#5413/5495 長編
★タイトル (AZA ) 01/02/27 23:00 (185)
そばにいるだけで 57−1 寺嶋公香
★内容
純子は演奏が終わるまで待たなければならなかった。待ちきれないのを、必
死に辛抱し、仮面のピアニストを斜め後ろから見つめる。前に回らなかったの
は、彼に無用のプレッシャーを与えてはいけないという気持ちが、無意識に働
いたせいかもしれない。
(間違いない)
接近して、確信を持つに至った。何故ここにいるの?という疑問を、幸せな
感情が圧倒的に上回る。
まだ終わらない曲。レッスンで自分が歌っているときも長く感じることがあ
るが、それに匹敵するくらい長いような気がする。
純子は鷲宇の姿を探した。あの人の仕掛けに違いない。できることなら問い
詰めて、はっきり認めさせれば、少しはじれったさも解消するだろう。だが、
そこまでしている時間もまたなさそうだ。第一、くだんのアーティストはどこ
かに隠れでもしたのか、見つからない。
いじいじする内に、ようやく最後まで弾き終わった。
純子は、引き続いて二曲目に入らないことを願いながら、ピアニストから見
える位置に回った。彼の目を覗き込むような視線を投げかける。
目が合った。
仮面のピアニストは、純子の予想に反して、まるで動揺したそぶりもなく、
椅子から静かに離れる。聴衆に挨拶するのかと思ったら、そうではなかった。
純子のいる方向へ真っ直ぐ歩み寄ってきて、舞台縁で跪くと、手の平を上にし
て右腕をすっと出す。
反射的にその腕を取ろうとしたとき、声がした。
「マジックだけじゃ飽きたらず、ピアノにも興味がおありですか。目立ちたが
りのお嬢さん?」
びっくりしたのは純子ではなく、仮面のピアニストの方。純子に向いていた
視線を、心持ち起こしてきょろきょろする。
だって、喋ったのは彼ではないのだから。鷲宇だ。どこにいるか分からない
が、タイミングよく当てレコの要領で台詞を差し挟んできたのである。
「かまわないよ。デビュー曲のお披露目と行こう」
鷲宇がさらに言いながら、舞台袖から現れた。ニーナも一緒だ。
思いも寄らない成り行きに、右へ左へと目線を動かし戸惑う純子へ、仮面の
ピアニストが改めて手を差し出した。今度は両手だった。
「さあ」
「え? こ、ここから上がるの?」
舞台に上がることは、もはや既成事実となってしまったよう。
「大丈夫。しっかりつかまって。引っ張り上げる」
長めの台詞を聞くと、いよいよはっきりした。
純子は任せた。腕を取ってもらうと、ほぼ同時にふわりと持ち上げられた。
まるで合気道の技みたいに、独りでに飛んだ気分。
「痛かった?」
「ううん。全然」
裾の布地の乱れを直しつつ、素で答える。すると相手の口は、安心したよう
に微笑んだ。
それを目の当たりにして、純子は初めて名前を呼んだ。
「相羽君こそ、力を込めて、大丈夫なの? 手に負担を掛けると――」
「今の僕は、名前のないピアノ弾きに過ぎないんだ」
「え? 何のことよ、それ?」
純子が囁く調子で聞くと、名を持たぬピアノ弾きは、マスクに指先で触れた。
「何のためのこれなのか、分からなくなる」
得意げに澄ます相羽に、純子は小さく肩をすくめてやった。
「ばればれよ、それ」
「そうかな? 鷲宇さんは、全然分からない、見事な化けっぷりだと言ってく
れたんだぜ」
相羽はさも不思議そうに唇を尖らせ、やはり肩をすくめた。分かっていなが
ら、あえて言っているのかもしれない。
純子は自信たっぷりに応じた。
「まあ、私だから分かったのかな――なんてね、あはは」
「だとしたら、最高に光栄だね」
相羽も軽妙に応酬する。今日は二人とも、やけに口が滑らかなようだ。相羽
の装着したマスクのせいかもしれないし、独特の雰囲気を持つクリスマスイブ
のなせる業かもしれない。
「話は終わったかな」
鷲宇が静かに割って入った。普段に比べると、少し大人ぶろうとしている感
じがあった。多分、保護者のような気分なのだろう。
純子がうなずくと、鷲宇はニーナに目で合図を送った。ステージのバックに
あった幕が引かれ、もう一台のピアノが現れる。
そんな光景を前に、純子は小声で再び相羽に話し掛けた。
「あのニーナさんと共演なんて、あなた、緊張するんじゃない?」
すると何故か嬉しそうに相好を崩す相羽。共演そのものを楽しんでいるんだ
わと解釈した純子だが、次の相羽の言葉で、それは間違いとまでは行かなくて
も、若干的外れだったと知る。
「腕前の方は心配じゃない?」
「え? あ、そうか。そうよね。普通なら、腕前、段違いよね」
納得して、顔を赤らめながら頭をかくポーズ。でも、と顔を起こした。
「あなたのピアノが、私は好き。ニーナさんにも負けないわ」
「ありがとう。そう言ってもらえたから――震えが止まった」
両手の平を上に向けて、じっと見つめる相羽。本当に震えていたのか、純子
には分からない。恐らく、真実なのだろう。
「さあ、そろそろ行こうか」
鷲宇が声を一段、大きくした。
思いも寄らぬ形での初披露が終わった今、純子は控えの間にいた。相羽を追
いかけてきたのだ。
「どうして内緒で来たの?」
思い切って聞いてみる。知りたくて仕方がない。
見つめられた相羽はマスクを外して、多少上気した顔を覗かせていた。堅苦
しくて窮屈な上着を脱ぎ、適当なハンガーに掛けると、椅子に座った。
「今日、鷲宇さんから電話があって。時間が空いているのなら、出てみないか
と誘われた。……いや、違った」
顎を引き、少々考える風な相羽。
「『時間が空いているのなら、出よう』と言われたんだ」
鷲宇らしい言い回しだと感じる。しかし、それよりも純子には気になる点が
あった。
「今日? 随分、急な……それじゃあ、出るか出ないか、迷ったんじゃない?」
「すぐ決めたよ」
即答で明言する相羽。
「迷う暇なんてないくらい、急だったからね」
「断る気はなかったってわけ?」
「鷲宇さんの言う通り、時間が空いていたから」
「でも……昼間、私が電話したとき、車に乗ってた。おばさまと一緒にどこか
に行く途中だったんでしょう?」
「……元々、仕事先への挨拶回りが色々あって、出かける前に鷲宇さんから電
話があったから、僕も連れて行ってもらうことに」
「じゃあ、おばさまもいらしてるのね?」
相羽は黙ってうなずいた。
「今、どこ?」
「さあ? 舞台に立つ前は、市川さん達と話をしていたな」
「市川さんも来てるの? 全然知らなかった!」
「去年、蚊帳の外に置かれたのが、よほど嫌だったみたいだね。時間がなかっ
たから詳しくは聞こえなかったけれど、純子ちゃんの来年の仕事について、話
し合っている様子だったよ」
「そっか」
ひとまず納得して息をついた。が、それも束の間、根本的かつ最重要な疑問
の方が、解消していない。
「あの、純子ちゃん。そろそろ普通の格好になりたいんだけど」
着替えたい旨を告げる相羽の声が聞こえなかったか、純子は椅子を持って移
動し、彼の近くに置くと、背もたれを胸で抱え込む風にして座った。
「ね。本当に予定なかったの?」
「う、うん。エリオットさんのところへ行くのは、明日だし」
「じゃあ、今日来たのは暇つぶし?」
「そんなことは……。鷲宇さんに言われたんだ」
「さっき聞いたわ、それは」
「そうじゃなくて、あの人の誘い方がね……『クリスマスプレゼントになって
みる気はないですか?』って」
「――あははは」
思わず笑ってしまったが、内心では嬉しくもあった。目尻に滲んだ涙を指先
で拭いながら、聞き返す。
「それで引き受けたの? 何をやるのかを聞いて?」
「まあね」
「ニーナさんと一緒にやると知って、よく引き受けたよね。恐い物知らずなん
だから」
「いっぱいあるよ、恐い物なら」
「ほんとにー?」
疑る目つきで見返す純子に対し、相羽は両手で髪をかき上げた。そして抜け
るような笑みを覗かせる。
「一番恐いのは」
でも、そのあとは純子をちらと一瞥しただけで、答はなかった。
「うん? 何?」
「さっきの演奏も、周りはプロばっかりだったから、恐いと言えば恐いよな」
「それは私も」
「何言ってんの。鷲宇さん、ニーナさん同様、君もプロでしょ」
指摘されても、しばし飲み込めないでいた純子。自覚し、頬をかく。気恥ず
かしさをごまかそうと、話題をずらした。
「で、でもさ、それならなおさら、相羽君は凄いよね。全然見劣りしない。見
劣りじゃなくて、聴き劣りしない、かしら」
相羽の目が若干見開かれ、驚いたように純子を捉える。
「唄ってる最中に、そんなことまで分かる?」
「ええ。それくらいは簡単」
「僕はなるべく、ニーナさんに合わせる……と言ってはおこがましいけど、目
立たないよう、邪魔にならないよう、弾いていたつもりだった。それを聴き分
けられるってことは、やっぱり僕の腕前が格落ちなんだ」
かなわないとばかり、首をすくめる相羽に、純子は間髪入れずに反論した。
「そうじゃないわ。何て言うか、特徴あるもん。ニーナさんの弾くピアノの音
は、女性にしてはとても力強くて、そう、全力投球。全力投球で、かつ技巧的
な感じがする」
「それは分かる」
首をしっかりと縦に振る相羽。純子は同意を得られたことに気分をよくし、
続ける。
「相羽君の音は、優しいの。技術で優しくしているんじゃなくて、本当に、根
っから優しい音に聴こえる。あ、もちろん、私には技術的なことは分からない。
ただそんな感じがするだけ」
「そうかな」
「そうよ。自分のことは分からないって、よく言うじゃない。今日の相羽君は、
優しい音のまま、精一杯背伸びしているように聴こえたよ。一生懸命で、とて
も合っていたと思う」
「合っていた?」
「私の歌に。私も背伸びしてたからね」
純子が微笑むと、相羽は今度は片手で髪をかき上げる仕種をした。
「純子ちゃんが喜んでくれたのなら、もう、何でもいいや。君へのクリスマス
プレゼントだったんだから」
「あ、お礼を忘れてた!」
そう叫ぶと純子は慌てて椅子を降り、相羽に対して、手を身体の前で揃えて
きっちりと頭を下げた。上体を起こすと同時に、また微笑がこぼれる。
「ありがとう」
「――どういたしまして」
相羽が、同じ種類の微笑を返した。
クリスマスイブの帰り道は、当然のごとく、相羽の母の車に乗せてもらえた。
「お腹空いた」
後部座席、純子の隣に座る相羽がこぼしている。純子と違って、パーティの
食べ物を口にする時間がほとんどなかったのだ。
「それじゃ……」
車が信号待ちをしたのを機に、相羽の母の迷った目が、純子に向けられた。
――つづく