AWC 一葉の古ぼけた写真             もつお


        
#76/1336 短編
★タイトル (BBH     )  93/ 7/ 4   4:51  (136)
一葉の古ぼけた写真             もつお
★内容


「店長! 店長! ちょっと」
「どうしたの、里美ちゃん」
「あの、お客さんが、あの、ちょっと来てください」
「ちょっ、ちょっと、体揺らさないでくれよ。飲みすぎて寝てない
んだから。分かった、何でもいいからさ、君に任せるよ」
 本当にそのときは二日酔いで頭がガンガン響いて、脳味噌を舞台
にゴジラとキングギドラが最終決戦をやっているような感じだった。
母の命日だったので、兄と二人で夜明けまで飲んでいたのだ。とに
かく店の子が、「ホットワン、レスカワン、それとモーニングをア
イスで」とカウンターに伝えている声を聞くだけでうんざりした。
頼むから大声を出すなよ、と言いたかったが、いつもは、元気には
きはきと大きな声でオーダーを伝えるように、と厳しく言っていた
から、その日に限って静かにしてろとは言えなかった。
「でも、店長。お客さん、お金がないって」
「あ? 金がない? 里美ちゃんが処理してくれよ。住所でも電話
番号でも聞いておけばいいじゃない」
「でも、ちょっと、変なんですよ」
 そう言って彼女は僕の左の二の腕を掴んで、無理やり立ち上がら
せた。頭がズキッと、思いきり杵で殴られたような気がした。
「はい、はい、はい」
 足を組んだままずっと座っていたせいで、左側の足に全然感覚が
なかった。何とか立ち上がって五秒ぐらい立つと太股のあたりから
足の指の先まで血液が巡り始めたが、それでもそれが自分の足だと
認識するのに少し時間がかかった。左足を引きずるようにレジのと
ころに行ってみると、五十すぎぐらいの汚い格好をした、それでも
妙な色気のある、おばさんが泣きそうな顔をして立っていた。
「店長、この人何ですけど」
 彼女が小声で僕にそう言った。突然立ち上がったせいか、吐き気
がして、アルミホイルを口の中に放り込まれたようだったが、何と
かおさえて、下がっていいよ、と彼女に言った。
「えーと、どうしたんですか?」
「あのー、お金がー、ないんです」
「お金がない。困りましたね」
 僕はカウンターにおいてあったお冷やを飲んで、お客さんの伝票
を見てみた。ハンバーグセット、ライス大盛り、ほうれん草のバ
ターソテー、アイスコーヒー、チーズケーキ。たいしたものだ。も
しこれを十分以内に食べた、とか言うのなら、勘定をチャラにして
もいい、まあ、そういうわけにもいくまい。
「結構食べましたね?」
「はー」
 ため息つきたいのはこっちなんだよ。
「ひっ、ひっく」
 今度はしゃっくりが出てきた。お金がないくせしておばさんが僕
の顔を怪訝そうに見上げた。
「すいませんね、ひっ。あのですね、ひっ。里美ちゃーん。お冷
や」
 彼女からグラスを受けとり、少し時間をかけて水を飲み干した。
しゃっくりは落ち着いたが、なんだかばからしく思えてきた。
「じゃあ、また今度払ってくれればいいですから、電話番号教えて
ください」
「はー、あのー、えーと、ごめんなさい、電話が、ないんです」
「電話がない? あ、そう。本当にないの?」
「はい、ないと言えばないんですが、あっても、やっぱりないんで
す」
 確かに変な人だ。
「はい、はい。じゃあね、住所教えてくださいよ。別にどうでもい
いんだけどね、とりあえず、けじめとして」
 本当はそのまま帰してしまいたかったが、店の子たちが結構見て
いたし、建前上そう言うしかなかった。
「住所ですね? 住所はですね、」
「住所がないんです、とか言い出さないですよね?」
 精一杯の冗談のつもりだったが、どうやら、しゃれじゃないよう
だった、別の意味で。
「あ、いえ、そんなことないんですけど、東京都の、練馬区の、関
町の、五丁目、いや、四丁目の、えーと、あー、あー、覚えてない
んです」
 冗談は仏滅の結婚式だけにしてくれよと思ったが、その人の顔を
見ていると、本当に仏滅を連想させた。髪の毛が脂ぎって、真っ青
な頬をしていた。しわも少なくきれいな顔をしているわりに、遠慮
がちに鼻毛が数本飛び出ていた。やせ細って、お腹だけが少し出て
いた。
 ちょっとすいません、と言って僕は奥にいる里美ちゃんを捕まえ
て、代わりに何とかしてよ、今度おごるからさ、と囁いたが、いや
です、とあっさり断られてしまった。
「もう一度だけ聞いていいですか? 本当にお金がないんです
ね?」
「お金はないんです」
「お金はないんです? じゃあ、何があるんですか?
「いや、なにもないんですけど、いや、やっぱり、あの、何もない
です」
 あ、そ。
「じゃあね、もう一時聞きますけど、住所は?」
「住所ですね? 住所は、練馬区の、関町の、」突然彼女は右手に
持っていた小汚い紙袋の中を探り出して、一葉の写真を取り出して、
僕に差し出した。
「何です、これ?」
「息子の写真です」
「は?」
「息子の写真です」
「あの、住所は?」
「ですから、関町の、」また紙袋の中を漁り出して、今度はしわく
しゃの保険証を取り出して、僕に見せた。国民健康保険だったので、
現住所が書いてあったが、香川県の大田町とか言うところになって
いた。話しにならない。しかも、有効期限は昭和三十一年になって
いた。僕が生まれた年のものだ。
「これと、関町と、どう繋がるんですか?」
 金のないおばさんは少し下をうつむいて膝小僧を掻いてから僕の
顔を見上げたが、その顔は何も訴えていなかった。笑ってもいな
かったし、困ってもいなかった。ただ、ただ、顔のパーツが揃って
いるだけの、表情という言葉で形容される心の動きをどこか遠いと
ころに置き忘れてしまった、そんな顔で僕を見つめていた。それは
顔ですらなかった。能面ですら、怪しくも表情をたたえている。少
し恐くなった。頭痛もおさまり、吐き気も消えたが、心の一番奥底
にひっそりと沈んでいるとても、とてもナイーブな器官を素手で掴
まれてしまっているような、奇妙な不安が僕を襲った。無銭飲食の
プロフェッショナルかとも思ったが、もっと、もっと深い何かがあ
るような気がした。そう思わずにはいられなかった。息苦しく、
立っているのがつらくなった。会うべきではない人に、会うべきで
はないところで、会うべきではない状況で、しかし、会ってしまっ
た、そういった類の息苦しさだった。
「帰ってくれませんか。お金はいいです。また今度払いに来なくて
もいいです。ただ、帰ってくれませんか。それと、お願いですから、
もう来ないでください」
 一度死にかけた人間が意識を取り戻して顔に赤みがうっすらと
戻ってくるように、彼女の顔に表情が浮び上がってきた。微笑んで
いた、しかし、冷たく、僕の顔を見つめながら。僕の目に浮かんで
いる文字を読み取るように、じーっと。僕の眼球の奥に潜んでいる
世界を眺めるように、じーっと。そして、にやっと。
 目眩で倒れそうになったが、意識を絞り出して頭に集中させ、彼
女の肩を掴んで、放り出すように、店の外に連れ出した。彼女は一
度だけ振り向き、そしてそのまま去って行った。

 レジの横には彼女が残していった写真が置かれていた。古ぼけ、
黄色がかっていて、ピントがあっていないせいか、ぼんやりとした
写真で、それが誰なのかはさっぱり分からなかった。十歳ぐらいの
少年だということは、半ズボンをはいていることからなんとか想像
できた。

「店長、ちょっと」
「なに? 里美ちゃん」
「あのおばさんが座っていた席にこれが」
 それは、一冊の本だった。

 それは、キース・ミッチェルの、『母』、だった。




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