#5489/5495 長編
★タイトル (VBN ) 01/10/24 00:14 (193)
鼻親父と豆腐の美女(3) 時 貴斗
★内容
饅頭恐怖症
なになに恐怖症と名のつくものには、たくさんの種類がある。高所恐
怖症、先端恐怖症、赤面恐怖症、疾病恐怖症など、など、など。何かが
怖くてたまらないならば、その人はそういう恐怖症なのだ。
ああ、ビデオデッキが怖いよう。電源を入れた途端、「ハアーッハッハ
ッ」という高らかな笑い声とともに不気味な仮面を着け、黒いマントに
身を包んだ男が画面に現れ、呪いをかけるよう。掲げた両手から輪っか
みたいなのがたくさん出てきて、同心円状に広がりながらこちらに向か
ってくるよう。休日のお昼に、ちょっと気を抜いた瞬間に、デッキの取
り出し口からビデオカセットが、にゅっ! と顔を出すよう。兄さん、
怖いよ兄さん。
ビデオデッキ恐怖症である。
カレンダーが怖いよう。一枚破りとろうとしたら、今月の分までいっ
しょに破ってしまうんだよう。月の初めが、日曜日から始まっていない
と落ちつかないよ。一日(ついたち)の隣りの空白が微妙に怖いよ。ふ
と、月曜日が左端にあるカレンダーなんて、あったかなあ、と思ってし
まうと気になって眠れないよう。ああ、なぜ苦しめるカレンダー!
カレンダー恐怖症である。
そんな奴はいないが、今私の目の前にいる佐々木という男は饅頭恐怖
症である。
「お金の件は、もう少し待ってもらえませんか」彼はかしこまって言っ
た。
「ああ、いや、そういうつもりで来たんじゃないんだ」
「借りた五十万は、必ず返します」
「まあまあ、気にしなさんな。近くを通りかかったんで寄ってみただけ
なんだから。あ、そうそう」
私は紙袋から菓子の箱を取り出した。
「すぐそこに良い和菓子屋があるね。手ぶらじゃなんだな、と思って買
ってきた」
「そんなお気使いなさらな」
私はいきなり包装紙を破いた。
「せっかくだから、二人でつまもうじゃないか。私も小腹がすいたんで
ね」
ふたを開けた途端、彼は小刻みに震え出した。
「あのう、お金は必ず……」
「その話はやめにしないか?」
「しかし、私が饅頭を怖がることは、ご存知ですよね」
私は箱を彼の方に押しやった。顔が少々青ざめたように見えた。
「なんでも、恐怖症というやつは、幼少の頃に受けた心の傷がトラウマ
になっているんだそうだよ。君も克服しなきゃ。金なんかいくら遅くな
ってもいいさ。私はむしろ、君のことを心配してるんだよ」
目が大きく開かれている。呼吸まで荒くなってきた。
私は饅頭を取り上げ、ビニールの袋を開けた。かじると、甘味が口い
っぱいに広がった。
「こんなにおいしいものが、なぜ怖いのかね。さあさあ、お一つ、ど、
う、ぞ」
私だってこんな真似はしたくないのだが、こちらの家計が苦しくなっ
てきたので、仕方がない。
彼はおずおずと饅頭を手に持ち、袋を開いた。
「せっかく、そう言ってくださるんですから」
彼は目をつぶり、かじった。猿の脳みそでも食ったかのように、顔が
ゆがむ。
「なんだ。食えるじゃないか。慣れてしまえば、どうということはない。
さあ、全部食ってしまいなさい」
残りをいっきに口の中に押しこんだ。今にも泣きそうだ。
「君を見ていると、『饅頭怖い』という落語を思い出すよ」
なんとか飲みこもうとするが飲みこめない、という感じで、口を一生
懸命動かしている。
「他に怖いものはないが、饅頭だけはだめだ、という男がいて、日頃バ
カにされているみんなが、そいつが寝ている間に周りに饅頭を並べるん
だ」
「題名だけは聞いたことがありますが」やっと嚥下した彼は言った。「そ
んな話でしたか」
「ところが目を覚ました男は、全部たいらげてしまうんだな」
「それが落ちですか」
「ええと」待てよ? 『饅頭怖い』の落ちって、どんなだったかな。「と
にかく、私が言いたいのは、君は本当はその男のように、怖いふりをし
ているだけなんじゃないの? ってことさ」
「とんでもないです。私の場合、本当に怖いんです」
「他に怖いものはない、と?」私は意地悪く言った。
「いえ、一つあります。笑わないで下さいよ」
私は興味を引かれた。まだあるというのは、初耳だ。
「百円玉です。実は、あの銀色のぎらぎらする感じが、どうしてもだめ
なんです」
「は! それで小銭が貯まらないと、そういうことかい」
「いやいやそうじゃなく、純粋に、本当に百円玉がだめなんです。十円
や五円は平気なんです。信じて下さい」彼は心底困ったように言った。
「饅頭を怖がるような男ですよ? 不思議ではないでしょう」
「ほう、そうか。ではそれも克服しなくちゃな」
ふふん、いい事を聞いたぞ。
次の日私は銀行で五万おろし、全部百円玉に両替してもらった。受付
の女の子は変な顔をした。夜みんながすっかり眠りこんだ頃、結構な重
量のそれを佐々木が住む木賃宿まで持っていき、ドアの前にばらまいた。
ふっふっふっ。すっかり降参した彼はしばらくしたらやって来て、丁
重にわびて金を返してくれるだろう。
一週間後、彼から手紙が来た。
――私の都合で、突然故郷に帰ることとなりました。事前にご挨拶を
申し上げなかった非礼をお許し下さい。これまで大変親切にして頂き、
有難うございました。風邪などひかないよう、健康にはお気をつけ下さ
い。
あ、そうそう。『饅頭怖い』の落ちは、男の台詞で『今度は熱いお茶が
一杯怖い』ですヨ。 敬具
何てえバカだ! 私は自分を呪った。彼は、私から同情をひき、金を
返さずに済ますためにお芝居をしていたのだろうか?
おのれ佐々木! 「もう勘弁して下さい」と言いながら泣くまで饅頭
を食わせ、トラウマにし、本当に饅頭恐怖症にしてやるぞ!
悪心
風邪をひいてしまった。病院に行き、薬をもらって帰ってきた。袋の
中にはたくさんの薬が入っていた。総合感冒剤に、消炎酵素剤に、鎮痛
剤。小さな紙片に、これは何という薬で、どういう効能があって、どん
な副作用があるかといった説明が書き連ねてある。なんとも親切なこと
だ。副作用の記述に、吐き気や悪心といった言葉が多く見受けられる。
恐ろしいな、と思う。そういうのを覚悟の上で服用しろというのだろう
か。
まてよ? 「悪心」って、何?
辞書をひいてみた。まさかと思ったが、ずばりそのまま、「わるいここ
ろ」とあった。風邪薬を飲むと、ジキルとハイドのようになるのか? ま
あ、どうでもいい。何も起こりゃしないだろう。そういうもんだ。
食後服用とあり、腹はすいていたがかまわず飲んだ。
煙草を吸いながら、テレビを見る。熱のせいで内容がよく分からない。
「はう!」
突然、何とも言い表しようのない衝動が私を襲った。なんだこの感覚
は。燃えるような、下降するような……いや違う。適当な言葉が見つか
らない。
ぐちゃぐちゃにしてやりたくなった。ぎゃふん! と言わせたくなっ
た。もしかすると……これが、悪心なのか? だめだ、冷静さを保つの
だ。たかが風邪薬に負けちゃいけない。
「ふふふ、へへへ」
勝手に笑いが口からあふれた。いいじゃないか、別に。俺達全員、地
球のそばにブラックホールが突如現れたら、みんな吸いこまれて死ぬの
だ。催眠術師がテレビに出演したら、みんな操られてしまうのだ。橋の
上で風景を撮ろうとしている時に、背後から知人に「よう」と声をかけ
られ、肩をたたかれ、驚いてカメラを下のゆるやかな川の流れの中に落
としてしまったら、「はああ!」というすっとんきょうな声をあげるのだ。
誰だってそうだ。
そんな人類が絶滅し、新たな種が支配する世界になったとしても、宇
宙の膨張が止まり、縮み始めたとしても、構うものか。地球上のありと
あらゆる卵が消えうせ、オムレツが永遠に味わえなくなっても、俺の知
ったことじゃないね。
テレビを消した。こんなものを見ている場合ではない。今こそ、やっ
てやるのだ。悪の限りをつくすのだ。
財布だけ持ってスーパーに行った。ホースを二本とゼリーをたくさん
買った。これで人々を恐怖のどん底に落とすことができるのだ。さっそ
く、そのスーパーに罠を仕掛けることにする。
俺はトイレに入った。だめだ。人がたくさんいる。エスカレーターで
一つ上のフロアに行った。そこの便所には誰もいなかった。いいぞ、し
めしめ。水道も一つしかない。俺が望む要求を満たしている。
袋からホースを出し、結わえてある紐をほどいた。輪状のそれを、ま
っすぐに伸ばす。急がなくてはならない。誰か来たら大変だ。
俺はホースを水道の蛇口にはめた。もう片方の端は床の上に放った。
「ふふふ、ははは」
思わず笑ってしまった。任務完了だ。これでもう、誰も手を洗うこと
はできない。
ティッシュを丸めてつめるとかではだめだ。すぐに取り除かれてしま
う。その点ホースだと、何らかの意味があるのではないかと思い、はず
さないのだ。人々は泣く泣く他の水道を探さなければならない。
残酷だ、あまりにも。俺は自分が悪魔にでもなったかのような気がし
た。「ああ、自分には、手を自由に洗う権利さえないのか」と言って、お
のれを嫌悪する男達。「パパ、ママ、手が洗えないよう。僕は、僕は、ど
うしたらいいんだよう」と、泣き叫ぶ子供。鬼だ。俺は、鬼になったの
だ!
だが、愚かなる人類よ。この程度で許されると思ってもらっては困る。
なぜ、もう一本ホースを買ったか分かるか、ええ? 今度は、不潔感に
さいなまれるくらいでは済まない。命にかかわるのだ。
俺はさまよい歩いた。条件を満たす場所がどこかにあるはずだ。
「あった!」
公園に、それは存在した。水飲み場だ。栓をひねると、水が上に向け
てふき出す、渇いた人々を癒す装置だ。俺はさっそくそれにホースをは
めた。噴き出し口の方がやや直径が大きかったので、少々苦労した。
ふっふっふっ。これでもう、喉をうるおすことはできない。マラソン
をしている人が、「ああ、喉が渇いたな。あの公園で飲むとするか」と思
い、ここへやって来るのだ。そして愕然とする。ひざまずき、両手を大
地にあて、荒く呼吸をするが、誰も助けてはくれない。
「水、水をくれ。頼む、私はもう、倒れそうなのだ」と嘆き悲しんでも
救いはない。砂漠だ! そして現れたオアシスは幻なのだ。
その公園には、もう一つの悪夢を実現させるためのものはなかった。
俺は根気よく探した。別の公園でそれを見つけた。すべり台だ。俺は色
とりどりのゼリーを、ついていたプラスチックのスプーンで、できるだ
け形をくずさないように慎重に取り出してすべり台の下に並べた。その
作業には結構時間がかかった。
純朴な子供に大きなトラウマを与える、悪夢の仕掛けだ。「わーい」と
言いながらすべってきた子は、ゼリーに気づき青ざめるのだ。だがもう
遅い。甘い、やわらかな天使のお菓子が、別の側面を見せた時、子供は
裏切られたことに気づき、そのショックは一生心に刻まれるのだ。足で
着地できればまだ被害は少ないが、とっさの判断ができなければ、お尻
に怖気をふるう形態と化したゼリーが大量に付着するのだ。
「あっはっはっ。あーっはっはっ」
気がつくと、私は畳の上に寝転がっていた。テレビがついたままにな
っていた。
すべては夢だったのか? そうだ、そうとも。私があのような悪魔の
行いをするはずがない。
そばに薬の説明が書いてある紙があったのでつかみ上げ、読んだ。総
合感冒剤の副作用の記述に、「眠気」とあった。