#124/1336 短編
★タイトル (WMH ) 93/ 8/26 3:45 ( 57)
足だ足を見るんだ、そうそうそんな感じ/有松乃栄
★内容
汽笛が聞こえた。
船の。
どこまでも、何もない筈の風景が、突如として鮮やかな色彩を放った幾何学模
様。浮かびあがってくる。
そんなことがあるはずがないんだ。
そう、僕は確かに思った。
二、三度首を振り払い、そして、彼女の存在が、確実であることを確かめた。
否、確かめたかったが、僕にはそれほどの勇気はなかったのだ。
「真っ暗な海だ。何もない。波すらも」
僕は、そんな態度を彼女に悟られないように、思いのままの風景を伝達した。
「そうね」
彼女は、そっけなく言い放つ。
夜だ。海だ。何も見えない。ただ、暗黒の広々とした世界の匂いが、かすかに
漂っているだけの、そんな、空間なのだ。今。
「疲れた?」
「そうでもない。そうでもないよ」
前髪を指ですくいつつ、彼女が答えた。その表情は、暗くてはっきりと読み取
れはしなかったが、長旅に疲れきっていることは間違いなかった。
かくいう、この僕も、もはや肩の感覚が薄れていくほどに、疲労していたのだ
から。
「ここは、寒すぎる。もっと、暖かくせんと」
「暖かくする?」
僕は、自分の着ていた茶色いコートを、彼女の肩に、そっと乗せた。
そして、しまった、と思った。
「いいわ。寒くないから」
彼女はそう言うと、コートを真下に落とした。僕は、ただ何も言わずに、それ
を拾い上げ、砂のついたコートを手ではたく。
僕は、なんだか恐ろしくなっていたのだ。
このまま、彼女が遠く、難しい存在になっていくことを恐れた。
「帰ろう。ここは危険すぎる。きっと」
僕は、精一杯真剣な表情を作り、彼女に言った。
「私はここに居る。ずっと。この海の前に……」
僕は……、確かに彼女のその言葉を聞いた。
もしかしたら、最も聞きたくない言葉だったのかもしれない。僕の「帰ろう」
が彼女の前では無力になってしまったのは、この暗黒に包まれた海の仕業だろう
か。それとも、決められた運命だったのだろうか。
それから、どれだけの月日が経過したのか……。
もはや、僕にはわからない。そして、僕は彼女の足元にひざまずき、自分の無
力さを嘆くようになっていった。
「あなたは、使い古された風景のよう」
とも、
「あなたの言葉には、私との接点がまるでないのよ」
とも、言われた。
あの時の暗黒の、そして海の命すべてが、彼女を遠い世界に連れ去ってしまっ
たのだ。
僕に残された視界には、もう彼女の足元しか映らない。
僕はただ、彼女の顔が、腕が、首筋が、見たいのに……。
海がサディスティックに笑う。
「足だ足を見るんだ、そうそうそんな感じ」
と、僕を蔑みながら。
(終わり)