#5391/5495 長編
★タイトル (AZA ) 01/01/12 11:53 (200)
クロス・ステッチ 1(訂正版) 寺嶋公香
★内容
台所へ食器を運んだ相羽が、何気ない調子でつぶやいた。
「すずちゃん、ちょっと」
この呼び方をされるようになって、かなり経つのに、純子はまだ慣れない。
以前の「純子ちゃん」も考えてみれば結構赤面ものだが、長年の積み重ねによ
り耳に馴染んでいた。「すずちゃん」に慣れるのはいつのことになるだろう?
今はだからせめてもの仕返しに――「何、信ちゃん?」と口にしてみたもの
の、当の相羽は平然と聞き流すのみ。言った純子自身が気恥ずかしい思いをし
ただけだったようだ。
(もう、何でもいいから反応して! 「相ちゃん」の方が効果あったかしら)
照れを隠して頬を膨らませた純子は、台所へ足を向けた。
流しの一点を軽く指差してから、相羽が再び口を開く。
「僕が留守の間に、他の人も来てたね? それも相当に親しい、左利きの人だ」
「え……どうして分かるのよ」
別に隠し立てするようなことではなかった。だが、不思議さのあまり、問い
返さずにいられない。同時に、目を皿のようにしてシンクを眺め渡す。特にこ
れと言って、普段との変化はないようだが。
「スポンジの位置が違う」
相羽が楽しげに答えた。推測が当たって喜んでいるらしい。この年齢になっ
て、まだ子供っぽいところが残っていた。
彼の指差す先には、緑と黄色からなる洗い物用のスポンジがある。
「僕は右利きだから、洗い物をする際、右手でスポンジを持つ。終われば当然、
正面の台に置く。台の向かって右側にね」
純子は相羽の言わんとすることを薄々勘付いた。だって今、スポンジは台の
左側にあるのだもの。
「置き易さから言って、左側に置くことはまずない。しかし現実にはスポンジ
は左側にあるよね。これは何を意味するのか。左利きの何者かが台所で洗い物
の作業をしたと推測できる。僕以外でここの台所を使う人は、すずちゃんと母
さんぐらいだ。だが、君も母さんも左利きではない。
また、この部屋に自由に入れるのは同じくすずちゃんと母さん。現在、母さ
んは出張中。先の何者かは、すずちゃんと一緒に部屋に入ったと考えるのが妥
当だ。故に相当親しい人物である。――どうかな、当たってる?」
芝居がかっていた相羽が、急に素に戻った。かすかに頬を赤くしている。や
はり照れはあるようだ。
「当たり。下手にお客さんを連れて来られないわね」
純子は半ば呆れ、肩をすくめた。でも、感心もする。
相羽の方は苦笑すると、遊びのついでとばかり付け足す。
「そして世間一般のイメージを言えば、女性である可能性が高い。すずちゃん
の知り合いで、左利きの女性。君を差し置いて洗い物をするからには、君より
年上ではない、かな。いや、逆もあり得るな」
「いくら何でも特定は無理でしょ。それより上着脱げば……」
「洗ったのは……小皿とティーカップ。僕が戻るのを待たずに帰ったというこ
とは、かなり忙しい人だね。それに事前に連絡がなかったのだから、僕の今の
連絡先を知らないか、大した用事じゃなかったか……」
「残念でした、名探偵さん。帰ったんじゃないのよ」
思わずにこにこしてしまう。純子は玄関口の方を見やった。
「じきに戻って来るわ。最後に会ってから何年経ったかな。結構、懐かしい人」
「懐かしい人――」
そのとき、最高のタイミングで玄関の扉をノックする音があった。静かでや
さしい叩き方だ。
「改めて、お邪魔します」
客人の声を聞いて、「――ああっ」と首肯する相羽。
「分かるの?」
純子が小声で聞き返すと、相羽は自信たっぷりに答えた。
「どうぞ、国奥さん」
相羽は土産のショートケーキの先を、フォークで小さく切り崩した。白いク
リームに包まれたケーキの欠片を口に運ぶ。
「買い直しに行ってもらうなんて、そこまでしなくても」
おいしいのだが気が引ける、そんなところか。
「だって、私のせいで一個だめにしてしまったんだもの」
国奥がかすかな笑みとともに言った。その語尾に被さる形で純子が続ける。
「あれは私が悪かったの。お盆運ぶときに、ケーキの入った箱をテーブルの外
に押し出してしまって」
「いいえ。私が全部退けてないのに、『持っていっていいよ』って言ってしま
ったからだわ」
女性二人がかばい合うのを前にし、小さく息をつく相羽。
「分かった。二人して一つのケーキをだめにしたことは分かりましたから、二
人とも納得して」
相羽は苦笑しながら言ったあと、紅茶で口を湿した。湯気が顔の前に薄いカ
ーテンを作る。そんな様子を見て、純子達も弛緩したように笑い合う。
思い出話やその後の身辺報告にひとしきり花を咲かせ、ケーキを半分ほど食
べたところで、相羽は切り出した。
「国奥さん、どんな用事があって来てくれたの? たまたま寄ったというわけ
じゃなさそうだね」
「聞いてもらう前に……お邪魔じゃないかしら?」
心配げな口調の国奥は、顎を引いて上目遣いに相羽と純子を順番に見やって
きた。察した純子は、両手の平を合わせて首を横に振る。
「ううん、大丈夫。私も信一……相羽君も。ね?」
下の名前で呼びそうになったのを、慌てて言い直す。純子が相羽と付き合っ
ていることは、国奥にもとっくに知られているだろうと思うのだが、それでも
まだ恥ずかしい。
「うん。暇で暇で」
純子の同意を求める呼び掛けに、相羽は嘘を交えて応じた。少し時間が空い
ているのは事実だが、「暇で暇で」と言えるほどではない。
だけど、久々に再会できた友達をむげに扱うなんてこと、二人ともはなから
考えもしなかった。
国奥は面を起こし、唇を嘗めた。しばらくの逡巡の後、ゆっくりと口を開く。
「実は……ちょっとした相談があるの。こんなこと持ち込まれても、迷惑なだ
けかもしれないけれど、他に頼れそうなところを思い付かなくて」
「国奥さん、ストップ。そういう前置きはずるいよ。とにかく話してみて」
相羽の早口の忠告に、一旦は口をつぐんだ国奥。だが、純子と目を合わせる
ことで、やがて頬が緩んだ。
「気兼ねしないで話してみて。心配いらない」
純子が言い添えると、国奥は思い切った風に始めた。
「私の友達に関することなの。別当妙子(べっとうたえこ)さんと言って、気
が合うの。同じクラブに入っていて、私と同じ左利きだから、使う道具も共用
だし……あ、クラブは手芸部ね。それで、別当さんはクリスマスに合わせてセ
ーターを編んでいたのだけれど……」
言い淀む国奥。本当に第三者に話していいものかどうか、ここに至って迷い
が生じたのかもしれない。
だけど、今度は誰の後押しも必要なかった。決心したように国奥が表情を引
き締める。
「完成目前で紛失し、引き裂かれて見つかった……のよ」
「えっ」
声を漏らしたのは純子一人だった。相羽は口を閉ざしたまま、目つきが若干
険しくなる。とにかく国奥の話の続きを待とうという姿勢か。
「誰がこんなことをしたのか分からなくて、何だか不気味で……。別当さんも
ショックで参ってしまってるようだし、はっきり言えば部の雰囲気がよくない」
「僕にどうしろと」
ぼんやり眼で問い返す相羽。
「誰がこんなひどい悪戯をしたのか、突き止めてほしい……相羽君だったら、
できるんじゃないかしらと思って」
「悩みの相談と言えなくもないけどさ、これじゃまるで探偵の仕事だよ」
「そう、相羽君を頼ったのは、そこなの。ほら、小学生のときから推理劇の台
本書いたし、誘拐事件を未遂で食い止めたわ。知識だって豊富でしょう?」
目を輝かせるように言う国奥に対し、相羽は右手の親指と小指で自らのこめ
かみを押さえた。
「推理劇を書くのと探偵の能力は別物だよ。誘拐事件……あれは運がよかった
だけ。謎解きに当たって知識は多いに越したことはないだろうが、知識豊富だ
からと言って探偵能力があるとは限らない」
「ちょっと」
相羽の横へにじり寄り、肘で脇腹をつつく純子。
「何?」
「あなたこそずるいわよ。高校のときのあの大事件、解決に導いたじゃないの
よ。探偵能力がないなんて、言わせないから」
純子の詰問調に、困ったように手を浮かせ、やがて頭をかく相羽。
「あれは地天馬さんのおかげで……」
「それでも、あなたも貢献したでしょ。素直に認めなさいっ。ぐずぐず言わず、
引き受けるの」
相羽を指差し、牽制しておいてから、純子は国奥へと笑顔で向き直った。そ
して高校時代の事件についてざっと話す。
「知らなかった……」
国奥に感嘆と驚愕が一度にやってきたようで、唖然としつつも、表情は明る
い方へ回復している。
純子はだめ押しとばかり、先ほどの一件を話すことにした。
「だいたいね、相羽君たら推理するのが好きなくせして、どうしてそういうこ
と言うのかしら。さっき国奥さんが出ていたときだって、スポンジの位置から
左利きの人が来たことを推理で当てて、喜んでいたのよ」
国奥に向かって微笑みかける純子。すると隣の相羽は「了解しました」と、
やれやれとため息でもつきそうな調子で言った。
「絶対解決するなんて言えないけれど、最善を尽くすことを約束するよ」
「ありがとう、相羽君」
「感謝は解決できたときに取っておいて。改めて、状況を教えてほしい」
頭を下げる国奥に、相羽は手を振り、続きを求めた。
国奥がそれからした話に寄れば、あらましは次のようになる。
十二月始めの冷たい雨が降った日、手芸部の面々は迫ってきたクリスマスに
向けてスパートをかけていた。部員の中で、別当は最も順調に進んでおり、午
後五時半になって、いつものように帰り支度を始めた。他の部員の大半は居残
るなり、家に持ち帰るなりして、遅れを取り戻す必要があった(国奥は持ち帰
り組だった)が、別当は違った。天気も悪いし、部室に置いて帰ることにした。
異変が発覚したのは、翌日の昼休みの時間。国奥を含む他の部員とともに部
室に来た別当は、編みかけのセーターの紛失に気付いた。自分のロッカーに閉
まっておいたのに、跡形もなく、それこそ編み棒ごと消えていた。
それからは大騒ぎになり、まず、他になくなった物がないか、確認が行われ
た。結果、別当の編み物以外は無事と分かったのだが、安堵していられない。
部室にはドアと窓が一つずつあるが、いずれも施錠されていた。ロッカーにこ
そ、鍵は掛けられていなかったものの、何者かが部室に侵入し、別当の編み物
を持ち去ったのは厳然たる事実。
各クラブの部屋の鍵は、学生課で一括管理されており、借り出すことができ
るのは、登録された部員にのみ。それも、学生証の提示を持って、学生番号を
確認、コンピュータで照合の上、手続きがなされる。学生課の担当者と部員の
他、部の顧問及び警備員が必要に応じて持ち出せるが、それ以外で鍵を手にで
きる者は、考えられない。
一方、部のドアの鍵は壊されておらず、窓の方にも異変は見当たらなかった。
必然的に、部員の中の誰かが密かに持ち出したのではないかという疑念が、
部全体に広がり始めていた。
結局、別当の編み物はその日の夕方、学校のグラウンドの周りにある溝に、
押し込まれるようにして放置されているのが見つかった。しかも、鋏か何かで
切り裂かれた状態だった。
部の雰囲気はますます悪くなり、一年生部員の中には、動転したのかそれと
も別当に気兼ねしたのか、折角編めていた箇所をほどいてやり直す者も何名か
出る始末。現在ではそれも収まり、表面上は静かになったが、事件は未解決の
ままだし、別当も編み物を再開していない。しこりは残った。
「これからストレートに尋ねていくけれど、もし気分を悪くしたら、すぐに言
ってほしい」
相羽が言うと、国奥は「かまわない。遠慮なく聞いて」と、覚悟を決めた風
に唇を噛みしめた。
「それから、どんな結論が出ようとも、国奥さんの手芸クラブが元の雰囲気を
取り戻すのには、大して役立たないと思う。まだ何とも言えないけれど、謎解
きとは別問題だと考えておいた方がいいと思うんだ」
「分かったわ」
「うん。じゃ、最初に確認しておこう。鍵の貸し出しの記録は、学生課に残っ
ていないのかな」
「あ、それは私達も気付いたのよ。だけど、遅くて……。一週間経てば、記録
は消去されてしまうの。担当の人も覚えていなかった」
「うーん、残念。確認がもう一つ。溝から見つかったという編み物は、別当さ
んが編みかけていたセーターに、間違いないんだね」
「もちろんよ。本人が手に取って確かめたし、私達だって、目で見て、同じだ
と分かったから」
「ん、ありがとう。それじゃ……別当さんの編み物を隠し、滅茶苦茶にするこ
とに、何か意味があったのかな。たとえば、別当さんの完成を遅らせたかった
のだろうか。遅らせたいのだとすれば、その理由も必要だね。どちらが早く編
み上げるかで賭けをしていたとか、同じ男性に想いを抱いており、遅れていた
方が別当さんの邪魔をしたとか」
「そこまで子供子供していないわ。いくらエスカレーター式の学校だからって」
微苦笑混じりに答えた国奥。
「だったら、動機は何だろう? 妬みなんて、考えていいのかな。別当さんの
腕前に嫉妬して……」
――つづく