#55/1336 短編
★タイトル (RMM ) 93/ 6/ 9 14:28 ( 89)
鏡 椿 美枝子
★内容
平手が響いた。
大学中の視線が私に集まった。
目の前の小さな存在が口走った。
「理由なんかきかないで、叩きたいから叩くのよ」
頬に手をやり、憤りが感じられる頃、彼女は私に背を向け一目散に駆け出した。
はじめは電話だった。
彼女と私が知り合ったのは、講義の偶然だった、少なくともそう思いたい。小
柄で利口そうな女の子が私にすり寄ってきて、親しげに話しかけた。
グループに別れて研究する事、というのがその講義のお達しだった為、彼女と
私は手を組んだ。私にとっては誰でもよかった。彼女が得意としたのは、甲高い
声、知った様な世間への物言い、高校時代への繰り言、複雑な家庭の打ち明け話。
やがて彼女は自分の書いた詩集を持って来るから、読んでくれと言った。講義の
後の退屈な時間、空は青、芝生に座り、手渡されたノートに書き込まれた詩を読
む。赤面したのはまるで他人の日記を読んでいるかの様だったから、見てはなら
ない心の奥底を覗いている様だったから。ごめん、私、詩はよくわからないから、
そう言ってノートを返した。その恥しさは私を蝕み、しばらく私は、文を書けな
くなった。そんな時に掛かってきた電話だった。
「話したい事があるから会って頂戴。今、駅に居るんだ」
彼女が私の家に押し掛けてきた時、私はまだ真意を掴めていなかった。
話す事といえばまずありきたりの世間話、それがお得意の打ち明け話へ変わり、
やがて好きな人の話になって、私は気付いた、彼女の言いたくて堪えている姿に。
私の知っている人でしょう、その人。そして、気付いた。専攻の違う二人に共通
した知人は、この間紹介した私の恋人位しか居ない事。私は落ちついたまま恋人
の名をあげ、彼女は、にこやかな宣戦布告をして帰っていった。
次は駐車場。
私が彼女を避けたくなったのは、致し方ない事。彼女はあの後掛けてきた電話
でそれを一旦了解したけれど、気まぐれでもあった。
講義を全部終わらせて愛車の待つ駐車場へ向かう私。たまには、遠乗りでもし
てから帰ろうか。最近恋人とのやりとりが煩わしくなっていた。
車の脇に、待ち構えた彼女が居た。
「きいて欲しい事があるの」
いい加減にして欲しかった、彼女が誰を好きでもいいよ、勝手だ。私の腕にし
がみつこうとする彼女を振り切ってエンジンを掛け走り始めると、彼女は回り込
み両手を広げて、立ちはだかる、私の前に。ブレーキ。私は彼女を丁寧によけて、
再度発進する。バックミラーに泣きながらしゃがみこむ姿が、見えた。
次は学生ホール。
学生達の社交の場。そこに入ってくる前に私は珍しく恋人と手をつないで、互
いの些細な近況を話し合っていた。だから私は珍しく幸せな顔をしていたかもし
れない、少しばかりは。恋人を講義棟へ見送って、学生ホールで一人になって、
ひととき憩いの珈琲にありついていた。
「ちょっと」
彼女に呼び立てられた。
彼女の方に用事がある限り、これからもずっとまとわりつかれるのは目に見え
ている。呼び出しに応じ、彼女に従い、ホールから少し離れた閑散とした一角へ
と向かう。けだるげに彫像に寄り掛かりながら彼女に尋ねる。
「何、何の用」
次の瞬間だった。平手が響いたのは。
恋人と話した。もうそろそろ、その時期だったのかもしれない。
「確かに、彼女と会っていたよ。そして望む事を、してやった」
なるほど、宣戦布告に来る訳よね。
「俺から会おうとした事は断じてない。それがお前への誠実さだと思った」
誠実って、色々な形があるんだわ、きっとそうに違いない。
「この間きかれた、どっちを取るか、って。俺は、お前を取る、って言った」
馬鹿ね、そんな風だから私が叩かれなきゃならないのよ。
私達、彼女のせいで別れるのじゃない。それだけは、違う。私達、別れる運命
だった。きっと、そうよ。
彼女から長い手紙を貰ったのはその後だった。
またもや赤面しながら、稚拙な手紙を読んだ。これでまたしばらくの間、私は
文を書けなくなるだろう。
彼女の語るところによると、駐車場での一件は私に告悔をしたかったのに聞い
て貰えなかったが為。学生ホールでの一件は自分が選ばれなかった事の腹いせと、
幸せそうな私を見て腹が立った為。
そして私は、手紙を念入りに破り捨てる。
その後、彼女がだれそれの恋人を取ろうとした、という風聞は山ほど耳に入っ
た。つまり彼女は、そういう人間だったんだよ、そう結論して慰めてくれる友人
も居た。でもそれだけでない、私は彼女をおびき寄せる隙を持っていたのだ。
気付いている。彼女はあいつが欲しかったのではない、<私の>恋人が欲しか
ったのだ、私が欲しかったのだ。私の持っているもの、全て、欲しかったのだ。
それは、一番わかりやすい恋人へと向けられた。私は彼女を見る度に、いつも私
の一番恥しい部分を見せつけられている様な気がしていた。それはいつも見ない
様に念入りに隠しておくもの。それは幼さ。それはエゴイズム。彼女は気付いて
いないかもしれない、でも私は気付いている、あの詩集を読まされた時から。そ
して彼女が怒ったのは、幸せな筈もないのに自分を偽り、のうのうと幸せそうな
顔をしていた愚かな私、それは、彼女の鏡。
彼女は今日も、私の心にこそこそとやって来て、私は文を書けなくなる。けれ
ど私は、今度こそ、築き上げる。
それは、彼女と似ていない私、何にも揺るがない強い絆。
了
1993.05.08.11:30