AWC 夕陽              椿 美枝子


        
#80/1336 短編
★タイトル (RMM     )  93/ 7/ 9   0:12  (102)
      夕陽              椿 美枝子
★内容
 茫洋と広がる野原の脇に、砂利道が見え隠れする。生い茂る雑草の名前は全て
知っている。乗り出している出窓、足場にしているソファーの背、全て、見慣れ
てしまった物ばかり。戸棚に収まる百科事典は全て暗記していた。ころん、とソ
ファーに転がってみても何一つ変わらない。野原は深閑としていて、気の早い虫
の音が聴こえる。夕陽の時が近付いている、急がなくては、けれど何をすればい
いのかわからない。
 時折皺の顔が呪いを込めている様に見えてしかたがなかった、その老婆は、祖
母だった。学校にも通い始めない歳の孫娘に言うのだ、母親が居ない時を見計らっ
て。
「急がないと、陽が暮れてしまうよ、人生の陽が。陽暮れて、道遠し。忘れるん
じゃあないよ」
 醜悪な皺達に常に囲まれて人生の終焉は自らにも近く思えた。急がないと。今
日も夕陽が射してくる、この西向きの部屋に。これ以上何を急げばいいのだろう。
これ以上、何を望まれているのだろう。この書斎で読むべき物は読んでしまった。
坂を下ってゆければ、知った子供達の住む家がある。けれど、遊ぶ事は出来なかっ
た。弱い身体が、遊びに行った翌日に熱を出す。そうすると、老婆は呪う。
「ほら言っただろう、あの坂を下って遊びに行くとあんたは必ず熱を出す」
 そして一人遊びが上手くなる。一人遊びの内容は、祖父を相手に読み書き算術、
丸を付けて貰う間、庭に駈けてゆき、息をひそめる。それは昼間に限られた遊び。
夕刻は一人きり。
 母はまだ帰ってこない。食事を呼ぶ声が聴こえる。食堂に行くと年寄り二人が、
いつもの薄暗い色合いの食事をよそっている。残す訳にはいかない食事。必ず全
て呑み込まねばならない。吐いても泣いても無駄、もう諦めた、そしていつも最
後に白い米が残る。夕陽が食堂に差し込んで、急かされる。老婆が忌々しげに言
う。
「早く食べ終わりなさい、人生を勝つ為には早く食べなきゃならないんだよ」
 人生に負けると、さも恐ろしい事が待っているかの様に語る、その口調がただ
何よりも怖かった。泣きながら最後の一口を押し入れて、書斎に走る、夕陽は終
わって、取り残された。そのまま涙を浮かべて出窓を離れなかった。待っている。
ずっと、待っている。やがて聴こえる、砂利道を、ある不協和音がうねりながら
近付いてくる、母の車だ。誰より早く仕事から帰る母を迎える、それがこれ以上
唯一できる事。全ての事をしつくしている様な気がしていた、人生は終わってし
まっている様な気がしていた、世界は閉じてしまっている様な気がしていた、そ
して絶望はいつもたやすく部屋の隅に落ちていた。

「ねえお母様、純ちゃんはどうして泣いているのかしら、入学式なのに」
「純ちゃんはね、お母さんに、これから学校で沢山勉強しなさい、て言われたの」
「純ちゃんは勉強が、きらいなのかな」
「そうねえ、純ちゃん家は東大一直線だからねえ」
「ふうん」

「純ちゃん、私、この夏休みに転校するのよ」
「どこに行くの」
「東京」
「すごおい」
「どうして」
「だって、東大に近いじゃない。都会だし」
「そうかな。この間行って来たけれど、仙台より田舎だったわよ」
「そんな事ないよ、絶対」
「タンボとかハタケとかがあったのよ、仙台には、ないのにね」
「でも東京だろう」
「うん」
「すごいよ」

「ねえお母様、純ちゃんってどうしてまばたきするのかしら」
「あれはね、チック症っていってね、ストレスが多いとなる神経症なのよ」
「純ちゃんとももうずっと会えないのかしら」
「そうねえ、きっともうあなたが大きくならないと会えないわね」

 父の埋め草は俗物に見えた、もっとも父を覚えていなかったが。その俗物が社
長であるという理由で、学校では異物の様に扱われた。もっとも転校生は只でさ
え異物だったが。家が大きい、という理由でいじめ。歩き方が気に入らない、と
いう理由でいじめ。テストが満点、という理由でいじめ。彼らは賢明だ、彼らが
優位である内にいじめておいた方が。やがて報いを受けるとしても。やがて、の
白昼夢を見て生きる内に、卑しくなっていく。気がつくと、影を背負った俗物に
なっていた。
 西陽の射す居間、窓を開くと麦秋。虫の音。隣の家はいつもの様に大音量でテ
レビを観て、その合間に笑い声、あれが普通の、人の暮らし。毎日学校に通い、
帰ってくると何もする事はなかった。勉強は学校の孤立した休み時間で済ませた
し、相変わらず人より体力はなかったので野外で遊ぶ事もなかった。そして、今
日もいつもと同じく一日が過ぎて行く。夕陽はそれを知らせる。老婆の呪いが聴
こえてくる、『陽暮れて、道遠し』。

 勉強の嫌いだった「純ちゃん」は、まだ、仙台で泣いているだろうか。

 食事を呼ぶ声がする。欺瞞の食卓へ招く声。
 あと何度、こんな夕刻を過ごせばいいのか、暗算しながら食堂への扉を開ける、
そしてこぼれる涙を指さしてどうしたの、と笑う様な輩を家族と呼び、食事をす
るのだ、いつもの様に。
 帰りたいと思っても帰る場所はなく、壊したいと思っても壊す物は見つからな
かった。そして、絶望はいつもの様に部屋のそこここに転がっているけれど、そ
れに身を委ねられぬ様に、新しい呪いを母に掛けられていた。ある時は居丈高に
『あなたは普通ではないのだから優秀でいなければなりません』そしてある時は
すがる様に『私はあなたの為だけに生きているのよ、私を幸せにして頂戴』と。

 一番習いたい事があるとすれば、それは、生きて行く事。どうしたら生きて行
けるのか。誰も生きる事の快楽を教えてはくれなかった、肉親でさえも。怯えな
がら恨みながら、生きて行くのだ、影を背負って。けれど皆、どうして幸せでい
られるのだろう。全ては知らない所で進行する。何故、人は幸せになれるのだろ
う。どうやって、人を幸せに出来るのだろう。求めた物はなかった。望んだ物は
なかった。得た物はなかった。幸せな時はなかった。いつか得る日が来るだろう
か。その日は幸せな夕陽を見るだろうか。
 今日も誰かを待っている。この閉じた輪から連れ出してくれる人を。けれどそ
んな人は来ないとわかっている。そしてそのまま夕陽を迎える。いつまで、多分、
自力で捜し当てる日まで。
 捜して、けれど本当に見つけるだろうか。帰る場所を、それとも、壊す物を。
 そう、きっとその日まで生きながらえてさえいれば。


                  了

                       1993.06.11.02:40




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