AWC 幼い                 伊井暇幻


        
#81/1336 短編
★タイトル (ZBF     )  93/ 7/ 9   0:17  ( 58)
幼い                 伊井暇幻
★内容

 幼い頃の悩みだって? 無ぇよ、んなもん。無ぇから幼いんだ。思い通りになん
なくて、グジグジ思い沈むことはあってもよ。悩みなんてもんじゃない。幼い、っ
てなぁ、神の世界に近いってことだろ。人間の世界じゃない。神の世界って、実の
ところ、すべてが人間の妄想で成り立っている。。実体はなく、理念の世界。これ
ほど人間に都合よく自己完結している世界に、悩みなんてある筈がないじゃん。い
くらその世界が過酷であっても、悩む余地なんてない。固定され死んだ世界だ。

 N子を愛していた。本当に愛していた。

 それまで、愛する女の面影が瞼に浮かぶ、なぁんてチャンチャラ可笑しいと思っ
ていたんだけど、実際に起こる現象だったんだよな。驚いたよ。寝ては夢、醒めて
は現つってね。
 一重で烏眼勝ちの目がフックリした頬に少しく押し上げられている。優しい。小
さいけれど薄すぎはしない両端の緩やかに上がった唇。明るい。相俟って、アルカ
イック・スマイル、広大な安心感を与えてくれる。丸みを帯びた小柄な体は肉厚な
のに線が細く、オリーブ色。二つも年上っていうのに、どう見ても年下、でも前に
立つと、いつも、跪いて柔らかそうな胸と腹の間に顔を埋めたくなる。N子を思い
浮かべる度に、温かい何かに包み込まれる気がした。皮膚がなくなり、自分が拡散
していくような気がした。

 N子と言葉を交わしたことはない。ましてや触れたことなどない。交わす必要も、
触れる必要もなかった。N子は俺の裡にだけ在れば、よかった。N子を一目見た後
は、実体などなくても関係なかった。俺の理念が、N子の実体に引き寄せられ、実
像を得たにすぎない。N子ではなく、N子の貌を有った理念、これが俺の愛の対象
だった。愛しくて堪らないのも無理はない。何せ対象が、愛そのものなんだから。

 自分の尻尾を銜えて呑みこもうとする蛇、自らを犯す強姦者、クラインの壷、次
元は此処ではない。

 INTERACTIONとしての愛には興味を失った。恋は駆け引きかもしれな
いが、愛は自己完結する宿命を有っている。だから、愛するとは必然として、「愛
を向ける」の意となる。愛、それ自体は行為とはなり得ない、主体の精神状態、も
っと在り態にいうと、欲望の謂いだ。動詞とはなり得ず、目的語となる。

 N子の貌を借りた愛の呪縛は、振り切ろうとしても、俺を逃がさない。なにせ自
分で自分を縛ってるんだから。小林に欲望を向けるのも、無理矢理に向けようとす
るのも、呪縛から逃れたかったからだ。美しく優しく純で、あれだけ美徳を兼ね備
えた小林も、幻想の少女には敵わない。小林の唯一の欠点は、唯一ではあるが致命
的なのは、実在の人物であること。

 幼いってのは、幻ノ世界に住んでることだろ。誰だって、そうだけどさ。いつも
は幻ノ狭い自分のアパートに閉じ篭ってても時々は、お外に出掛けるもんだろ。戸
締まりして、しっかり鍵を握り締めて。
 部屋の中じゃ、B・Bが腿を掲げて壁から俺に色目を遣う。モナリザが微笑みか
ける。ピンク・フロイドが俺だけのために演奏するし、ノーマ・ジーンが甘く囁く。
 ドアの覗き穴から見る外の世界は、歪んで醜い。部屋の中の完全な調和とは比ぶ
べくもない。時折前を通る人間、らしき生物は捩じれ汚らしい。人間に見えるけど、
魑魅魍魎に違いない。そのうち部屋に侵入してきて、俺をバリバリ食ってしまうん
だ。

 ドアを押して外に出たら、それなりの世界が広がっているんだろうよ。それは解
っている。覗き穴から見る世界が醜く歪んでいるのは、埋め込まれたレンズのセイ
かもしれない、って仮説は聞いたことがある。でも、俺はドアを押さない。部屋の
中だけでも、楽しく生きていけるもんな。気に入った奴だけ招き入れてればイイの
さ。だから、俺はまだ、扉を押さない。押さないよ。幼いから。

        言葉遊び「幼い」−鬼畜探偵・伊井暇幻シリーズ外編−了/久作




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