#125/1336 短編
★タイトル (WMH ) 93/ 8/28 15:14 (190)
フトコロ/有松乃栄
★内容
「あなたは、私のために死ねますか」
私が……彼にそれを聞いたのは、二度目だった。初めて聞いたのは……そう、
もう何年も前のこと。私たちが出会ってすぐの頃だったろうか。
私はじっと、彼の顔を見つめた。あの、付き合い始めの頃と同じように。
彼は、
「死ねません」
と、言った。
「なんで?」
私が問うと、彼は食べ残しのウインナーソーセージを口に頬張りながら、
「俺が死んだら、お前を見守る者がいなくなるから」
と、言った。私は、うまくはぐらかされたのだな、と悟り、それ以上は話す気
も失せてしまった。
四年前、私が同じ質問をした時、彼はあらたまって、こう言ったものだった。
「君のためなら、自分の命なんか惜しくはないさ」
私は、食器の後片付けをしながら、その言葉を思い出していた。そんな私の、
心に確実に迫りつつある、切なさを知らずに、彼は、バッターボックスのオマリー
に、テレビの前で声援を送り続けていた。
燃えるような恋……。私も人並に、それに憧れた少女だった。小説やドラマ、
あらゆるストーリーに自分を重ね合わせ、そして夢見ていた。
夢は夢で終わる……恋の挫折を味わい続け、現実を思い知らされていた私の前
に、突如、現れた人……それが彼だった。
私が最初に彼に抱いたイメージ……即ち、クールでスキがない完全主義者……
は、彼の中に入り込んでいくうちに、すぐに崩れ落ちた。
私は、彼の不器用さ、実直さにひかれていったのだ。もっとも、恋愛感情に理
屈は無関係なようにも思う。これは、私の経験上の話だ。
付き合い始めの頃の彼は、それはもう、情熱の塊をストレートに私にぶつけて
くるような……そう、一言で表せば、“壮絶さ”のある人だった。
彼は私を抱きしめ、また束縛し、私も心地よさを感じた程だ。
何か。
何かをきっかけに、私達の関係に、熱いものの入り込む余地がなくなった。
いや、私が理由を求めているだけで、四年という歳月の成した、当然の成り行
きなのかもしれない。
けれど、私は明らかに物足りなくなった。
彼は……?
私達が一緒に暮らすようになって、私は、彼が仕事に出て行く時に、幸せを感
じた。
彼のために、彼より早起きをし、弁当を作る。彼が、帰る頃を見計らい(彼は
面白くない程正確な時間に帰宅する)風呂を沸かす。そして、彼に食べさせる、
晩ご飯に腕を振るう。最初のうちは、彼の好物を中心に献立を考えていたが、彼
が一度(ストレスで)胃を患って以来、特に栄養のバランスに気をつけるように
なった。
彼の苦手な魚、野菜も頻繁におかずに取り入れた。それでも彼は、文句一つ言
わずに食べてくれたが。
私達はおそらく、理想の生活を手に入れたのだろう。籍こそ入っていないが、
これはもう、夫婦のそれだと思える。
生活にも、(彼の)性格にも、何の不満もない。不満だなどと、おこがましい
とさえ、思うぐらいだ。
私は彼を愛しているし、彼も私を……愛していると信じている。信じられるだ
けでも、彼に感謝しなくてはならない。
真夜中に目が覚めた。
暗黒の中、蠢く手に気付いた。
車の修理工を始めてから、別人のように変わってしまった、ガサガサに荒れた、
彼の指の腹を感じる。
私は、彼の手が好きだった。
彼の指を顔にたぐり寄せ、自分の頬を撫でる。私の肌に、彼の皮膚はかたすぎ
て、痛みすら覚える。けれど私は、彼の感触に、大きな愛を感じ取ろうとしてい
る。
そして初めて、私は、自分の心にまるで余裕のないことに気付き、悲しくなっ
てくるのだ。
彼の手を、しっかりと両手で握りしめながら、私は泣いた。私の感情の不安定
さを見透かして、すぐに彼は、
「どうしたん?」
と聞いた。その、あまりのタイミングの良さに、「なんでもない」と答えるは
ずだった私の口が、自分のコントロールの範囲を離れた。
「悲しい……切ないよ……」
いつしか私は、必死になっていた。
この私が?
この、言ってしまえば、女のしたたかさ、可愛らしさのない、意地っ張りのこ
の私が……今は丸で、幼い頃に戻ったかのように。
私は、ついに声をあげて、泣きじゃくった。
「うっうっ……悲しいよ……切ないよ」
同じ言葉ばかりが、喉を突いてこみ上げてくる。
「ごめん。悪いことしてしまったかな?」
違う。
「違う……好きだから……好きだから切なくて、悲しい……」
私には、もっと正確に伝えるべき感情があった。毎日の生活を送るうえでの悩
み、実家のこと、どうでもいいような過去のこと、そして彼の知らないこと。
それらが不思議に影響し、増幅されて、私の感情をかき乱していく。
私は、そのすべてを彼に伝えたいと思った。けれども、どうしても言葉に出来
ずに、その苛立ちが余計に不安さを誘う。
「私のこと好きやんな?」
……とうとう私は、もっとも言いたくない言葉を、口をすべらして外に出して
しまった。
本当に信じていれば、浮かばない言葉。
言い換えれば、「あなたの愛は、私には物足りない」と言うような、エゴに満
ちたメッセージ。
ナイーブな彼をどれほど傷つけ、そして苦しめることだろう。
私は言い知れない、嫌悪感にかられつつ、彼のふところにもぐり込み、そして
言葉を待った。
「当たり前やろ……好きや」
そして彼は、私の額にキスをした。
けれども、不安定な私にとって、彼のその言葉が、本当に待ち望んでいた言葉
なのか、判断のしようもなかった。
彼のパジャマの胸元をぐっしょりと濡らす程、私は泣いた。
結局。
その夜は、それ以上何もなかった。
彼にその気がなくなったのか、それとも私に気を使ったのか。
私達は、あまり喧嘩をしない。
相対的かつ、周りのカップルと比較して、の話だ。
世の中探せば、全く喧嘩をせずに、うまくいっているカップルもあるだろう。
しかし、私達は友達カップルと比べて見ても、目立ってうまくいっている間柄
だった。
もちろん、まるで喧嘩がなかった訳ではない。
けれども、この約二年の間、私は彼とまともに険悪な雰囲気に陥った記憶がな
い。
そのことに気付いたのは、この前、友達と電話で話していた時だ。
彼女は、激しく、殴り合いにまで発展する、自分達の不仲を嘆き、強調した後、
「あんた達がうらやましい」
とさえ言った。
しかし私は、毎日のように喧嘩をしながらも、二年の間、同棲生活を続けてい
る、彼女の“自信”を読み取った。
そうして、それは自慢にさえ思えてくる。
私達は、冷めているのだろうか。彼女達の関係は、何か熱いものを感じさせる。
それは数々の修羅場を乗り越えてきたという、経験のなせる技かもしれない。
彼を愛している、という彼女の力強い言葉に圧倒されつつ、私達の関係に、何
が欠落しているのか、糸口がつかめそうな気がした。
ある日。
彼は仕事から帰ってくるなり、私に一言、
「やめた」
と言った。
その一言ですべてを読み取った私は、意外と冷静にも、
「どうして?」
と聞いていた。いつか、この日が来るような気はしていた。元々、仕事の長続
きする人ではない。ここ数日、妙に疲れ切った顔をしている顔を見ながら、これ
はもしかして、と思っていたのも正直なところだった。
が、二年勤めた仕事を何故?
という気持ちもあったのだ。
「職場の感じもいいし、のんびりしてて、友達も多い。まったく恵まれた環境
だ、って言ってなかったっけ」
「とにかく……もう、やめてきた」
「……そう」
「ただ何となく、向いていない、って思ったただけやから」
「……そっか」
彼の言葉に何か、他の理由を期待していた訳ではない。しかし、ただ向いてい
なかった、という理由は疑わしい。
私は、鰺を焼きながら、ちらりと彼の姿を見やった。彼は何の変わりもなく、
テレビの阪神戦に釘付けになっていた。新庄のホームランに、テレビのアナウン
サーが大きい、大きいを連呼させる。
思わず立ち上がって、はしゃいでいる彼の姿は、日々、見慣れているものだっ
た。
私達は寝るところだった。
私が部屋の灯りを消そうとすると、寝転んでいた彼の手が、私の体を引っ張っ
た。
引かれるがままに、私は彼と重なり、彼の右腕に首を落ちつけた。
そして、彼の、ガサガサした指が、私の胸を這う。
数えきれないほどの回数目のセックス。私には、彼のパターンが読めた。彼も
私のツボは心得ている。
決して冷めきった、馴れ合い、という訳ではない。
セックスも、私達には大切なコミュニケーションだし、彼の接し方は優しく、
慎重だった。
口の中に、彼の舌が入ってくる瞬間、ふと見た表情で彼の異変に気付いた。
彼は、思い切り目をつぶり、そして何かを振り払おうとしているかのように、
眉間に皺をよせていた。
哀れみを感じる程の、必死さ。
私は、彼の背中を抱いた。
そして、自分の乳房に彼の顔を寄せる。
彼は私の乳首を舌で転がしていたが、私は、それすら出来なくなるほどに、彼
を抱きしめた。
珍しく、しがみついているようにさえ見える、彼の姿に、私は一種の儀式を感
じた。
「愛してる、愛してる!」
そう繰り返す、彼を全身に受け止めながら、この前「悲しい、切ない」と泣い
てすがった自分を重ね合わせていた。
抱き合う私達の間に、何か、妙な空気が流れた。
緊張を誘う、その流れの中で、私達は燃えた。
初めて触れ合う肉体のように、互いの体を執拗に確かめ合い、そしていつもよ
り濃厚なキスを繰り返した。
「愛してる、愛してる!」
その彼の言葉の下、私達は三度昇りつめた。
「ねえ?」
「ん?」
「あんたのフトコロ……暖かくて……」
「何を初めて腕マクラしてもらうように……」
私は、続けようとした言葉を飲み込んだ。
(あんたのフトコロは、ずっと、暖かくて、果てしなく大きいと思っていたの。
けど、そうじゃないんだなって。ちゃんと形のあるものなんだなって……)
そして、私は彼の荒れた手を握りしめた。
少なくとも今日だけは、安らかに、眠り続けられるような気がした。
(終わり)