じて意識をはっきりさせようとした。彼は右手をそのだぶだぶの衣装の中に入
れていた。そして、その手の先にはあのナイフがあった。彼は驚いたが、それを取り出
してはいけないと知っていた。まだ早いのだ。待たなければならない。彼の目標は目前
に居るが、まだ待たなくてはならないのだ。
 (何故?)思い出そうとしたが、まだ脳はしびれていた。
 大観衆は沸きに沸いた。生け贄が引き出されたのだ。それは、あの喫茶店の若妻であ
った。取り乱した様子はない。むしろ、不敵な笑いを浮かべているようにも見えた。
 4人の奴隷が、彼女を平たい石の台に縛り付けたときも、彼女は平静であるように見
えた。衣装が奴隷たちによって引き裂かれ、全裸にされてしまったときにも落ち着いて
いた。彼女が動揺したのは、十字架のペンダントを引きちぎられたときだけだった。彼
の胸は熱くなった。だが、まだ動くわけには行かない。
 (合図はまだか?)彼は待ち焦がれた。合図があっても、どうするのか知らなかった
が、きっとこのナイフが教えてくれるのだと信じていた。
 観衆という観衆はすべて、生け贄の台に注目していた。ひときわ大きい歓声があがっ
た。そしてラッパが鳴る。無数のラッパが、感動的にコロセウムを音で満たした。何も
知らぬ善良な人々は口々に「皇帝万歳」を唱える。皇帝は、いかにも満足したふうに、
右手を優雅に挙げた。大観衆の声もラッパの音も一瞬にして消滅する。
 誰もが、皇帝の言葉を待った。静寂である。
 だが、言葉はなかった。皇帝は満足そうに右手を降ろすと席に着いた。再びラッパが
鳴る。今度はちょっと小さく、処刑人の登場であった。
 処刑人は、長剣を軽々と振り回しながら登場し、それを大地に突き刺し、皇帝に恭し
く一礼した。そして、その顎のとがった男は、その先が裂けていたならまるで蛇の舌の
ような細い舌で、唇をなめながら女の白い腹に、長剣を当てた。
 彼は、はっとした。だが、合図は無い。
 長剣が強い日差しにギラと輝いたかと思うと、処刑人は何のためらいもなく、力を入
れた。そのまま突き刺したのだった。それは実にゆっくりと行われた。女の恐怖の悲鳴
は長く長く続き、石の建物にまるで煙がたなびくようにゆっくりと伝わって行った。
 男がそういう術に長けているのは、明らかだった。人はこんなにも長く、獣の遠吠え
以上に、悲鳴を発することができるのかと、誰もが耳を疑った。
 そして、こんな苦痛を与えるよりもいっそと、誰もが思ったとき、一際高く女の断末
魔の悲鳴が上がり、ふっと、こと切れた。彼の脳のどこかが、みしりと音を立てた。
 自分は合図に気付かなかったのではないのか。その過失が、女の命を奪ったのではな
いかと不安になった。いや、そんなはずはない。合図は、まだ無いのだ。彼はそう信じ
た。信じたかった。
 そして、待ち続けるうちに、すべての儀式は終り、5万の人々は立ち去った。
 彼は、誰かが声を掛けてくれるのを待った。だが、声を掛ける者など誰ひとりとして
居なかった。やがて巨大な円形劇場は夜になり、彼は、ふらふらと立ち上がり、放置さ
れた生け贄に近付いた。いけにえの女は、かっと目を見開き、天を睨みつけていた。そ
の眼が睨んでいるのは、天上の星などでは無く、彼だとわかった。
 合図はあったのだ。彼女の悲鳴が合図だったのだ。彼女はまさに命懸けで、その合図
を彼に伝えたのだ。彼女がすべての観衆の注目を集めている間に、彼は行動しなくては
ならなかったのだ。だが、動けなかった。逡巡したのだ。ためらったのだ。そして今、
彼は後悔していた。女の命を無駄にしてしまったのだ。さらに悪いことに、その失敗を
取り戻す機会が二度と無いことがわかっていた。彼は、夜のコロセウムに立ちすくんだ
ままであった。
 「本当に、あの男がそうだったのか?」
 老人はコロセウムの巨大な石柱の陰で、深夜喫茶のマスターの男に問うた。
 「はい。それは間違いございません。」
 「ふむ。では、異人の世界で、すっかり腰抜けになったということだな。」
 「御意。かの世界では『カネ』とやらがすべてでございまして、正義や勇気などは何
の役にも立たぬものとなっているようでございます。」
 老人は落胆したようであった。
 「恐れながら、あの男をいかがいたしましょうか。」
 髪も髭も真っ白な老人は、しばらく間をおいてから言った。
 「放っておけ。いくら勇者の血筋とは言え、腰抜けはいらん。」
 「では、異人の世界に…」
 「それはならぬ。民の中におき、子でもなせば…、ほれ、何と申した?」
 「恐れながら、『隔世遺伝』でございますか。」
 「うむ。それよ。それに、異人の世界での毒が失せれば、暗殺は無理としても反乱ぐ
らい起こせるかも知れぬて。」
 「御意。」
 「異人の世界では、違う世界に行くと超人となって勇気を示し、大活躍する物語が数
多くあるそうだが…、現実には難しいものよのう。」
 友人セネカの仇、暴君ネロを討たんとする老人は、そう呟くと去って行った。




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