#286/1336 短編
★タイトル (SKM ) 94/ 8/15 13:38 (145)
鴉 タキオン
★内容
「響子、なんで何時もミルクティばっかり飲むんやぁ?」
同じ女子高のクラスメートのゆかりは、自分のホットコーヒーをスプーンで、も
てあそびながら尋ねた。
「腐敗臭があるから‥‥」
「うん?」
ゆかりは思いがけない『ふはいしゅう』という単語に、意味を当てはめかねた。
「熱い紅茶にミルク入れた瞬間、ちょっとだけ腐敗臭がせぇへん?」
「ああん?」
ポカンとしているゆかりを突っつきながら、傍らの朋美がにぎやかに話題をそら
した。
「なぁなぁ、2年B組の佐竹、知ってるぅ? あの女、むっちゃ笑けとるでぇ!」
響子は二人のおしゃべりをぼんやりと聞きながら、ふと喫茶店の出窓に置いてあ
るガラスの花瓶に挿されたピンク色の薔薇に目をやった。もう挿してから日がたつ
のか、花びらの端は薄い茶色に変色していた。既に数片の花びらが出窓の板の上に
散らばり、蒸れたような芳香を放っていた。
響子は一枚の花びらを手に取り、その匂いを嗅いだ。薔薇は枯れかけが一番、甘
酸っぱい匂いを放つと思った。みずみずしさを失いかけ、枯れようとする花に蓄え
れられていた余剰の命が、もはや持ち越すことの出来ぬのを知り、豪奢な浪費とな
って溢れ出し、立ち昇ってゆく。
響子は三年前に祖母の死んだ日を想いだした。父の母、響子の祖母の松代は、孫
に厳しかった。父の実家に行き、叱られ、和裁用の竹の物差しでせっかんされた記
憶しかなかった響子は、祖母を嫌っていた。祖母は響子の目の前で死んだ。祖母の
大事にしていた皐月の鉢を誤って割ってしまった時、祖母は眉根にしわを寄せ、
「響子さん! あんたぁ!」
と、甲高い声で叫んで、そのまま崩れ落ちた。その声を最後に祖母は二度と声を発
することはなかった。
病院のベットに横たわる祖母は血の気を失い、白っぽく粉を掃いたような美しい
肌に見えた。癇の強さを際だたせていた、眉根のしわ、口元のゆがみは、筋肉の弛
緩とともに失せ、穏やかな優しげな表情だった。
響子は何故か憎しみを感じなかった。
「おばぁちゃん」
手を握られた祖母は眼を開け、力なく微笑んだ。
『美しい』と、響子は思った。まるで、憎まれ者役を演じていたデレビドラマの俳
優が撮影を終え、ほっとして素顔に戻ったかのように安らぎと善意に満ちていた。
祖母は眼尻に涙を滲ませ、響子を見上げた。床下に蓄えるようにして、出し惜し
みしていた貴金属を孫の為に全部ぶちまけたように、美しい笑みだった。
廊下をばたばたと駆けてくる足音が響いた。ナースセンターで心電図のモニター
の異変に気付いた看護婦だった。看護婦が激しくドアを開いた。バーンという音が
響いた刹那、まるで出来すぎたテレビドラマのように、祖母は『物』に変わってい
た。
「こないだ、自分とこの学校の屋上から飛び降りよった、女子高生おったやろ」
「知ってるぅー! テレビで見た、見たぁ!」
「あいつなぁ、中学一緒やってん。あいつ、昔からイケイケやってんで。あんなん、
学校が隠しとるけど、屋上でアンパンやっとって、頭イカれて落ちよったんや。絶
対、自殺ちゃうわぁ!」
「あるある! シンナー吸いすぎて、ずうっと地面が続いとると思て、フェンス乗
り越えよるんやろ」
「去年、あいつがな、男にバイク乗せてもろてるの見たんや。男、めっちゃヤンキ
ーやんか。バイクかて暴やん丸だしのピンク色や、吐き気したわ。ほんでなぁ、私
が、『オオー』ゆうて、手ぇ上げたったたら、男、ニヤッと笑いよってん。ほんだ
ら、歯ぁボロボロ!」
「うっそおー! シンナーでか?」
「決まってるやんかぁ」
ゆかりは急にニヤニヤして、ぼんやりしていた響子の肩をこずいて言った。
「響子なんか、小学生の時からやっとるでぇ!」
響子とずっと同じ小学校、中学校と通い続けたゆかりが、自慢気に言った。
「うっそぉー! ほんまぁ?」
響子はまだぼんやりと薔薇を見つめていた。
「ほんまやて、五年の時な、新しい担任が転勤して来よってん。そいつ、むっちゃ
恐かってんで。響子な、昔からなぁ低血圧で青白うて、ボーッとして、アブナそう
に見えてん。ほんで、担任な響子を職員室に呼び出して、すごみよってんで、
『田宮! お前、アンパンやっとるやろぉ! 嘘ついてもあかんどぉ』」
キャッハッハッハー!
と、朋美はけたたましく笑った。
「響子、ほんまにやっとったんかぁ?」
ゆかりが替わりに答えた。
「やってるかいなぁ! そやけど、その担任信じよらへんねん」
「ほんまや! 響子て、普段でも、むっちゃブッチしてそうに見えるやんか。そや
けど、小学生でアンパンやゆうて、疑われたら、高校生やったらどないなるねんな
ぁ!」
ゆかりは、いきなり響子の左腕をまくり上げた、腕の青白い静脈が透いて見えた。
「田宮! お前、シャブ、やっとるやろぉ!」
「アホッ!」
響子はゆかりの腕を強く打った。
キャッハッハッハー! と、ゆかりと朋美は笑いころげた。
響子は確かに雲の上を歩むように、普段からぼんやりしている。しかし、ゆかり
と朋美は響子に一目置いている。何故なら、響子の張ったテスト問題のヤマの的中
率八十パーセントに、世話になりまくっているからだ。響子はぼんやりとしている
が、異様に感が鋭い。トランプのゲームで負けたことがない。ただの直感だけで札
を引いているのだけのなのだが。だから、響子は皆から、
『巫女さん』
と、呼ばれている。
「朋美、あんたぁ‥‥、アンパンやったことあんのんかぁ?」
朋美はニーッと笑った。
「それがなぁ‥‥。むっちゃ、キモイ。気もいねんでぇー‥‥」
喫茶店を出て、響子は二人と分かれ家路についた。既に、夕闇は迫り、西の空は
茜色に染まって黄金色の雲が漂い、中天はプルッシャンブルーに淀み始めていた。
そして冷たい群青と、燃える炎の狭間、その緩衝地帯として透明なレモン色の空が
誰にみとられることもなく、ひっそりと広がっていた。
響子は何かに急かされるように歩きだした。
『腐敗臭がする‥‥』
響子にとって懐かしい、シナモンのような香りが漂う気がした。響子の母方の山
寺の住職だった曾祖父は、よく人の死ぬ日を当てたらしい。それは寺の大きな杉の
木に住み着く鴉の群れが騒ぐのを見て分かったという。鴉は動物の死臭を遠くから
嗅ぎわけるらしい。そして、燃え上がる命と、冷たい死体との間、死を前にうつつ
となった状態の漂わす、微かな前兆をさえ感知するらしい。
響子は自分の家からは反対方向にどんどん歩きだした。群衆が路上を見つめてい
る。響子もその人の輪に割り込んだ。
前部のヘッドライトが割れ、大きくラジエターグリルがへこんだ軽トラックと、
傍らにフレームが二つに折れ曲がった自転車。そして足元にスラックス姿の中年の
主婦が仰向けに横たわっていた。眼は硬く閉じられ、鼻と耳から血を流していた。
履き物が飛んで、むき出しになった足の指先のパンストが破れ、血が滲んでいた。
突然、女は大きく眼を見開いた。そして、沿道の野次馬達を、不思議なものを見
るように見上げた。軽トラックの運転手が煙草屋の公衆電話の受話器を持ち、半狂
乱になっていた。しばらくして、子供用自転車に乗った十才位の女の子が来て、女
の傍らにひざまづくと泣き叫んだ。
「お母ちゃん! お母ちゃん! いややあ! いややあ!」
沿道のスーパーマーケットから中年の女が飛び出してきて、女の子の肩を抱き呼
びかけた。
「前川さん! しっかりしぃ! 圭子ちゃんやで。分かるか? あんたの娘の圭子
ちゃんやで!」
横たわる女の眼は二人の顔を交互に眺めてはいたが、もはや虚ろで、識別してい
るようには見えなかった。まるで、見も知らぬ他人を見るように、何の感動も浮か
べなかった。
『きっと、他人なんや』
響子は死に行く女にとって、もはや自分の娘は他人なのだろうと思った。一つの
芝居が終わり、楽屋に消え行こうとする、安堵感が女の顔に広がっていった。
救急車のサイレンが近づいてきた。女の手足がけいれんの為大きく跳ね上がりだ
した。女の子と近所の主婦は、ばたつく手足を必死で抑え込もうとした。
と、その時響子には、女の体から甘く気だるい腐敗臭が一段と高まり始めたのが
わかった。
人の脳からはエンドルフインという、麻薬状の物質が分秘されるのが知られてい
る。それは、己の肉体の危機に瀕した時や深い瞑想状態の時、分秘されるという。
しかし、誰も人の肉体がその死の間際に、トルエンなどとは比べものにならない程
の甘い薬物臭を発することを知らない。それが一体なになのか響子には分からない。
その匂いがフツッと消えた。もはや路上に横たわる物体からは、何の芳香も立ち
昇らなかった。
響子は人の群れに背を向けると、歩道を家に向かって歩きだした。どのくらい歩
いたか、突然、横のコンビニの厚い窓ガラスが内側からドンドンと打ち鳴らされた。
中学時代の同級生で、他の女子高に行った連中が三人、セーラ服のままでフライド
ポテトを頬張りながら、雑誌を立ち読みしていた。
響子が入っていくと、木田真弓がフライドポテトの包を片手にして、嬉しそうに
言った。
「田宮ぁ! むっちゃ、久しぶりぃ!」
真弓は響子の口にフライドポテトをねじ込んだ。
「静かに!」
レジのアルバイトの大学生が言った。真弓は、レジに近づいてゆき、
「入江君! うちら、何時も静かにしたってるやんか! 毎日買いに来とるのに、
えらい冷たいんとちゃうかぁ!」
真弓はレジの横の冷蔵庫から缶コーヒーを取り出し、カウンターの上に硬貨をピ
シャッと叩き付けた。そして、振り向きざまに響子に向かって叫んだ。
「田宮! お前、相変わらずやなぁ。なんか、アンパン、やったとこみたいやでぇ」