#5418/5495 長編
★タイトル (AZA ) 01/02/27 23:01 (199)
そばにいるだけで 57−6 寺嶋公香
★内容 16/10/07 04:20 修正 第2版
一つ目は、香村とのこと。
(香村君とは、当分、関わり合いたくない。それを今、付き合いを認めるよう
な発言をするのは、たとえポーズだけでも気乗りしないな……)
二つ目は、相羽への想い。こちらの方が、より重い。
(もしここで写真のことを認めて、その話を天童さんがあとで相羽君に伝えた
ら、どうなるんだろう……。相羽君は分かってくれていると思うけれど、それ
でも、そんな状況を作るような真似はしたくない。しない)
最初から結論は出ていた。
純子は柔らかく微笑して、軽く息を吸い込み、吐き出した。
「あの写真の子は、確かに私よ」
「え、じゃあ、やっぱり――」
先走る天童を、純子は首を横に振って、穏やかに止めた。
「でも、説明文の方は全くのでたらめ。香村君とは単なるお友達で、付き合っ
ているわけでも何でもない」
「本当に? 実は恋人同士だけれど、大騒ぎになるから、秘密にしておくため
に、嘘の説明をしてるとか、ない?」
「ないない」
不愉快さを押し隠し、純子は苦笑いで応じた。手を横に振る動作のあと、付
け加える。
「仮にそうだとしてもさ、恋人が外国に行って、帰ってくるのをずっと待って
いるなんて、私には無理。我慢していられないと思う」
「ああ、分かる」
わざわざ相羽を追って、旅してきた少女には、とても同感できることに違い
ない。しきりにうなずき、両手をかみ合わせた。その手の有り様は、願いがに
じみ出るかのよう。
会話が途切れたところへ、相羽が姿を見せる。
「お待たせ。焦って、ボタンをはめるのを一段間違えて、手間取った」
紺色をしたブレザーコートを羽織り、その下は柄の入ったグレーのセーター、
いや、ベストか。
内心、安堵する純子。相羽がこの格好なら、自分一人がエリオット宅で浮く
という事態はない。
「そっちは準備いい?」
二人の返事、「ええ」と「うん」が重なった。
純子と相羽は自転車を押して、天童は徒歩で、駅に向かう。
生活道路ならまだしも、歩道を行くときは横に三人が並ぶわけにいかず、純
子が一歩引く形になる。
前方でお喋りが弾む相羽と天童を見ていると、知らず、何度かため息をつい
た。別に、辛いとか胸が痛いとか、そういった感情は起きない。それよりも、
さっきから違和感を覚えていた。
(何だろう……相羽君の表情が、いつも私が見てるのと、ちょっと違うような
気がするんだけど)
うまく言葉で説明できない。ただ、特に笑顔のとき、相羽がいつもと異なる
表情をしているような。
(気のせいかしら)
そう思い込もうとしたものの、感覚が否定する。相羽が純子の前で見せる屈
託のない笑顔は、今、すぐ先にあるものとは種類が違うよう。
「あ、相羽君」
純子は遠慮がちに声を掛けた。買い物をしなければならないことを、不意に
思い出したのだ。
何?という具合に、肩越しに振り返った相羽。歩く速度を落として、今度は
純子の横に並ぶ。
「そこまでしなくていいのに」
つぶやきつつ、純子は買い物の件を簡単に伝えた。
「忘れてないよ。向こうの駅で降りたあとでも、間に合うと思う」
「それなら」
安心して、純子はまた一歩下がった。相羽が一瞬、つまらなさそうに口をす
ぼめたが、すぐさま天童との会話に戻る。
「明日も明後日も、忙しいの?」
「うん……道場とかマンションで餅つき大会があって」
そんなやり取りが断片的に聞こえた。
マンションからの最寄り駅に到着すると、純子と相羽は自転車置場に自転車
を入れ、天童とともに改札をくぐった。行き先は上りと下りで反対なので、先
発になる天童を見送るために、陸橋を渡った。
「次、いつ会えるか分かんないのが、残念だわ」
「明日明後日も、ちょっとぐらいなら時間あるから、事前に電話をくれたら、
何とかなるかもしれないよ」
「期待を持たされても、その餅つきがいつ終わるか分からないんじゃあ、望み
薄ね。でも、またいつか来るからね」
相羽と言葉を交わし、だいぶ元気を回復した様子の天童。彼女を見て、純子
もどこかほっとしていた。
「それから涼原さん」
かかとを軸に、身体の向きを若干ずらす天童。純子は慌てて「はい?」と返
事した。
「知り合えてよかった。何だか、芸能人の友達ができるって、凄い感じ」
「凄くないよ〜」
周囲を多少気にしつつ、苦笑いを返す。
「もっともっと、売れて、人気出てちょうだいね。そうしたら、私も友達に自
慢できるし。ははは」
「しょうがないなあ。一生懸命やるから、天童さんも応援してよ」
最初の出会いのぎこちない雰囲気が嘘みたいに、互いに打ち解けた態度で話
せる。それだけでもよかったと思える。
「あ、私の方、来るみたい」
アナウンスのした方向を振り返る天童。相羽に向き直ると、寒そうに両手を
合わせた。
「最後に、握手して」
「うん? いいよ」
相羽が右手を差し出すと、天童はそれを両手でしっかり、握りしめた。暖か
さを感じておこうとする風に、そのままのポーズを続ける。
「天童さん。もう入って来る」
「ぎりぎりまで、こうさせて」
短い間うつむき、次に顔を起こしたとき、天童は相羽の目をじっと見つめた。
電車が入ってきて、車輪がレールを転がる音やブレーキ音で賑やかになる。
「今日は短い間だったけれど、話ができて楽しかったわ。さよなら」
「さよならもいいけれど、ここは、またね、でしょ」
相羽がとぼけた調子で注意すると、天童はその瞬間、何度か瞬きを繰り返し
た。そこから次に、満面の笑みに変化する。
とうとう、電車が止まった。
「じゃあ、またね!」
ドアが開くのに合わせ、天童は威勢よく言った。そしてまだ名残惜しげにし
つつも手を離し、きびすを返すと、車輌内にジャンプ。再度、きびすを一八〇
度回転させて、フォームに向き直る。
「相羽君も涼原さんも、ありがとね」
「こっちこそ――」
相羽や純子が返そうとした言葉は、閉じたドアに遮られた。でも、コミュニ
ケーションは続く。声が届かなくても、表情や仕種でできる。
線の内側に下がるように、改めてアナウンスがあった。寂しさと嬉しさの混
じった天童の姿が、横に動き出す。相羽は立ち止まったまま、身体の向きだけ
換えて追いながら、手を振った。純子は二、三歩進んで、やはり同じように手
を振った。
電車の最後尾が、小さな点になった。相羽が純子に言った。
「行こうか」
「うん……」
相羽の方を向く。そして、表情を見てみる純子。
(――これよ)
自分に向けられる相羽の表情が、あの笑顔になっていた。
駅までの道のりや、プラットフォームに出てからの出来事を思い返すと、相
羽が天童のことをどう思っているのか、余計に分からなくなった。
(やっぱり、みんなに優しいのかなあ。でも……もしも、相羽君のこの笑顔が
特別なものだとすれば)
陸橋を昇り、渡る間も、相羽の背を見つめる。
(私にしか見せない表情だとしたら、相羽君は、今でも私のことを……?)
階段を降りきり、プラットフォームに立つと、いいタイミングで電車が入っ
てきた。
急に頬が火照っていた純子は、暖房の効いた車内に入ると、ますます熱っぽ
くなってしまった。
思っていたほど、時間的余裕は作れなかった。エリオットへ何を持って行く
か、ゆっくり選べない。
「駆け足なら、三分ぐらい稼げるかもしれない」
「でも、息を切らして、玄関前に立つのもねえ」
ショッピングモールの中をあちこち移動し、店先でそんなやり取りをしなが
らも、一生懸命考え、選ぶ。
「ヒントがないと難しいわ。ねえ、相羽君。エリオットさんの趣味とか好みと
か、知らないの?」
「うーん」
腕組みをしてみせた相羽。どこか芝居がかっているその様子を見て、純子は
期待薄かなあと、ため息をついた。
だが、相羽はすぐ答えた。
「シフォンケーキが大好物だけど」
「シフォンケーキ。いいじゃない」
「でもさ、クリスマスの今日、きっとシフォンケーキを用意していると思う」
「あ、それもそうね。とりあえず、みんなでつまめるようなお菓子でいいかな
と、思い始めたんだけど」
「そうだね。――あ」
不意に小さく叫んだ相羽に、純子は顔を向けた。
「どうかしたの?」
「時間があったら、僕らでクッキーを焼けば、すんだのに」
「そっか。そうよね」
後悔する合間にも、時はどんどん過ぎていく。結局、和菓子の詰め合わせを
購入して、急ぎ足で建物を出た。
「ここから何分ぐらい?」
「単純計算をすれば、七分ほど」
「よかった。それなら、間に合いそう」
早足は変わらないものの、少し、安心できた。そこへ、先を行く相羽から、
独り言めいた声が届く。
「問題は、迷ったときだな」
「ええっ? 大丈夫よね?」
肩越しにちょっとだけ振り返った相羽の顔が、いつもみたいに笑っている。
焦りの色をなしていた純子の表情が、見る間にむくれた。
「もー!」
距離を詰めて、背中を叩いてやる。相羽は、「あんまり揺らすと、形が崩れ
るぞ」と、手土産の入った紙袋を掲げた。
大学の用意した職員住宅は、コンパクトな平屋だった。独身者が住むには充
分な空間だろうが、広い家に慣れているはずの欧米人にとっては、やや手狭か
もしれない。
「だいぶにぎやかだよ」
時間に間に合ったことを確認しながらも、不安の声を上げる純子。無意識の
まま、相羽の肩に手を添え、揺さぶる。
「平気だって」
苦笑混じりに答えた相羽は、ためらう様子もなく、門柱にあるブザーを押し
た。すると、びりびりとしびれるような音が、家の外にまで聞こえた。
続いて足音がする。徐々に大きくなっていく。防音設備は、よくないようだ。
玄関のドアが細く開き、長い金髪の持ち主が、目から上だけを覗かせる。
「あれ?」
純子は思わず、短く叫んだ。相羽も、多少は意外そうに、目を見開き、口元
を一段と引き締める。
「ああっ、信一に純子! ようこそいらっしゃい」
英語の高い声。ドアが大きく開かれると、水色をしたドレス姿のニーナ=カ
レリーナが現れた。胸元を飾るアクセサリーが、瞬間、光を反射する。
「やはり、ニーナさんもいらしてたんですね」
相羽が当然のように受け止め、英語で返す。
(そっか。ニーナさんもJ音楽院の出身だから、エリオットさんの家に来ても、
おかしくない。むしろ、折角日本に来ておいて、会わない方が不自然だわ)
頭の中で納得して、静かにお辞儀する純子。白状すると、ニーナが早口過ぎ
て、最初に何を言ったのか、聞き取れたのは「信一」「純子」のところだけだ
ったのである。
「門を開けて、入ってきて。エリオット先生を始め、みんなお待ちかねよ」
「はい。失礼します」
相羽は腕を伸ばし、鉄柵の内側の閂を外した。自然な流れで、柵を引き開け、
純子を先に入るよう促す。
「あ、ありがとう」
相羽は何も言わなかったけれど、目が、「どういたしまして」と優しげに物
語っていた。
純子は赤面したのを自覚した。かぶりを振り、頬を両手の平でこすって、ひ
とまず忘れようと努める。
――つづく